#13:第8日 (4) 別れの挨拶 (4)

 次はマリヤ。いつもどおり慈母のような癒やされる笑顔だが、彼女は俺に何か言うことがあるのだろうか。まさか、ここに至ってマルーシャの変装であることが明かされるとか?

 しかし、ドアが閉まってガラス箱が動き始めても、彼女の表情は変わらなかった。ニュシャのように迫ってくることもなく、半ヤードほどの距離を置いている。

「あなたとティーラが出会ったのを、私が運命と申し上げたのを憶えておいでですか?」

「もちろん」

「その後で私はティーラに、彼女とあなたの出会いに立ち会うのが、私の運命だったと言ったんです。でも、それは本心ではありませんでした」

 言いながらマリヤは一歩進み出て――それでも間は4分の1クオーターヤードくらいにしか縮まらなかったが――、俺の右手を取って両手で包み込んだ。白く柔らかく滑らかな肌だ。

「彼女とあなたが会う以前に、私があなたに会っていたら、私はあなたを運命の男性と信じたに違いありません。理由はお訊きにならないで下さい。恋とはそういうものですわ」

 何たる唐突な告白。しかし、妹が先に出会って、恋に落ちた――エステル自身は気付いているかどうか知らないが多分そうだろう――ので、自分の気持ちは押し殺して、妹を見守る役目に徹する、ということだろうか。ずいぶんと奥ゆかしい。

 他にこんなキー・パーソンっていたっけ。いや、いたな。前回のデメトリアとか、その前のカーヤとか。

「あなたと二人きりで会うのは、これが最後になるでしょう。私が公演で合衆国へ行ったり、他のところであなたと偶然会えたりしても、そこに彼女がいなければ、ご挨拶だけにさせていただきます。そして今ここで、あなたの手の温かみを憶えて……」

 俺の手をつかむ力が、少し強くなった。そして、胸の方へ引き寄せて……あああ、どさくさ紛れに何てことを。ニュシャの方が柔らかそうと思ったのは間違いだった。同じくらいだ。そういえばオックスフォードの時のマルーシャもこんな感じで。

「……独り寝の寂しさを紛らわせることにいたしますわ」

 何をしようとしてるのか想像できそうだけれど、敢えてしないことにしよう。到着より30秒以上も前に、マリヤは手を放した。そして降り際に言った。

「あなたとティーラが幸せになれますように……」

 その言葉をもって、自分の思いを断ち切ろうとしてるんだろうな、たぶん。呪文スペルだ。

 そういえばマルーシャもメキシカン・クルーズで、ティーラの思いを叶えるためにいろいろ画策してたよなあ。さすがは双子ってところか。

 次はエステルだが、乗るのに少し列ができている。マリヤが「下で待ってます」と言った。後でもう一度上がってくるんだから、ここで待ってりゃいいのに。列はすぐにはけて、エステルとガラス箱に納まった。

「ピアノ曲集には、昨日の『熱情』も収録するつもり?」

 エステルはマリヤと同じように半ヤード離れて立っている。並んで歩いたときもそうだが、彼女は手が触れあうような距離には近寄ってこない。たぶん、最後に手を握ってくるようなこともしないだろう。

「それは……どうしようか、迷っているところです。あの曲には特別な思い入れができてしまったので、昨日の出来を超えられなければ、見送ろうと……」

「そうか、君がそう思うのならそうすればいいよ。しかし、昨日のコンサートは録音していたのかな。あればもう一度聴いてみたい」

「はい、それはありますので、後でお送りします。……それで、あの、一つお訊きしたいことが……」

「何でもどうぞ」

 早く言わないと下に着くぞ。

「あなたはどうして、私にこんなに優しくして下さるのですか? ついこの前、出会ったばかりなのに……」

「君の一番いい笑顔が見たいからだよ」

 そういう質問をされたときの答えはちゃんと用意してるんだよ。いくつか変化形ヴァリエイションはあるけど。ただし、ほとんど使ったことがないだけで。

「私の笑顔が……」

 エステルの顔が赤くなっていく。一応、とどめの台詞も言うことにしようか。現実世界で言う機会はなかったけど。

「初めて会ったときは驚きの表情だったから、笑顔が見たいと思っていた。それからの数日間で、一番いい笑顔を見たとはまだ思っていないので、次に会うときにはぜひ見せて欲しい。特に、ピアノを弾いた後でね」

 こういう気障ったらしい台詞はあまり言いたくないのだが、エステルが相手だとわりあい自然に言える。言ったときの喜び方が好ましいのが、彼女の性格から想像できるからだろう。大袈裟に喜んだり、茶化したりする女には言いたくないんだ。

ああ、主よオー・ボージェ・モイ! ……ありがとうございます。私はあなたのために――」

 驚きと喜びが入り交じった表情でエステルが俺を見る。ガラス箱が下に着いてしまった。

「――笑顔でピアノを弾き終えられるよう努めます」

「ぜひ、そうしてくれ」

 エステルを促してガラス箱から降りる。階段の下でマリヤとニュシャが待っていた。男たちから声をかけられているが、笑顔で断っている。サインオートグラフでもねだられているのだろうか。

 階段を登り始めたが、時計を見るともう9時を回っている。近くのピッツェリアに入ってピッツァを摘まみ――ウクライナ最後の食事がイタリアンとは――、コーヒーを飲んで、3人に別れを告げる。ニュシャとマリヤは笑顔だが、エステルはやはり残念そうな顔をしていた。

「来年もオデッサへいらっしゃいますか?」

「それはまだ判らない。それより、君が合衆国でコンサートを開催することを期待してるよ。どこでも必ず見に行くと約束する」

「でも、それは……そうですね、できる限り努力します……」

「もちろん、ティーラならできるわ。きっと、今年中にも」

 マリヤが勇気づける。やはり彼女は見守り役に徹するつもりだろう。

 去り際に、ニュシャがビズを求めてきた。マリアにもビズする。エステルは少し躊躇した後で、しかもおずおずといった感じで身を預けてきた。失神しないように、ごくごく軽く頬に唇を触れてやる。エステルの唇は頬に触れたかどうか判らないほどだった。終わった後の顔を見ると、視点が定まってない。しばらく意識が飛ぶのではないかと思う。

「それじゃあ、またなシー・ユー・アゲイン!」

 単車モトで空港へ向かう。スクーターなのでさほどスピードは出せないが、フル・スロットルで突っ走る。信号は少ないし、車が詰まっていても横をすり抜けられるのが強みだ。時速30マイルくらい出ているだろう。これなら間に合いそうだ。

 駐車場に単車モトを停めたのが9時42分、建物に駆け込んだのが――壁があるかもと一応用心はしたが――9時44分だった。狭い空港なので、チェック・イン・カウンターはすぐ目の前だ。

 イリーナの笑顔が目に飛び込んでくる。それにしてもスリーヴレスの開襟ブラウスに、膝上6インチはありそうなミニ・スカートとはなんとも大胆な。最後だと思って誘惑する気満々というか。

「おはようございます、アーティー! 日帰りでもあなたと旅行できるなんて、とっても嬉しいです!」

 嬉しいのは笑顔を見れば判るよ。挨拶よりもひとまず発券チケッティングとチェック・インだ。俺の時代なら携帯端末ガジェットをかざすだけだが、今回は持ってないから紙のチケットだろう。例のクレジット・カードを受付嬢に提示する。受付嬢が驚きの声を上げる。

「もっと前にお越しになれば、VIPラウンジがご利用いただけましたのに!」

 余計なこと言ってないでさっさと発券してくれ。しかし、これで俺を置いて出発するようなことはなくなっただろう。

 チケットを受け取り、セキュリティー・ゲートへ行く。空いていたのであっという間に通り抜け、搭乗口へ。

 セヴァストポリ行きの搭乗は既に始まっていたが、ボーディング・ブリッジはなく、バスに乗って駐機場へ向かう。イリーナが手をつないでくる。積極的だな。

「セヴァストポリで評判のいいレストランを調べてきたんです。ウクライナ料理とロシア料理があるんですが……」

「料理も楽しみだが、向こうへ着いたらレンタカーの運転を頼むよ」

「あら、ええ、もちろん!」

「それと、昼食より先に遺跡へ行きたい」

「ええ、それは構いませんけど……先に昼食を済ませた方が、その後でゆっくり見られると思いますが?」

「早く君と二人きりになりたいんだ」

 ゲートへ行く都合上、こう言うしかないが、イリーナは色っぽい表情になって「嬉しいです……」と呟いた。やはり最後にハグ&キスしてやらねばならないだろう。

 タラップに到着すると、見たことがある顔がいる。ラーレだな。今日は朝からキー・パーソンたちに別れの挨拶をしてきたが、彼女ともここで挨拶できそうでよかった。イリーナを連れているので、声をかけるタイミングが難しいが。

 タラップを上がるときは、先にイリーナを行かせる。後ろから来る男に、彼女の魅力的な尻と素足を愛でさせるわけにはいかない。もちろん、俺が堪能する。

 座席配置は小型機なので左右2列だった。ビジネス・クラスもあるが、前後の余裕が少し広いくらいだ。しかし、そこに真珠の美人たちパール・ビューティーズがいた! セヴァストポリへ戻るのか。都合がいいが、声をかけるのは難しそうだぞ。

 そして、ディーマがいて美人たちに話しかけている。何てこった。それに昨日ユーリヤと一緒にいた顔の長い男もいる。やはり奴がドクトル・マルティネスだったか。何てこった。

 しかし、奴らはどうやって条件を満たしたんだろう。俺とかち合ったキー・パーソンの話を聞く限り、うまくやったとは思えないのだが。

 ともあれ、自分の席へ行かねばならない。残念ながらずっと後ろの方だ。着くと、隣が何とラーレだ。おかしい。

「やあ」と声をかけておいて、イリーナのチケットを見る。俺の隣じゃなかった。時間差で予約したせいか。それでも、満席じゃないんだから発券の時に隣り合わせにしてくれればいいのに。

 ラーレに挨拶をするいい機会だが、イリーナを隣に座らせてやりたいので、客室乗務員に頼み、二人で空き席に移った。

 座ると、イリーナの脚の露出がさっきよりも多い。本当なら座るとスカートで隠れるはずなのに、おかしい。何か細工しているのだろうが、なるべく見ないようにする。

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