#15:財団の研究員
財団にて-2XXX年Y月Z日(金)
パトリシア・オニール博士は、研究員のエリック・ネイサンを捜していた。もちろん、
もっとも、彼が研究所の中でこうして行方不明になることは、そう珍しいことではなかった。だから誰も不思議がらない。むしろ、姿を見ることの方が少ないと言う者さえいる。
ただ、次に彼が行く時間と場所は判っていた。だからパトリシアは、彼が早めにそこへ行っていることを期待した。エレヴェイターで地下に降り、半地下の天窓から明るく光が射し込む廊下を歩いて、第5シミュレイション室へ。
ドアの前の端末で、20分後からの使用予定が入っていること、利用者の中にエリックがいることを確認し、
ドアを開くと、中は真っ暗だった。だが、ドアの隙間から入る細い光の帯に照らされて、椅子に座ってテーブルに突っ伏している男の姿が見えた。やはりいた。
パトリシアは中に入ると、壁スイッチを操作した。天井の灯りが一つだけ点いた。テーブルに突っ伏した男は微動だにしなかった。パトリシアは軽く首を振ってから、その男にはっきりした声で呼びかけた。
「エリック。エリック・ネイサン」
ややあってから、男が「ヤー」と一声唸ってから顔を上げ、ドアの方を見た。眠いのか、少し機嫌が悪いのか、目を細めている。短い黒髪が、山嵐のように尖り立っている。エリックに間違いなかった。
服装はいつものようにだらしない。ただここは、不潔あるいは不道徳な服でなければ、何を着ようと構わないことになっている。念のためにフォーマルな服を1着、各自の
「もう時間? おかしいな、あと15分くらいは……誰?」
エリックはさらに目を細め、それでも見えなかったらしくテーブルの上の眼鏡を手に取ったが、かけずに目の前に当ててドアの方を見た。それから軽く笑みを浮かべたが、心からの歓迎を表すものではなかった。
「
シミュレイション室が地階にあるのは計算機の冷却設備のためだが、時に「人間よりも計算機を優先するほど部屋を冷やす」ところから、
「どうして電話に出ないの?」
「メッセージを入れていただければ、後でちゃんと拝見しますが」
「口頭で済むのならそれに越したことはないからよ」
しかし、わざわざ捜してまで言おうとしているのだから、少しばかり矛盾がある。それはパトリシアにも解っている。記録に残したくないだけだ。
ただ、そのためだけに30分も使ってエリックを捜し回ったのは効率が悪すぎた。とはいえ、メッセージを入れて呼び出しても応じないことがあるから困る。「見落としていた」と平然と言うからだ。
「聞かなかったふりをすればいいんですか?」
「誰にも言わなければいいだけよ」
「ではそのようにしましょう。して、その用件とは」
「例の、特定の
「ああ」
エリックはいかにも面倒くさそうに声を出したが、顔は大儀そうではなかった。改めて眼鏡をかけて、パトリシアを見た。そして椅子をパトリシアの方に回転させ、前屈みになって両肘を膝の上に置き、手を組んだ。
「観察する限りの状況からは、障害が明らかでしたからね。
「彼だけの症状だからよ」
「おまけに忍耐強いから。もっとはっきり、
「成績がそう悪くないからでもあったでしょうね」
「それで結局、どこに接続し直したんです?」
「CA3
脳内には海馬と呼ばれる部位があり、記憶を司るとされる。形がタツノオトシゴに似ていることからそう呼ばれるが、別名をアンモン角――エジプトの神アンモンが羊のような角を持っていて、それに似ていることから――といい、CAはそれを意味するラテン語"cornu ammonis"の略だ。
CAは四つの領域に分類され、それぞれCA1
CA3
「それは面倒な。プログラマーが心神耗弱を起こしたでしょう」
「あなたに頼めばよかったわ。そうすれば力ずくで全接続するより、もっといい方を思い付いてもらえたでしょうね」
「僕はもうそっちの部署の人間じゃないからね。何ともできない」
エリックは身を起こして椅子の背にもたれ、足を組みながら言った。顔にはある種の諦観が浮かんでいる。
研究者としてプログラミングに携わる者は、時にそれを遊びのように楽しみながら進めるものだ。しかし、研究施設ではあっても、営利のことを考えると、遊んでばかりいられない。それをもって“遊び”だったものを“仕事”と定義されると、急激にやる気をなくす者も出てくる。
「その部署に戻して欲しいという意味かしら」
「とんでもない、あの時は抵抗したけど、今じゃあ他の部署もそれなりに面白いものだとようやく気付きましたよ。特に今の観察部門はね。人間の考え方に多様性があることは十分に理解してたけど、これほど広がりがあるとは思ってなかった。ただ、新たな大発見といえるまでの思考形態を持つ
「例えば“彼”とか」
「“彼”はそれほど面白くない。しかし、注目はしてますよ。何しろ僕が見るのは今回で3回目だ。他の誰に聞いても、同じ
「とんでもない、純粋な偶然でしょう。あるいは、“彼”とあなたは何かのつながりがあるのかもしれないわね」
「それはあまり嬉しくないな。僕がより興味があるのは“
「とにかく、“彼”の記憶が改善しているかを確認しておいて。
「もちろん、開始後にね」
「ええ、開始後に」
「今回は
「あなたは来月あたり、元の部署に戻れそうとだけ」
「それは誰の意向? また
「もちろん」
「最近の実装部門は進化が激しいらしいから、僕はもうリップ・ヴァン・ウィンクルのように付いて行けなくなってるんじゃないかな」
リップ・ヴァン・ウィンクルはワシントン・アーヴィングの短編小説の主人公で、猟に出た山の中で奇妙なオランダ人の一団に酒をふるまわれて寝込んでしまい、目を覚すと20年も経っていて、世の中がすっかり変わってしまっているのに驚いたのだった。そこから転じて、時代遅れになった人を指す慣用句だ。
「心配ないわ。戻ってもきっとあなたがエースだから」
「モチヴェイションの問題でね。何か新しいことを組み込むのでもなければ、やる気が出ないよ」
「では、何かアーサーに提案をすれば?」
「完成して、売りに出そうかというシステムに、今から手を加えることができるとでも?」
「プロトタイプの開発でなければ、やる気が出ないのかしら」
「このシミュレイターでは、もう画期的な機能更新は無理だと思うな。今追加してるのは、
「アーサーは気が変わりやすいから、また何か新しいことを思い付くかもしれないわ」
「気が変わって僕を実装部門じゃない、別の部署に動かすかもね。間接部門だけはごめんだな」
「そうね。それは私にも何とも言えないわ」
「全ての部門を回ったら、ここではすることが何もなくなりそうだ」
「辞めたくなったら、規定どおり1ヶ月前に申請することね」
「用が済んだら灯りを消してもらえます?」
言われたとおり、パトリシアは部屋の灯りを消した。エリックが再び机に突っ伏す。アーサーがエリックに何をさせようとしているか、パトリシアは知っていたが、この場では敢えてそれを言わなかったのだった。
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