#13:第4日 (3) バレエ・リハーサル

 シェフチェンコ像の前でシモナと別れ、またペースを上げてランジェロン門まで走った。今日は少し物足りないが、もう8時前だしこれで終わることにする。ジムでのトレーニングをどうするか考えながらホテルに戻ったら、なぜかイリーナがいた。

「ちょうど今来たところなんです! 一昨日のデータの解析が一部できたので、持って来ました」

 そういえば、夜にジムでスローイングをしたときのデータだけ先に解析して欲しい、と依頼した気がする。しかし、なぜ今頃。昨日の夜に渡しに来たが、俺がいなかったので持って帰った、とか?

 とにかくありがたく受け取り、去りがたそうな顔をしているイリーナに、ちょっと訊きたいことがあるが、と言ってみる。

「何なりと!」

「あのデヴァイスを、財団関係者以外に使わせることはできる?」

「できると思いますよ。大学やスポーツ・チームに依頼して、データを取ってもらったはずですから」

「どこに依頼して、どういうデータを取ったかの一覧があれば見たいんだが」

「第1研究部に問い合わせます! 今日の夕方まででいいでしょうか? それとも、もっと早く?」

「夕方でいいけど……もしかして、君が報告に来ようとしている?」

「はい。何か問題でも?」

 来たいだけだろ。微妙なタイミングで来たら、夕食に誘わなきゃならなかったりするんだろうな。まあ、いいや。

 イリーナが帰ったら、次はモトローナが寄ってきた。また誰かから誘いがあったのか?

ミスパンナ・ナタリア・サバレンカから、9時にオペラ・バレエ劇場の前でお待ちしておりますと……」

 9時って朝の9時だよな。1時間後だよ。シャワーを浴びて朝食を摂ったらすぐに出ないといけない。

 それにしても、次は金曜日って言ってたはずなのに、どうして今日なんだ。しかも俺の方から誘うんじゃなくて向こうからとは。

 これがキー・パーソンと思えるような女からの誘いなら一も二もなく行くのだが、競争者コンテスタントからというのでは考えどころだ。現にスペインではマルーシャに丸一日拘束されたために情報収集に失敗している。ただあの時も、収穫がゼロというわけではなかったが。

「行くかどうか返事をする必要がある?」

「できればいただきたいとおっしゃってましたが、急なのでご都合が悪ければキャンセルいただいてもということでした」

 ずいぶんと控えめな態度で拍子抜けする。昨夜のあの時よりはだいぶ、いや、それは思い出さなくてもいいのだが、返事は朝食の後でするとモトローナに言うと、「かしこまりました!」と爽やかに微笑んだ。これほど献身的な淑女をどこへも誘わないのは理不尽な気がしてきた。

 オペラ・バレエ劇場のスケジュールは、モトローナを通じてコンシエルジュに調べてもらったが、木曜日にオルガン・コンサート、土曜日にバレエ公演があることが判っている。

 ただし、どちらもプロではなく、コンサートは個人、バレエはアマチュアの団体らしい。つまり、まともなオペラやバレエを見ることはできない。

 日曜日の午後にバレエ、夜にオペラ公演があるらしいのだが、これは残念ながらステージ終了後だ。今日は何もないし、しかも朝の9時からなんて、コンサートかバレエのリハーサルではないかと思う。

 それとも、単に劇場の中を見るのだろうか。それなら俺を呼ぶこともないはずだが。

 ただ、一度は劇場の中を見ようと思っていたから、行ってみることにしよう。それ以外の用があるなら、強い意志を持って断ればいい。強い意志……あるのかないのかよく判らない。

 朝食をさっと済ませて8時半にホテルを出て、公園の中を横断し、9時少し前に劇場に着いた。程なくナターシャも来た。時間に遅れない女はありがたい。

 が、その出で立ちを見て少し驚く。黒は黒だが、リトル・ブラック・ドレス。それに黒のサングラスをかけているので少し目立ちすぎるのだが、「グッ・モーニン!」と言いながらそれを外すと、化粧が薄く正統派の美形だったので、また驚かされた。昨夜とは別人に見える。

「やあ」

「どうしたの、幽霊を見たときのような顔をしてるわ」

「幽霊なんて見たことないな。君はあるのか」

「それとも、昨夜の疲れがまだ取れてないのかしら」

「朝に6マイル走ってきたよ」

「まあ、いいわ。急に誘ったのに、来てくれてありがとう」

 なかなか素直な女だな。印象がだいぶ変わったぞ。

「ここで何を見るんだ?」

「バレエのリハーサル。週末に公演があるのよ」

「アマチュアのバレエ団だろ。そのリハーサルを見て楽しいのか」

「楽しいわよ。音楽と舞踏ダンスはたとえ前衛的アヴァン・ギャルドであっても好き。それに、アマチュアだけどジョージアでとても有名なジュニア・バレエ団らしいの」

「どうしてそんなこと知ってるんだ」

「リハーサルを見に来て、できれば挨拶をして欲しいって、ホテルを通じてバレエ団からお願いされたのよ」

「君が有名人だからか」

「もちろん。あなたも“財団”であることを明かせば、先方も態度を変えるわよ。一緒に挨拶する?」

「遠慮しておく」

 ナターシャに付いて劇場へ入る。入口で警備員に止められたが、ナターシャが身分を言うと快く通してくれた。ただ、一緒に来た俺をいかがわしそうに見ている。ナターシャが「私のパートナー」と言い切ったので通してくれた。

「いつからパートナーになったんだっけ」

「昨日の夜からよ。とても素敵グレイトだったわ」

 何言ってやがる。翻弄されてたのは俺だ。

 入ると正面に大階段がある。上のボックス席へ行くためのものだろう。天井の装飾は白を基調としていて、レリーフもあるが、わりあいおとなしめだ。緑色の石で作った太い柱が何本も建っている。階段の手すりには凝った装飾が施されていて、一番下には金色の派手な像が立っていた。上にロビーがもう二層あり、4階まで階段で上がれるそうだ。

 客席へ入るのかと思ったら、下の廊下を進んでいって、リハーサル室に入った。たくさんの少女たちが――少年もいるが――踊っていた。入口付近に立っていた何人かが俺たちが入ってきたことに気付き、一人の男――眉毛が太く、ラテン系のように濃い顔の若い男――に知らせた。

 男は大袈裟な笑顔になってナターシャに駆け寄り、抱擁を交わした。バレエの演出家かな。アスラン・何とかブラーブラーという名前。続いて中年の女もやって来て、同じくナターシャと抱擁を交わした。タマル・何とかブラーブラー。こちらはバレエ団の主宰? よく判らん。

 二人とも俺を完全に無視している。別に構わないが。ナターシャがまた「私のパートナー」と紹介すると、ようやく俺がいることに気付いたかのように挨拶してきた。しかし、おざなりに握手をしただけで終わった。

 座るところがないので、立ったままリハーサルを見る。しばらくして音楽が終わると、アスランが少年少女たちを整列させた。そしてナターシャを紹介する。ナターシャが彼らの前に進み出て、笑顔で挨拶をする。

 子供の頃にバレエを習ってたのか。週末の公演も見に来るって? その時に俺を誘おうとしてるんじゃあるまいな。挨拶が終わると少年少女たちが拍手する。

 こちらへ戻って来ようとしたナターシャをアスランが呼び止めて、少女たちの方を見ながら何か言っている。戻ってきたナターシャに訊いてみると、「プリマ・ドンナを紹介されたわ」だった。

「今回はダブル・キャストですって。ティアラを着けた少女が二人がいるでしょう? 手前の金髪ブロンドがラヤー・ボルクヴァゼ、奥のブルネットがケテヴァン・バティアシュヴィリ。ケテヴァンは以前からプリマを務めていたけれど、最近ラヤーがめきめきと実力を付けてきて、プリマの座を狙っているそうよ」

 二人とも同じデザインのレオタードを着ているので、今のところ髪の毛の色で判別するしかない。

「その二人に注目してくれって?」

「私は注目するけど、あなたは気楽に見ていてくれていいのよ。その他の子も見てあげてね」

 たとえ注目して真剣に見たって、バレエがうまいかどうかなんて俺に解るわけがない。

「気楽に見るけど、それならどうして俺を呼んだ?」

「バレエを見るのに一人で来るなんて格好悪いじゃないの。恋人がいないと思われるわ」

 それだけの理由かよ。どうして俺が恋人のパート・タイマーまでやらなきゃならないんだ。例えば、そこにいる女だって、リハーサルを見に来たんだろ。彼女は男を連れてな……

 もしかして、チョコレート博物館の女? あの規格外の胸の大きさは、マルーシャじゃなければ彼女だよな。髪の色も長さも同じだ。顔はよく見えないから断定はできないけど。確か、ニュシャって名前で。

「セイ! どこ見てるの?」

「バレリーナたちだよ」

「あっちの巨乳バゾンガスの女に目を奪われないでよ」

 つまらん英単語を知ってるなあ。ほんとにベラルーシ人か?

QBクォーターバックは視野が広いから、いろんなものが目に入るんだ」

「もしかして彼女のこと、調べてないの?」

「何だって?」

 単なる美人じゃなくて、やっぱりキー・パーソンなのか? しかもそれをどうして君が知ってるんだ、ヴァケイション中のくせに。

「公平を期すために教えないから、自分で調べてね」

「後でチョコレート博物館に誘ってみるよ」

「それ、私も行きたいわ。昼食の後で連れてってくれる?」

 いや、君を誘っても意味ないから。というか、昼食まで付き合うのは既定なのか?

「今日は昼で解放してくれよ」

「いいわよ。じゃあ、次は金曜日ね」

 それも既定? ターゲット探しは今日と明日で何とかしろって? 無理だろ。

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