#15:第3日 (9) 盗聴する女

【By オペラ歌手シンガー

「マルーシャ・チュライ!? マルーシャ! ウクライナの歌姫ディーヴァ! 彼女に会わせるだと。そんな、まさか!」

 これは誰の声だろう。兄のファルカスか、弟のフェレンツか。神経質だが、自己陶酔的な声。身長はおそらく高くて、痩せているだろう。そして、唄うことに慣れている。おそらく、詩を朗読するのが好きなのだろう。では、詩人のファルカスか。

「僕も信じられないくらいだが、しかし、マルーシャ・チュライは確かに今、ブダペストに来ている。歌劇場オペラハースに聞いたから間違いない。そしてフュレプは彼女とマルギット島で会ったと言うんだ。そうだろう、フュレプ?」

 歌劇場オペラハースと関わりがあるということは、この声が作曲家のフェレンツなのだろう。情熱的だが、臆病さが混じっているように聞こえる。身長はおそらく低くて、痩せているだろう。女性に対するときは、違う声を使うに違いない。

「ああ、そうだ」

 これはフュレプの声。

「ビアンカ・ミノーラとも会ったと言っていたな」

 ファルカス。

「そうだ」

「確かに、彼女もお前のことを知っていたようだった」

「島を散策しながら、少し話したからな」

「お前が彼女たちに声をかけられたことが不思議だよ」

「偶然だったんだ、どちらも。僕は野外舞台ステージにいただけなんだ。そこに彼女たちが現れた。もちろん、別々にだが」

「偶然とはとても思えないな」

「何と思ってくれても構わない」

「ビアンカとのことはもういいだろう。マルーシャとは? 彼女と何の話をしたんだ」

「彼女を絵のモデルにしたいと言った。彼女そのものを描くわけじゃない。彼女のイメージを、『西風ゼピュロス』のフローラに投影しようと思ったんだ。彼女とは最初、一目会っただけで、そのとき見たイメージを使うつもりだったが、昨日、偶然また会えたので、それで……」

「昨日もマルギット島にいたのか?」

「それも偶然なんだ」

 彼はそう思っているだろうけれど、偶然ではない。私は彼がそこにいるだろうと思って、行った。思ったとおりだった。それだけのこと。彼らは、自分たちがゲームの中の登場人物であることを知らない。ある条件の下に、特定の行動を取らされていることを気付いていない。

 だが、ここでそんなことを考えるのはよそう。私だって、そのシナリオの中の一部に過ぎないのだ。

「それで、フローラに投影する試みは成功したのかい?」

 フェレンツ。

「したよ。少なくとも僕の中では」

「警察はそれでいいと言ったのか」

「最初から、僕が納得するかどうかだけが問題だったんだ」

「マルーシャには見せた?」

「見せたよ。彼女もいいと言ってくれた」

 私に別の模写を渡したことは言わないつもりのようだ。私も明日、彼らに会見するときは、そのことに触れないでおこう。

 しかし、これではフュレプが持っているはずの、他の模写をどうするつもりかが解らない。警察はもしかしたら予備を欲しがるかもしれない。他の競争者コンクルサントは? もうしばらく盗聴を続ける必要がありそうだ。

 別のイヤーフォンを使って、警察の方も聞く。

「館長は納得したのかね」

 パタキ主任刑事の声。部下に対して横柄に接するが、責任感は強い。一般人には気取った態度を取るが、女性に対して甘い。

「はい、よい出来映えと言っていました。もちろん、彼女にも特徴を教えて、見分けられるようにしています」

 女性の刑事。真面目で沈着冷静だが、男性と付き合った経験が少ないだろう。もしかしたら、男の競争者コンクルサントが接触したかもしれない。

「その見分け方は?」

「木曜日の開館前に、説明します。ピスティにもまだ言っていません」

「館長以外には何か言ったか」

「言っていませんが、私たちが絵を搬入している様子を、何人かの学芸員が見ています。もちろん、絵自体は見せていませんが、気付いた者はいるかもしれません」

「閉館後にすればよかったんだ。早く持って行く必要はなかった」

「申し訳ありません、私も後で気付きました。ですが、署には適当な置き場がなくて……」

「私もそのとき不在にしていたのはまずかったな。今はどこに置いてある?」

「バックヤードの、『西風ゼピュロス』を置いてあるはずの場所です。一部の学芸員に、そう思い込ませている……」

「それはそれとして、本物の置き場所を早く用意するよう、強く言っておいてくれ。いつまでもこちらに置いておくわけにはいかない。環境のせいで劣化したなどと言われたら困る」

「彼女も早く引き上げたいとは言っているのですが……」

 男性の刑事がいるはずだが、声がない。探してみよう。

「……それで、これが木曜からの警備員のシフトで……」

 この声が? 聞き覚えがある。プールで、私に話しかけてきた……あの男はキー・パーソンではないと思ったのに、キー・パーソンだったようだ。私の勘はかなり鈍っているらしい。接触しておけばよかった。でも、もう遅い。

 今日の美術館ガレリアでの窃盗事件は、女の競争者コンクルサントが関係していたはず。ならば、彼女は男性刑事に接触してしまった。きっと手懐けたことだろう。仕方ない。男性刑事のことは諦めよう。だが、主任刑事の方も、いつまでも私の手元に置いておけるかどうか……

「!!!」

 いきなり、後ろから抱きすくめられた。反射的に、身体をかがめて投げ飛ばそうとしたが、足を掛けられて阻止された。完敗だ。近付いてきた気配は、全くなかったのに。

 男のように逞しくはないが、女のように柔らかくもない腕。前に回した手が、私の胸のふくらみを優しく掴んでいる。そして耳元に、柔らかく息を吹きかけてきた。プラムシルヴァ・パーリンカの甘い香り。

「今からここに忍び込むの?」

 ジゼル・ヴェイユ。いつの間に来たのだろう。彼女がバーで、彼と飲んでいるのを確認してから出てきたのに。

「いいえ、まだ何の用意もないのに」

「じゃあ、どうしてこんなところにいるのさ」

 ブダ城のある丘、美術館ガレリアの花壇の前。私だけではない。夜景を見に来た人がいくらかいる。多くは東側、川の方だが、西から町を見下ろそうとしている人も少しだけ。

「偵察」

「それだけかな。盗聴器の声を聞いてたんだろう? 電波が近くまでしか飛ばせないタイプで、録音しかできなかったんじゃないの」

「ええ、それも」

 見抜かれている。しかし、私が2ヶ所に仕掛けたのは気付いているかどうか。

「安心してよ。聞かせてなんて言わないからさ。僕が聞きたいのはアーティーの声だけなんだ。君の声ももちろん好きだよ。さっきまで彼と飲んでいて、誘惑してみたんだけど、やっぱり失敗した。僕のこと、好みじゃないのかな。どんなタイプが好きなんだろうね。君みたいにグラマーな人?」

 言いながら、私の胸を掴んだ手を動かす。

「彼の配偶者エプーズはスリムで小柄な人よ」

「そうだろうね。電話の声では、可愛らしい人のように聞こえた。アメリカ人って、ハスキーな声の女性を好むって思ってたんだけど、彼は違うんだね」

 それは私も気付いていた。しかし、裁定者アービターにはそのことを憶えさせていない。それに、彼がリタを愛したのは、容姿や声だけが理由ではないだろう。それはヴァケイション・ステージ内のイヴェントのせいに違いないが……

「それで、いつ忍び込むの?」

「まだ決めていない。決定的な情報がないから、決められない」

「うん、まだ水曜日だもんね。でも、安心して。もう一度言うけど、僕は君の邪魔なんかしない。でも、手助けもしないよ。アーティーにももう手は出さない。僕は振られたんだ。とても悲しいよ。君に慰めて欲しいくらい」

「ごめんなさい、私には時間がないわ」

「じゃあ、他の競争者コンクルサントにしようかな。でも、男性の方は何となく怖いんだよ。格好良くボーて、明晰クレールなんだろうけど、怖くて仕方ないんだ。君はそんな風に思わなかった?」

「まだそこまで解っていないの」

 いいえ、私もあの男に同様の雰囲気を感じた。“獰猛さ”、それが私の印象。そして女の方には“狡知”。もちろん、その二つは私も持っている資質なのだが……

「僕は女性の方がよく解っていないんだ。でも、君みたいに好きになれるか、はっきりしないんだよ。でも、それを確かめている時間もない。明日も世界遺産を見に行くんだ。ホルトバージ国立公園、トカイと、アグテレク洞窟。みんな東の方。今日は、ホッローケーのことをアーティーに話したんだよ。明日は君が聞いてくれると嬉しいのに」

「どうしてそんなに私と関わり合おうとするの?」

「だって、僕と君は似てるんだもの。解るんだよ」

 それからジゼルは、ふうっと長く息をついた。胸を掴んでいた手は外れたが、まだ抱きすくめれている。

「解ってるんだよ。君はマルーシャであってマリヤじゃない。そして今の僕はジゼルであってジジじゃない。君の本当の名前を教えてよ」

 声に甘えたところがなくなった。初めて会ったときのジゼルと同じだった。

「今は教えられないわ」

「別のステージで僕と対戦するかもしれないから?」

「そうは考えていないけれど、自分のことを話す気はないの」

「一人で心に抱え持ったままでも平気なんだね。彼にも言っていない?」

「ええ」

「じゃあ、僕も聞かないことにするよ」

 ようやく私の身体は解放された。顔だけ振り向いて、彼女を見た。暗くてよく見えないはずなのに、彼女が穏やかな笑みを浮かべているのが判った。中性的でも、男性に近い方の笑顔。

「でも、ヴァケイションって不思議だね。のんびりしていていいはずなのに、他の競争者コンクルサントのことが妙に気になるんだ。会いに行っちゃいけない、邪魔しちゃいけないって、解ってるのにさ。それとも、君とアーティーが特別なのかな。君は彼を特別に思ったことはない? 属性のことは別として」

「彼だけが特別とは思わない。でも、彼が他と何が違うのかは判らない。でも、それを知ることは私の目的じゃないから」

「冷静だね、君は。きっと心が強いんだ。僕は心が弱かったから、きっとここにいるんだよ。心の中の快楽に対して、抵抗がなさ過ぎた。今は、その心を失ってるみたいなんだけどね。それとも、無理矢理抑え込まれているだけのかな、この世界の支配者の力で」

 ジゼルが悲しい目をした。自分の罪を知りながら、自分を抑えきれなかった、後悔の念。

「……もし、ゲームを終えて、現実の世界に戻ることができたら、僕は……僕はまた、過ちを犯すんだろうか」

 私もそれを恐れている。私はもう一度過ちを犯すだろう。愛する男を、自らの手であやめる……

「戻った先の現実は、前の現実ときっと何かが違っているわ」

「きっとそうだよね。僕もそうであって欲しいんだ。悲しむのはもう嫌なんだよ」

 しばらく無言を保った後で、ジゼルは寂しげな笑顔を浮かべて言った。

おやすみボンヌ・ニュイ、マ・シェール・マルーシャ。愛してるよジュ・テーム夢で会おうねジュ・トゥ・ヴ・ダン・メ・レーヴ

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