#15:第3日 (9) 盗聴する女
【By オペラ
「マルーシャ・チュライ!? マルーシャ! ウクライナの
これは誰の声だろう。兄のファルカスか、弟のフェレンツか。神経質だが、自己陶酔的な声。身長はおそらく高くて、痩せているだろう。そして、唄うことに慣れている。おそらく、詩を朗読するのが好きなのだろう。では、詩人のファルカスか。
「僕も信じられないくらいだが、しかし、マルーシャ・チュライは確かに今、ブダペストに来ている。
「ああ、そうだ」
これはフュレプの声。
「ビアンカ・ミノーラとも会ったと言っていたな」
ファルカス。
「そうだ」
「確かに、彼女もお前のことを知っていたようだった」
「島を散策しながら、少し話したからな」
「お前が彼女たちに声をかけられたことが不思議だよ」
「偶然だったんだ、どちらも。僕は野外
「偶然とはとても思えないな」
「何と思ってくれても構わない」
「ビアンカとのことはもういいだろう。マルーシャとは? 彼女と何の話をしたんだ」
「彼女を絵のモデルにしたいと言った。彼女そのものを描くわけじゃない。彼女のイメージを、『
「昨日もマルギット島にいたのか?」
「それも偶然なんだ」
彼はそう思っているだろうけれど、偶然ではない。私は彼がそこにいるだろうと思って、行った。思ったとおりだった。それだけのこと。彼らは、自分たちがゲームの中の登場人物であることを知らない。ある条件の下に、特定の行動を取らされていることを気付いていない。
だが、ここでそんなことを考えるのはよそう。私だって、そのシナリオの中の一部に過ぎないのだ。
「それで、フローラに投影する試みは成功したのかい?」
フェレンツ。
「したよ。少なくとも僕の中では」
「警察はそれでいいと言ったのか」
「最初から、僕が納得するかどうかだけが問題だったんだ」
「マルーシャには見せた?」
「見せたよ。彼女もいいと言ってくれた」
私に別の模写を渡したことは言わないつもりのようだ。私も明日、彼らに会見するときは、そのことに触れないでおこう。
しかし、これではフュレプが持っているはずの、他の模写をどうするつもりかが解らない。警察はもしかしたら予備を欲しがるかもしれない。他の
別のイヤーフォンを使って、警察の方も聞く。
「館長は納得したのかね」
パタキ主任刑事の声。部下に対して横柄に接するが、責任感は強い。一般人には気取った態度を取るが、女性に対して甘い。
「はい、よい出来映えと言っていました。もちろん、彼女にも特徴を教えて、見分けられるようにしています」
女性の刑事。真面目で沈着冷静だが、男性と付き合った経験が少ないだろう。もしかしたら、男の
「その見分け方は?」
「木曜日の開館前に、説明します。ピスティにもまだ言っていません」
「館長以外には何か言ったか」
「言っていませんが、私たちが絵を搬入している様子を、何人かの学芸員が見ています。もちろん、絵自体は見せていませんが、気付いた者はいるかもしれません」
「閉館後にすればよかったんだ。早く持って行く必要はなかった」
「申し訳ありません、私も後で気付きました。ですが、署には適当な置き場がなくて……」
「私もそのとき不在にしていたのはまずかったな。今はどこに置いてある?」
「バックヤードの、『
「それはそれとして、本物の置き場所を早く用意するよう、強く言っておいてくれ。いつまでもこちらに置いておくわけにはいかない。環境のせいで劣化したなどと言われたら困る」
「彼女も早く引き上げたいとは言っているのですが……」
男性の刑事がいるはずだが、声がない。探してみよう。
「……それで、これが木曜からの警備員のシフトで……」
この声が? 聞き覚えがある。プールで、私に話しかけてきた……あの男はキー・パーソンではないと思ったのに、キー・パーソンだったようだ。私の勘はかなり鈍っているらしい。接触しておけばよかった。でも、もう遅い。
今日の
「!!!」
いきなり、後ろから抱きすくめられた。反射的に、身体をかがめて投げ飛ばそうとしたが、足を掛けられて阻止された。完敗だ。近付いてきた気配は、全くなかったのに。
男のように逞しくはないが、女のように柔らかくもない腕。前に回した手が、私の胸のふくらみを優しく掴んでいる。そして耳元に、柔らかく息を吹きかけてきた。
「今からここに忍び込むの?」
ジゼル・ヴェイユ。いつの間に来たのだろう。彼女がバーで、彼と飲んでいるのを確認してから出てきたのに。
「いいえ、まだ何の用意もないのに」
「じゃあ、どうしてこんなところにいるのさ」
ブダ城のある丘、
「偵察」
「それだけかな。盗聴器の声を聞いてたんだろう? 電波が近くまでしか飛ばせないタイプで、録音しかできなかったんじゃないの」
「ええ、それも」
見抜かれている。しかし、私が2ヶ所に仕掛けたのは気付いているかどうか。
「安心してよ。聞かせてなんて言わないからさ。僕が聞きたいのはアーティーの声だけなんだ。君の声ももちろん好きだよ。さっきまで彼と飲んでいて、誘惑してみたんだけど、やっぱり失敗した。僕のこと、好みじゃないのかな。どんなタイプが好きなんだろうね。君みたいにグラマーな人?」
言いながら、私の胸を掴んだ手を動かす。
「彼の
「そうだろうね。電話の声では、可愛らしい人のように聞こえた。アメリカ人って、ハスキーな声の女性を好むって思ってたんだけど、彼は違うんだね」
それは私も気付いていた。しかし、
「それで、いつ忍び込むの?」
「まだ決めていない。決定的な情報がないから、決められない」
「うん、まだ水曜日だもんね。でも、安心して。もう一度言うけど、僕は君の邪魔なんかしない。でも、手助けもしないよ。アーティーにももう手は出さない。僕は振られたんだ。とても悲しいよ。君に慰めて欲しいくらい」
「ごめんなさい、私には時間がないわ」
「じゃあ、他の
「まだそこまで解っていないの」
いいえ、私もあの男に同様の雰囲気を感じた。“獰猛さ”、それが私の印象。そして女の方には“狡知”。もちろん、その二つは私も持っている資質なのだが……
「僕は女性の方がよく解っていないんだ。でも、君みたいに好きになれるか、はっきりしないんだよ。でも、それを確かめている時間もない。明日も世界遺産を見に行くんだ。ホルトバージ国立公園、トカイと、アグテレク洞窟。みんな東の方。今日は、ホッローケーのことをアーティーに話したんだよ。明日は君が聞いてくれると嬉しいのに」
「どうしてそんなに私と関わり合おうとするの?」
「だって、僕と君は似てるんだもの。解るんだよ」
それからジゼルは、ふうっと長く息をついた。胸を掴んでいた手は外れたが、まだ抱きすくめれている。
「解ってるんだよ。君はマルーシャであってマリヤじゃない。そして今の僕はジゼルであってジジじゃない。君の本当の名前を教えてよ」
声に甘えたところがなくなった。初めて会ったときのジゼルと同じだった。
「今は教えられないわ」
「別のステージで僕と対戦するかもしれないから?」
「そうは考えていないけれど、自分のことを話す気はないの」
「一人で心に抱え持ったままでも平気なんだね。彼にも言っていない?」
「ええ」
「じゃあ、僕も聞かないことにするよ」
ようやく私の身体は解放された。顔だけ振り向いて、彼女を見た。暗くてよく見えないはずなのに、彼女が穏やかな笑みを浮かべているのが判った。中性的でも、男性に近い方の笑顔。
「でも、ヴァケイションって不思議だね。のんびりしていていいはずなのに、他の
「彼だけが特別とは思わない。でも、彼が他と何が違うのかは判らない。でも、それを知ることは私の目的じゃないから」
「冷静だね、君は。きっと心が強いんだ。僕は心が弱かったから、きっとここにいるんだよ。心の中の快楽に対して、抵抗がなさ過ぎた。今は、その心を失ってるみたいなんだけどね。それとも、無理矢理抑え込まれているだけのかな、この世界の支配者の力で」
ジゼルが悲しい目をした。自分の罪を知りながら、自分を抑えきれなかった、後悔の念。
「……もし、ゲームを終えて、現実の世界に戻ることができたら、僕は……僕はまた、過ちを犯すんだろうか」
私もそれを恐れている。私はもう一度過ちを犯すだろう。愛する男を、自らの手で
「戻った先の現実は、前の現実ときっと何かが違っているわ」
「きっとそうだよね。僕もそうであって欲しいんだ。悲しむのはもう嫌なんだよ」
しばらく無言を保った後で、ジゼルは寂しげな笑顔を浮かべて言った。
「
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