#13:第2日 (7) ピアノの調べ

【By ピアニスト】

 また記念碑パミャトニクへ来てしまった。ここからの景色は、もちろん素晴らしい。けれど、私は景色よりも見たいものがあった。いや、私は探しに来たのだ。その人の姿を。

 その人は、ここに来るとは限らない。もうこの町にいないかもしれない。それなのにどうして私はその人を探しているのだろう。その人は、綺麗な景色が見られるところに現れる気がするからだろうか。何の根拠もなく、私はそう考えているのだ!

 そうだ、私はホテルへ行くのだった。今日もまたピアノを弾きに行く。だから、この公園を通るのは自然なことなのだった。記念碑パミャトニクへは、ほんの少し遠回りするだけで来ることができる。もうそろそろ、行かなければならない。その人の姿は見えない。

 この時間にも、公園を散歩している人が多い。走っている人もたくさんいる。何人かは、昨日も見かけただろうか?

 私の後ろを、誰か付いて来る。振り返ると、カメラを構えている女性だった。昨日も私を撮っていた人だ。話しかけようとしたが、前を向いて歩くように手振りで指示された。私の行き先へ付いて来るつもりだろうか。

 振り返ってはいけないと思いつつ歩く。しかし、何かしら意識しながら歩いてしまう。いつもはこんな歩き方だっただろうか? こんなおかしな気持ちになったのは初めて……

 ホテルの前まで来たら、ようやく後ろの女性の足音が止まった。ほっとしながら、ホテルへ入る。支配人がいつものように出迎えてくれた。



【By 主人公】

 ホテルに戻ったら、夕食の約束の時間ギリギリだった。イスタンブール公園でずっと粘っていたせいだ。イリーナにプライヴェイトのことを洗いざらい訊かれてしまった。

 俺としても彼女の性格や容姿が好ましいだけに、つい色々としゃべってしまう。もう2、3日一緒に行動したら、メグを上回るほど好ましく思うようになるかもしれない。

 それはとても困る。なぜならメグにはもう一度会える可能性があるが、イリーナにはこのステージ以外では会えないからだ。いや、メグにもう一度会えるかどうかも、本当は判らないのだが。

「デヴァイスを外したら、ホテルのフロントレセプションに預けて下さい。明日の朝、取りに来ますから」

 そう言いつつ、とても名残惜しいという表情でイリーナは去って行った。夕食を一緒にできないのが心底残念だったらしい。

 さて、時間がないが、一度部屋に戻って着替えてきた方がいいだろう。レストランの入口へ行って、ラーレが来ていないことを確認し、部屋へ飛んで帰る。インフォーマルに着替えてまた下へ降りる。

 7時を3分過ぎたが、ラーレは来ていなかった。またピアノの音が聞こえている。ロビーのピアノはここから見えるのだが、弾き手の顔は見えない。綺麗なアッシュ・ブロンドの持ち主だということだけは判る。

「お待たせしたかしら?」

 7時10分になってラーレが来た。穏やかな表情で、夕方に俺と会ったことを憶えていないのではと思う。

「いや、俺もついさっき来たばかりだ」

 それは本当だ。

「今日はどちらへいらしたの?」

「少し遠いところだ。サヴィツキー公園とか戦勝記念公園とか」

 研究所のことは言わない方がいいと思い、嘘を交えておく。

「そうでしたか。私は今日も色々なところで撮影していたんです。今日はとてもいい絵が撮れましたわ。シェフチェンコ公園で、とても立ち姿の美しい女性がいたんです。日傘を持っていたらモネの絵にも見えそうでした。それからバレエの練習風景を撮影してきました。オペラ・バレエ劇場で今週末に公演がある予定の少女たちなんです。こちらはまるでドガの絵のようでした。その後で町を歩く恋人たちを何組か撮ったんですが、あまり気に入ったのがなくて……」

 そのうちの一組は俺とイリーナだ。録画したのを後で見たら飛び上がるんじゃないか。

「充実していたようで良かったな」

「ええ、最初に言ったモネの絵のような女性は、ついさっきもまた見かけたんです。彼女は歩く後ろ姿がとても美しくて。特に、立ち止まっているところから歩き始めるときのあの愁いを帯びた横顔と後ろ姿は、女優に演技させてもそうそううまくはできないと思ったくらいで……」

「ところで、もう一人は?」

「撮った女性ですか?」

「いや、食事に来る女性だ」

「ああ、レディーバヤン・コニー・イサク。彼女はよく時間に遅れるんです。部屋に電話してみましょう」

 レストランの受付係に頼み、部屋へ電話してもらう。しばらく鳴らしても出なかったが、不意に入口にセクシーな女が現れた。

「こんばんは、ラーレ。夕食に呼んでいただいてありがとう」

「ああ、コニー、来てくれたのね! ちょうどあなたの部屋へ電話していたところよ」

 ラーレがビズのような挨拶を交わしている。彼女がコニー・イサクか。今朝、海岸を散歩してたな。

 モデルのように背が高くて、先端にウェイヴのかかった金髪ブロンドを背中まで伸ばしている。てっぺんが黒いので、どうやら染めているらしい。目は下がり気味で、色はブルー。代わりに細い眉がキリッと吊り上がっている。

 プロポーションが驚くほど良くて、どんな服を着ても似合いそうだ。実際、今着ている赤い肩出しベア・ショルダーのドレスも実によく似合っている。そして立ち姿も様になっている。セクシーで、人から見られることを明らかに意識しているな。

「アーティー、彼女がコルネリア・イサク。モルドヴァ出身の、新進のファッション・モデルなの。すぐ世界的に有名になるはずよ」

 道理でモデルらしいと思った。俺の方もラーレに紹介してもらい、握手を交わす。

「まあ、あの有名な財団で研究者を? お会いできて光栄だわ」

「こちらこそ。財団は有名でも、俺自身は君ほど有名じゃないよ」

 テーブルへ行きたいのだが、ラーレが俺とコニーの話しているところをしげしげと眺め、満足そうな顔をしている。そうか、そういうことか。だから俺をモデルなんかと会わせようと。

「ところで、俺のことはアーティーと呼んでくれ」

「ええ、私もコニーと呼んでね」

 ようやくテーブルへ案内される。窓際で、ラーレとコニーが向かい合い、俺がコニーの横に座る。どうしても俺がコニーと並んでいるところが見たいわけだ。

「数理心理学ってどんなことを研究するの?」

 座った途端にコニーが訊いてきた。興味深そうな表情をしているが、それは素なのか、それとも計算して作っているのか。

「計算によって今日の君の行動を当てるんだよ」

「まさか!?」

「もちろん、ジョークだ。本当は、集団の行動を計算機でシミュレーションして、その傾向を探る研究」

 その概念的な定義は説明しないが、実際例をいくつか挙げる。コニーは理解してくれたようだし、“目を輝かす”とまでは行かないが、それなりに興味を持ち続けているようだ。それでいて「それがどうして心理学なのかしら」などと鋭いところを突いてくる。

「だって、心理学って精神分析とか性格診断っていうイメージがあるから」

「個人向けにはそうだが、集団としての心理学というのもあるってこと。集団になると統計学が必要になるし、数式と計算機を使う。それを数理心理学と呼んでいるだけさ」

「もっと詳しく聞いてみたいけど、私には理解できないかもしれないわ」

「それほど難しい話じゃないんだが、ディナーの時にすると、料理の味が多少判りにくくなるかもしれないな。だから、モルドヴァのことを話してくれないか」

「いいわよ。私が生まれた頃は、まだソヴィエト連邦に属していて、モルダヴィアという名前で……」

 何も注文していないのに前菜が出てきた。たぶん、ラーレが事前にメニューを決めていたのだろう。

 モルダヴィアはモルドヴァに名前を変えた後、連邦解体後に共和国として独立。ウクライナとルーマニアに挟まれたそれほど大きくない国。面積はオランダより少し狭く、ベルギーより少し広い。合衆国ならメリーランド州と同じくらい。

「そんなことまで憶えてるのか」

「だって、合衆国で紹介するときにはその方が判りやすいもの」

 首都はキシナウ。人口は約65万人。オデッサから西南にほんの150キロメートルほど。彼女の出身もキシナウ。農業が盛んで特にワインが有名で、ミレシュティイ・ミーチには世界最大のワイン・セラーがある。

「3、4年前に、『ドラゴスタ・ディン・テイ』っていう曲をヒットさせたユーロダンス・トリオのオー・ゾーンって知ってる? 彼らはモルドヴァ出身なの」

「残念ながら。音楽はあまり聴かないんだ」

 俺にとっては60年以上前だよ。知ってるわけないって。

 その他には、プーシキンが一時期キシナウに住んでいたことがあり、その家が博物館になっているらしい。オデッサと同じだ。

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