#12:第7日 (20) 円形闘技場

 ステージが終了に近付いている。俺にしがみついている女の、“アンナ”という呼び方も、そろそろ元に戻した方がいいだろう。

 ただちょっと困るのは、彼女の本名がハンナ・イヴァンチェンコであることが判って、マルーシャ・チュライは芸名ステージ・ネームだということだ。どちらが正しい呼び名なのか。

 名前なんて識別子だからどっちでもいいという考え方もあるが、人名というのはその人物のイメージを喚起するための重要な要素の一つであって、適切に選択されなければならない。

 カレッジの時に反対のことを言っていた俺自身からは大いに進歩したものだが、とにかく名前は大事だ。

 そして彼女はオペラ歌手――それが彼女の本業ではないと思うが――として芸名ステージ・ネームを使用しており、彼女を知る多くの人にとっては、それが彼女のイメージを表すキーワードとなっている。

 従って、俺も元通り“マルーシャ”と呼ぶべきであろう。いつもながら理屈っぽい。

 さて、そのマルーシャはさっきからどうも様子が変だ。モトの後ろに乗って、俺にずっとしがみついているが、息が荒くなっているし、体温も上がっている気がする。疲れているのなら休憩すべきだが、しがみついている腕の力は強まっている感じだし、どうしたものか。

「休憩が必要か?」

 後ろへ向かって叫んだが、首を横に振る気配が伝わってきた。もっとも、休憩しようにもずっとA3高速道路を走っているので、路肩に停まるくらいしかない。休憩が必要ないのなら、早く着くに越したことはない。

 目的地、“ポンペイ考古学公園”の入り口は、A3のポンペイ出口からすぐのところにあった。

 8時半。ちょうど日没の直前だった。西の空は赤く燃え上がり、上天から東の空は青く暗く、そして星が輝き出している。

「ヘイ、着いたぞ」とマルーシャに声をかけたが、ぴくりとも動こうとしない。しがみついたまま気絶してるんじゃないか。腹に絡みついている細い手を叩くと、ようやく反応があった。

「ミ・プリーイカリー……もう着いたのね」

 声の調子からはそのニュアンスが掴みにくいが、早かった、という意味だろうか。モトの二人乗りなので50mphマイル毎時くらいしか出せず、遅かったと思う。で、いつ手を放してくれるんだ?

 夕闇迫る公園前には、もちろん誰もいない。入口には"PORTA MARINA"という名が掲げられている。“海の門”という意味だろう。そういえばゲートは“海の門ポルタ・デッラ・マリーナ”だった。これはもしかしたら? とにかく、入ろう。

 黒い鉄柵は閉まっている。もちろん、閉園時間を過ぎたからだ。マルーシャが手を放してくれないので、門を開けることもできない。どうせ、簡単なピンタンブラー式の南京錠に決まっているから、早く開けたいとも思わない。

「ごめんなさい……ステージが終わりそうだから、心を落ち着けていただけ」

 ようやく手を放してくれた。モトを降りて彼女の顔を見たが、この暗がりの中でもスポット・ライトを浴びているかのように、美しさのオーラを辺りにほとばしらせている。

 ただ、いつもそれと同時に感じられる“冷たさ”の迫力が、今一つ足りない気がしないでもない。やはり疲れているのか。

「ポンペイだったのね」

 門を見上げながら彼女が言う。やはり彼女は何でも知っている。

「そう。そしてナカムラ氏はこの中に宝石ジュエルを隠したはず」

「どうしてそれが判るの?」

「中に入ってから説明する。門は俺が開けよう」

「お願い」

 予想どおり、南京錠だったので、あっという間に開けてしまう。鉄柵を開いてマルーシャを通らせ、後から入って柵と錠を閉める。

 入口付近、一段高いところから、かつての住居跡を見ることができる。火山灰の中から掘り出された町の一角だ。惜しむらくは、既に陽が没して夕闇が迫っており、ここには夜間観覧のための照明設備が一切ないことだ。

「気分が悪いのならしばらく休むか?」

「いいえ、大丈夫。それで、どこに?」

「ナカムラ氏は、スタジアムへ連れて行って、ゲームの解説をしろ、と言ったんだったな」

「ええ」

「しかし、俺はそんな約束をしていない。ということは、ナカムラ氏のその言葉は、俺に対する何かのヒントだったわけだ」

「ええ、確かに」

「ところで、この中にはスタジアムがある」

円形闘技場アンフィテアトロのこと?」

「それをスタジアムと言ってはいけないか?」

「正確には違うものだけれど」

「なら、俺の考えは間違ってるかな」

「ミスター・ナカムラが同じように考えたのなら、合っているんじゃないかしら」

「たぶん、合ってるだろう」

「そう。円形闘技場アンフィテアトロは奥にあるわ。行きましょう」

 足下がふらついているように見えるのに、俺に弱みを見せたくないとでも思っているのか、マルーシャは先に歩いて行った。

 まず、ちょっとした坂を下る。先ほど見えていた建物は浴場であるらしい。その先、急な石畳の坂を登ると、トンネルがある。これが本物の“海の門ポルタ・マリーナ”なのだが、当時にそう呼ばれていたことがどうやって判ったのだろうか。

 上り坂のトンネルを抜けると右手に石の壁、左手には列柱の残骸が続く。そして住居跡、アポロンの神殿、中央広場フォーラム……知識としては、悲劇詩人の家とか、娼婦の館とか、綺麗なフレスコ画が描かれた邸宅があるとかを知っているのだが、残念なことにそれは別の場所のようだ。もっとも、この暗さでは何も見えない。

 東へ向かってほぼ一直線に、4分の3マイル以上は歩いたと思われるところで、南へ折れる。足下が石畳から砂地に変わり、100ヤードほど歩いたら少し開けた場所に出た。

 しかし、辺りはもうほぼ闇で、懐中電灯フラッシュ・ライトをあちこちに向けて、ようやくそこが広いということが判る程度だ。そして左手に弧を描く石壁が見える。それが円形闘技場アンフィテアトルム。楕円形の長軸に沿った頂点2ヶ所に、入口がある。

「中へ入るのね?」

「もちろんだ」

 マルーシャは一瞬立ち止まっていた。目は、心ここにあらずという感じ。やはり様子がおかしい。熱でもあるのか。

 入口から続く短い通路を通り抜けると、楕円形のボウルの底に出た。

 内部は長径が70ヤードほど、短径40ヤードほどだろうか。アリーナ・フットボールのフィールドも取れないほど狭い。

「この中の、どこに?」

「それをこれから探す」

 俺が意図したのは、リヴァース・プレイだ。QBクォーターバックはスナップを受けると、バックにボールを手渡ハンド・オフして、走らせる。多くの場合、RBランニングバック。バックは左右のいずれかへ走り、逆走するもう一人のバックにすれ違いざまボールをトス。多くの場合、WRワイド・レシーヴァー。最初のランで守備を一方のサイドに集めておいて、手薄になった逆サイドを突くトリック・プレイの一つ。

 このリヴァース・プレイの2番目のボール・キャリアーが、ナカムラ氏。彼はフットボールを知っていたから、気付いたに違いない。だからそれにふさわしい場所に隠してあるだろう。サイド・ライン際を快走、ロング・ゲインしてTDタッチダウンというのはどうか。

 この狭いフィールドに、エンド・ゾーンを作るとしたら。今、立っているところをボール・オンとして、最初のボール・キャリアーを左に走らせ、ナカムラ氏は左から来て右へ。

 右奥の方へ歩いてみる。フィールドの端の壁が近付いてくる。例えばこの辺りに……

 いやいやいや、ナカムラ氏、これじゃ隠したことにならないよ。地面の上に画用紙が1枚。その上に、やはり画用紙を折って作った箱。日本の折り紙のつもり?

 取り上げて、箱を開ける。ライトを当てて確認。ディアマンテ・アル・リモーネの指輪が収まっていた。

 察するに、彼がポンペイへ来たときには、もう閉まってたんだろうなあ。解錠して忍び込んで、ここへ置いていったわけだ。誰もいないのなら、隠さなくったって構わないだろうと。

 おやおや、地面に置いた画用紙には、絵が描かれている。山だ。ここから見た、ヴェスヴィオ山だな。記念にもらっておこう。

 振り返ると、マルーシャが立っていた。足音も立てずに付いて来ていたのか。しかし、見慣れた無表情ではなく、憂いというか翳りというか、弱々しさを感じさせる。やはり体調が悪いのかもしれない。

「無事、ターゲットを再確保した。ナカムラ氏に感謝しないと」

「ええ」

「宣言して、ゲートの位置を裁定者アービターに聞こう」

 指輪を掌に置いて、マルーシャに見せる。ダイアモンドの本物を見分ける方法は学習していないが、レプリカと比べても格段に輝きが違っているので、本物に間違いないだろう。

 マルーシャが右手を伸ばしてきて、指輪に触れた。その瞬間に、膝ががっくりと落ちた。慌てて手を握る。ターゲットは、ちょうど二人で握り合う形に……

確保ポゼッションだ!」

 腕時計を指輪に近付け、宣言する。もう周りは真っ暗で、どこに幕が下りてきたのかも判らなかった。

裁定者アービターはターゲットの確保を確認しました。確保者はハンナ・イヴァンチェンコとアーティー・ナイト。カラーはイエロー。あなた方はゲートの中にいます。このまま退出しますか?」

 知らない声の男が、英語とそうでない言語の二重音声でしゃべっている。英語でない言語は、たぶんウクライナ語だろう。“海の門ポルタ・マリーナ”があったから、ここがゲートかと思っていたが、当たっていたようだ。それより、マルーシャが大変なことに。

「すぐに退出だ!」

「ステージ内にいる他の競争者コンテスタンツが全て退出するか、または規定の時刻に達した時点で、ステージをクローズします」

 ところで、お前、誰だよ。俺のビッティーをどこへやった?

「そんなことより、彼女の……マルーシャ、いや、ハンナの様子が変なんだ。何とかしてやってくれ」

 いつもなら、バックステージへ入ると同時に身体の感覚がなくなるのだが、今回はなぜか彼女と手をつなぎ合っている感触が継続している。消えたのは、手の中にあったターゲットの堅さだけだ。

競争者コンテスタントの体調はモニタリングされています。ハンナ・イヴァンチェンコは重度の興奮状態にありますが、生命維持に支障はありません。バックステージを分割しますので、互いに手を放して下さい」

 手を放せばいいのか。いや、俺は放そうとしてるんだけど、マルーシャが握ったままなんだよ。崖から落ちるのを防いでるときくらいの、すごい力だ。裁定者アービターの声が聞こえてないのか。

「ヘイ、マルーシャ! 手を放せ! 楽になれるぞ!」

 崖から落ちそうな女に向かって、放せば楽になれるとは何たる薄情。いや、そういうシテュエイションじゃないから。ますます握り方が強くなってくるぞ。最後の力を振り絞ってる感じか。痛い痛い痛い、骨が折れる、骨が!

「緊急措置を実施します。ハンナ・イヴァンチェンコの意識を凍結します」

 裁定者アービターの声の直後、俺の手を握る力が消失した。手を放す、という感じはなく、まさに突然消えてなくなったのだった。

「ヘイ、ビッティー!」

 せっかく退出したんだから、講評の前に声くらい聞かせろ!

裁定者アービターはアーティー・ナイトの退出を確認しました」

 良かった。一言でも声が聞けて安心した。同時に、俺の身体の感覚もなくなった。しかし、最後のマルーシャの行動は、いったい何だったんだろう。俺が騙したので、実は怒っていて、その怒りを最後に爆発させたのだろうか。彼女の性格からして、そんなことはないと思えるのだが。講評の後で聞いてみよう。

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