#12:第6日 (3) 白い令嬢

 ベアトリーチェの笑顔に見送られ、モトに乗って、マリーナへ行く。近くの方ではなく、フェリー・ステーションのある方だ。

 建物を行き過ぎたところの駐車場にモトを停めて、ヨットやクルーザーが泊まっている桟橋へ行く。

 ステーションはこの時間帯、フェリーの客がたくさんいるので、待ち合わせには都合が悪い。とはいえ、桟橋の方もそれなりに人がいる。平日の朝だが、レンタルの船を使う旅行客がいるのだろう。

 桟橋に、白いドレスに白い帽子の令嬢が立っている。いかにも気品溢れる……いやいやいや、デメトリアだった。まさかの変わり様。

 シェフの時も白い服だけど、袖無しにして、胸元を広く開けて、ウエストを締めて、膝丈のスカートにして、薄く化粧をしているというだけで、これほど印象が変わるか? そこのフェリー・ステーションに連れて行ったら、何人の男から声をかけられるか判ったものじゃないぞ。というか、既に何人かから声をかけられたんじゃないか。

おはようモーニン、デメトリア。今日は素敵な天気だが、君はそれ以上に素敵だよ。太陽も君に嫉妬しているだろう」

「そんなに褒めなくていいから!」

 イタリアの女は男から褒められ慣れているはずだが、デメトリアは例外なのか、それとも別の理由か。

 クラウディアはと訊くと、先に船で準備をしていると。桟橋から枝のように無数に伸びた細い浮き橋があって、その一つに案内してもらう。白いクルーザーだ。

 前々回、バハマで乗ったのよりは、二回りほど小型。それでも、個人が持っているクルーザーとしては高級品だろう。船長というのは高給取りなのかな。

「チャオ、アーティー、船の準備はできてますよ。早速、出航しましょう」

 クラウディアも白い服。ただし、半袖で、胸元のボタンもきちんと留め、膝下のパンツという姿。船長帽をかぶっているのは、今日は操舵に専念するので、俺とデメトリアの邪魔はしないという意味か。

 それにしても、クラウディアの目的が今一つはっきりしない。俺にデメトリアをデートに誘わせて、彼女に何のメリットがあるのだろう。

 とにかく、船に乗り込む。乗るときにはもちろんデメトリアの手を取って、エスコートする。

 船尾スタンデッキのシートに、デメトリアと並んで腰掛ける。身体を近くに寄せているのだが、案に相違して嫌がらない。その代わり、俺の方を見ず、目も合わせない。緊張しているようだ。

 船がゆっくりと動き出す。桟橋に密集した他の船の間を抜けて、防波堤の隙間から外海へ出た。波が大きくなり、船が揺れる。気分が悪くなるほどではない。適度な強さの潮風を顔に受けて、快適なクルージングだ。

 デメトリアは唇を噛むように口を真一文字に結んでいたが、ヴィエトリ・スル・マーレの町並みが右手に見える頃になって、急に俺の方を見て口を開いた。

「あの、朝食も作ってきたんだけど、もし良かったら……」

 桟橋で会った時には大きな藁色のバスケットを手に提げていて、それは今、彼女の膝の上に乗っている。たぶんそこに食べ物を入れてきたのだろうとは思っていた。

 ダイヴィングの合間につまむための物を頼んだのだが、朝食まで作ってきたとは思わなかった。しかも、彼女の方から言い出すとか、どういう心境の変化なのか。

「ありがとう、もちろんいただくよ。朝から君のおいしい料理を食べられるなんて、とても幸せだ」

「そんなに褒めてもらうほどのものは作ってきてないけど……」

 そう言いつつも表情は先ほどよりも少し穏やかだ。

 バスケットから取り出してきたのはまさにランチ・ボックスで、開けるとサンドウィッチとフルーツがぎっしり詰まっていた。朝食を摂っていないので、余計においしそうに見える。

「君が一番おいしいと思ってるのはどれ?」

「エビとアヴォカドの……」

 デメトリアが指差したサンドウィッチをつまみ、口に入れる。アヴォカドのスプレッドが漏れ出してきて指に付いた。それも舐めておく。

「エビはボイルしたのをさらに軽くソテーしてあるんだな。海の香りがするよ。アヴォカドに混ぜているのは、レモンとクリーム・チーズとオリーヴ油? 刻んだチーズも入ってるな。レタスの歯触りもいい。いくつでも食べられそうだ」

「よかった……あなた、エビが好きみたいだったから、それで……」

 予想以上に嬉しそうな顔をしている。居酒屋オステリアではいくら褒めても、こんな顔を見せたことがない。

 もしかして人目があると本性を出せないタイプだろうか。そういう女は二人きりになるとまるっきり性格が変わることがあるから、要注意なんだが。

 サンドウィッチの残りを口に入れ、次にどれを食べたらいいか訊く。デメトリアが焼き魚のサンドウィッチを指差す。仕草がさっきより柔らかい。

 塩胡椒でソテーしたサバを挟んだもので、トルコ料理のバルク・エキメッキをアレンジしたものとのこと。サバの他にトマトとタマネギ、それにレモン汁をたっぷりかけてある。

「これももしかして、俺が魚料理をよく頼んでたから?」

「ええ」

「俺が頼んだ料理を全部憶えてくれてるのか」

「ええ……あの、でも、それは仕事だから」

「仕事でも俺の好みを憶えてくれるのは嬉しいよ。ところで、君も食べないか?」

「私は、作ってる時に食べたから……」

「そんなこと言わずに」

 デメトリアがサーモンのサンドウィッチを取ろうとしたのを制し、俺がつまんでデメトリアの口元に持っていく。デメトリアの口元が妙な形に歪んでいる。嫌がっているわけではなく、素直に喜びを表していいものかどうか迷っている、と思うのだが、どうであるか。

 しばらく待っていると、デメトリアが意を決したようにサンドウィッチの端をかじった。コーラル・ピンクの口紅がパンに薄く付いている。

「おいしい?」

「自分で作ったんだけど」

「でも、おいしいと思って作ってきたんだろう?」

「それはそうだけど」

「じゃあ、残りは俺がもらおう」

 残りのサンドウィッチを一口で食べる。たっぷりかけられたオリーヴ油と、バジルの香りが素晴らしい。食べているところを、デメトリアにじっと見られている気配を感じる。特に口に出して褒めなくてもいい気がしてきた。

「おいしすぎて、食べるごとに腹が減る。次は?」

 スズキのソテーとレモン・クリーム。次に生ホタテとトマト・ソース。いずれもデメトリアに一口かじらせてから食べた。

 デメトリアが、照れながらも少しずつ嬉しそうな表情になって来た。こういう子供っぽいやりとりが好きなのだろうか。

 タコとバジルとオリーヴ油のサンドウィッチもおいしそうだったが、腹がいっぱいになりそうだったのでやめておく。ダイヴィングの話はせず、料理の話題で引っ張る。

 子供の頃から料理が好きで、母親に教えてもらって、最初に自分で大成功だと思った料理はアランチーニ――揚げライス・ボール――。パスタは自分が柔らかめが好みなので家族にはいつも不評で、魚料理は作れるけど食べるのはつい最近まで苦手で、12歳の頃には将来料理人になると決めていて……途中からずいぶんと饒舌になってきた。

「料理を褒められるのは、本当は嬉しいんだけど、家族以外の人がいるところで褒められると、すごく違和感があって……」

 どうやら何らかのトラウマを抱えているらしいということは判った。しかし、このデートの間に、俺がそれを解決しなければならないのだろうか。はなはだ難しいと思う。

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