#13:第4日 (2) 少女の羨望

【By 主人公】

「アメリカ人? あたしはルーマニアから」

「何しに来たんだ?」

「合同練習。体操競技をやってるんだけど、コーチの一人がオデッサの出身で、前に所属してたクラブと交流を企画したの。でも、本当は競技者ジムナストの交流じゃなくて、コーチの交流なんだ。判ってるの。でも、施設はこっちの方が良くて羨ましいな。あたしのクラブはコンスタンツァにあるんだけど、建物も古いし、設備も古いし。もっと環境を良くしてってオーナーに頼んでるんだけど、他のクラブと比べてもそんなに悪くないはずって言って取り上げてくれなくて」

 どうして急に饒舌になってるんだよ。それとも、元々口数が多いのか? まあ、大人しい子供よりは扱いやすいけどな。

 体操は6歳から始めて10年目……15歳!? そうは見えないくらい背が低いし痩せてる。でも体操で、特に女子はこれくらいのが多いよな。

 ほう、ジュニアの大会で何度も入賞してるのか。今のクラブよりも、ブカレストへ行ってもっといいクラブに入りたい? そんなこと、俺に言うな。まあ、その程度の愚痴くらいなら聞いてやるけど。

「わー、すごいホテル。あたしたちが泊まってるところと全然違うなー」

「団体で来てるんだから、安いホテルなのは仕方ないだろ」

「でも、本当に狭いの。安っぽいカーペット敷きの大きい部屋に、幅の狭い二段ベットがいっぱい並んでるの。列車か船の寝台みたい」

「ベッドなんて、寝られりゃいいんだよ。広い部屋の方が逆に落ち着かない。柔らかすぎるベッドは朝起きたら腰が痛くなる」

「硬いベッドだって、背中が痛くなるじゃない。レストランも綺麗だなー。きっとおいしいんだろうなー。あたしたちのところなんておいしくないし量も少ないし。あっ、あっちがジム? 見てきていい?」

 勝手にうろつくんじゃねえよ、ガキブラットが。モトローナがいた。安心してくれ、近所の子供をさらってきたんじゃないから。

「靴紐が切れたらしいんで、予備があれば」

「あると思いますわ。すぐにお持ちします!」

 爽やかな笑顔。やはり女はこれくらいの年齢が一番綺麗だな。おい、ガキ、俺のモトローナに礼を言え。あれ、どこへ行った? どうせジムだろ。いた。

「すごいなー、いいなー、クラブにもこんな設備があったらなー」

 口開けて感心してんじゃねえって。アスリート女がこっち睨んでるだろ。モトローナが靴紐を持って来てくれた。こら、ガキ、こっちへ来い。結び直しだ。

「ありがとう! でも、靴紐だけ綺麗になっちゃった」

 さっさと靴を買い換えりゃいいんだよ。紐が長くて余った? 大人用だからな。そんなの、切っちまえ。モトローナ、ハサミだ。紐はもう一本あるぞ。ついでにもう片方の靴のも換えちまえ。

「ありがとう! これでもうしばらく履けるよ!」

 だから、靴を買い換えろって。ソックスも左右で長さが違うな。どうして右だけそんなに長いんだ。買う金もないのか。

「ところで、ミスターはもうランニング終わり? まだ2周くらいしか走ってないよね」

 どうしてそんなこと憶えてるんだ? それより、俺の名前を憶えろよ。

「今からあと2周走りに行く」

「だったら、一緒に走ってよ! あたしもあと1周するの」

「こんなところで余計な時間喰ったんだから、もう君のホテルに戻らなきゃいけないんじゃないのか」

「大丈夫。ホテルに戻っても、朝食だけで、練習開始まで他にすることないから」

 いや、朝食喰えよ。身体鍛えるんだったら栄養取得が必須だろ。

 とりあえず、外に出るか。おい、ガキ、俺のモトローナにもう一度礼を言え。モトローナが笑顔で見送ってくれた。やはり、俺がこんなガキに手を出す気がないことを解ってくれている。

「一緒に走るのは無理だ。俺の方が早いからな」

「じゃあ、半周だけでもいいよ。スピード落として走って」

「どうして一緒に走りたいんだ」

「走り方がかっこいいから」

 そんなの言われること自体が初めてだが、すれ違ったことしかないのに、どうして走り方が判るんだよ。

「だって、判るもん。鍛えるために走ってるなーっていう感じがするから。脚の上げ方とか地面の蹴り方とか」

 確かにそういうのを意識しているが、それがかっこよく見えるというのがよく解らん。あるいは、かっこいいという言葉の定義が、俺とこのガキで違っているのかもしれんが。

「じゃあ、半周だけだが、条件が二つある」

「お金は出せないよ」

 そんな物要求するかって。

「君のホテルに戻ったら、ちゃんと朝食を摂ること。運動して栄養を摂らないと身体が鍛えられない」

「体格が変わるから食べ過ぎちゃダメって言われてるんだけど」

「食べ過ぎない程度にすればいいんだよ。自分で解るだろ」

「解った。もう一つは?」

「俺のことはアーティーと呼べ」

 さっき、ミスターと言ったな。自分から名前聞いたくせに、忘れてるだろ。

「解った。アーティー、アーティー、アーティー。あたしからも条件出していい?」

 想定外。そもそも、君からの要求を受け容れるための条件なのに、なんでそっちが条件出してくるんだよ。

「一応、聞いておこうか」

「明日も走りに来るなら、半周だけ一緒に走ってよ。あたし、今までと逆回りにするから。それと、明後日も、その次も」

「明日は公園じゃなくてビーチを走るつもりなんだがな」

 公園への階段を登りながら、ホテルから向こうに向かって、と手振りで説明する。

「ビーチかあー。じゃあ、あたしもビーチへ行ったら一緒に走ってくれる?」

「今日のこれからの君の走りにもよる。見込みがありそうなら、3往復のうち片道1回分くらいは一緒に走ってやろう」

「じゃあ、頑張る!」

 ランジェロン門からゆっくり走り出すが、ガキに合わせて反時計回りとする。

 走りながら、ガキ改めシモナを観察する。身長は5フィート1インチくらい。体重はおそらく90ポンドないだろう。元は白だったと思われる小汚いTシャツに、黒のランニング・ショーツ。典型的な痩せ型で、手も脚も細い。胸はフラット。黒髪を後ろでポニー・テイルにくくって、前髪を目の上で切りそろえている。

 俺の走り方を見ながら走っているので、顔も観察できる。ブラウンの目は大きくて、眉はくっきりと太い。今のところは“可愛いガキ”だが、美少女を経て美女に育つ余地はありそうに思う。ただし、この世界がクローズするまでにそこまで成長することはあり得ないから、どうでもいい。

「やっぱり走り方かっこいいよね。こんな感じかなあ」

 シモナが俺の走り方を真似ているようだが、俺は自分の走る姿を見たことがないので似ているかどうかよく判らない。が、彼女自身がそれで満足しているようなので、勝手にさせておく。

「ところで、どうして一人で走ってるんだ。クラブのメンバーがたくさん来てるんじゃないのか」

「一昨日はみんなで一緒に走ったんだよ。でも、朝のランニングは自由参加っていうことになったら、来なくなっちゃった。練習時間が長くて、みんな疲れてるからだと思うけどね。あたしはトレーニングが好きだから。ホテルにジムがあればそこでトレーニングするんだけどな」

 まだ言ってる。“いい練習環境”がよほど欲しいらしい。

「あのホテルへ借りに行っちゃダメなのかなあ」

「ジムは宿泊客専用だ。君一人が数時間使うくらいなら、大目に見てくれるかもしれないが、それでも君のクラブの他のメンバーと不公平だろ」

「やっぱりそうだよね。こっちのクラブの子は、体育館の設備とかいつでも使えるのに、あたしたちは時間制限あるの。使ってないのなら、使わせてくれたらいいのに。もっとたくさんトレーニングも練習もしたいな。クラブの他の子は、そこまで思ってないみたいだけどね。あたしだけなのかな。他のクラブの設備が羨ましいって言う子もいないの。他人を羨んじゃダメって両親からもよく言われるんだけど、どうしてダメなのかなあ」

 走って息が乱れているのに、長々とよくしゃべる。散歩している老人とすれ違った。俺とシモナのことを、親子だと勘違いしてくれると助かる。顔は似てないけど。

「羨んでもいいぞ。それが向上心につながるのならな。いけないのは、他人を羨むあまりに悪意を持つことだ」

「悪意なんて持たないよ!」

「人によって“羨望エンヴィー”という言葉に対して持つ印象が異なるから、良くないと言われることがあるってだけだ」

「やっぱり良くないことなの?」

「そうじゃない。羨望エンヴィーってのは、自分が持たざる物を、他人が持つ場合に発生する感情だ。自分もそれを持ちたいと願うことの動機付けにもなるが、それを良い行動によって達成するか、悪い行動によって達成するかで違いが出る。良い行動はたゆまぬ努力と研鑽。悪い行動は相手に悪意や敵意を持つこと、相手を貶めること、あるいは相手から強奪することだ」

「あたしは悪い行動なんてしないもん!」

「解ってるよ。二つの違いを区別できない奴らなんて放っておけ。問題は、君の羨望エンヴィーしているものをどうやって得るかだ」

「どうすればいいの?」

 ちょうど、シェフチェンコ像の前まで来た。俺はここから南へ向かい、シモナは東へ向かうはずだ。

「続きは後だ。さっきの記念碑の前でまた会おうぜ。それまでに考えておけ」

「ええー!」

 シモナを残してスピードを上げる。南の端まで行ったら東に向きを変え、遊園地を通り抜け、高層コンドミニアムの前に出て北東へ進路を取る。

 バス停のところへ来たらシモナがいた。シモナは記念碑を目指して走って行くが、俺はランジェロン門の方へ遠回りする。

 記念碑まで来ると、シモナが待っていた。かなり息が上がっているように見える。

「待ってよ!」

 スピードを落とさずに北西へ走って行ったら、シモナが大声を上げて追いかけてきたので減速する。

「考えたか?」

「考えたけど、解んない!」

「一つは環境を良くすることで、どれほどの効果があるのかを実証することだ。言葉では無理で、数値か実績で出すこと。それができないのなら、君がどこかへ移籍することだ」

 NFLで新スタジアムを建設するときには必ず数字を出す。これほどの増収効果があるのに建設できないのなら、フランチャイズを移転するぞ、と市当局を脅すわけだ。

 シモナの場合も同じ手が使えるとは思わないが、オーナーやコーチを納得させるには少なくとも彼女一人の意見ではダメだ。まあ、他には金の問題もあるだろうが。

「実績なんてどうやって出すの?」

「数字は出せないだろうが、とびきりいい設備を君のクラブのメンバーに使わせて、みんなに欲しいと思わせることだろうな」

「こっちのクラブの方がいい設備を使ってるけど、とびきりってほどじゃないよ。あのホテルのジムはとっても良かったけど、みんなで使うにはもっと広くなきゃ」

「さあ、そういう設備をどうやって探すかは、しばらく考えてみな。一人で考えるんじゃなくて、クラブのメンバーと一緒に考えてもいいぞ。明日も一緒に走りたいと言ったな? 続きはその時に相談しよう」

「考えてみるけど、難しそうー」

 俺だって答えを用意してるわけじゃないが、全て俺が解決する必要もないだろう。子供にだって考えさせなきゃあ。それが教育ってものだな。俺は教師じゃないけど。

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