#12:第2日 (7) 発音練習
約束どおり、“ギンザーニ”へ8時半に。やはり混雑している。昨日も見たウェイトレスが、また来たの、という顔をする。約束したから来たのに、そんな顔をしなくても。ただ、約束したのは君じゃないけどさ。
「席が空いてないわ。ちょっと待って」
もちろん、夕食時間帯なのでそういうこともあるだろう。でも、約束したんだぜ。クラウディアからは何も聞いてないのかよ。
ウェイトレスは俺に
そしてどこの客をどう動かしたか知らないが、間もなく「テーブルができた」と言って俺を呼び、二人掛けに座らせてくれた。
「クラウディアは?」
「さあ? いつ来るか、聞いてないけど」
でも、来るんだよな、と確認したら、来ると言うので、待つことにする。飲み物すら出てこないというのは手持ち無沙汰でいけないが、一人で来ているのが悪いのだろう。他はみんな二人以上で、賑やかに談笑しながら食べている。それはもう、食べる合間に話すのではなく、話の合間に思い出したかのように食べる、というくらいで。
イタリアのレストランというのは、会話をするところらしい。
「料理のことは、クラウディアから何か聞いてる?」
7分経ってようやくオレンジ・ジュースが出てきたので、ウェイトレスに聞く。
「いいえ、何も」
「シェフのデメトリアに、俺が来たことは言った?」
「ええ、言ったわよ」
「何か反応は」
「特に何も」
しかし、デメトリアと約束があるのは理解してるはずだし、無視されることはないと信じて、待つことにする。
「チャオ、アーティー、お待たせしました」
8時45分。クラウディアがようやく来た。15分遅れ。自分で決めた時間から遅れるなんていい度胸だが、イタリア人ならこんなものだろう。今日も白いブラウスに、ブルーのパンツ。
「たいして待ってない。ちょうど最初の皿が来たところだ」
イタリアのレストランというのは食べ物が出てくるのがとても遅い。それなのに、酒だけはさっさと出てくる。クラウディアが座った途端に、ワインの瓶とグラスがテーブルに置かれた。きっと、来る直前に連絡したんだろう。ウェイトレスも、言ってくれりゃいいのに。
「今日は日誌の作成に時間がかかったのですよ。それで……」
「早速だが、今日は英語だけで話をしないか?」
昨日は発音のポイントを教えるだけだったが、今日は早くも実践をやってみることにする。ただし昨日の練習が、今日、どの程度活かされたのかは解っていない。
「オーケイ、
質問に答える前に、発音を矯正する。"er"、"nd"、"ight"、"ay"、"ee"など。自国語の綴りと発音が違ったり、自国語では現れない綴りだったりすると、ことごとくダメになる。
もっとも、英語話者ですら、この綴りでなぜこの発音になるのか理解できない単語があったりもする。"women"の"o"を"i"のように発音するのがその代表だろう。だから
そして、発音を矯正してから、答えを返す。会話が普通の2倍から3倍時間がかかる。
今日、訪れた町で見てきたものの話をしたが、さすがにクラウディアもどこに何があるかよく知っている。フェリーが泊まらない町でも、海から見た景色を説明しなければならないからだろう。
もっとも、船長が町の観光案内をするなんてのはおかしな話だが、港での乗り降りの時に訊かれたりするのかもしれない。
それにしても、クラウディアは俺が発音を矯正しているときに――つまり、俺が単語を発音しているときに――俺の口元を見ず、目を見ている。発音は耳で聞くだけではなく、口の形を真似ることも大事なのだが。
「テーブルの反対側に座っていると、口元がよく見えませんね。隣に座っていいですか?」
それはいいんだけど、どうしてそんなに近くに座るんだよ。しかも、それでも俺の目を見てるし。
「いいえ、ちゃんとあなたの口を見ていますよ。キスがとても上手そうな唇です」
何を訳の解らないことを。もう酔っ払ったのだろうか。俺のキスは、たいてい女にリードしてもらってるんだぜ。
不意にデメトリアが来て、テーブルに皿を置いた。いくつも頼んだ料理のうち、なぜか一皿だけ、彼女が運んでくる。だから、どうして俺を睨んでるんだって。
「チャオ、デメトリア。私は今、彼に英語の発音を教えてもらってるのよ。あなたも一緒に教えてもらう?」
クラウディアが余計なことを言う。しかも楽しそうに。
「どうしてそんな必要があるのよ」
「でも、この店にだって、外国のお客さんは来るじゃないの。英語の方が通じやすい時だってあるでしょう?」
「そうしなくてもいいように、英語のメニューを置いてるの。それで十分でしょ」
「オーケイ、解ったわ。じゃあ、このメニューに書かれた英語が間違ってないか、彼に見てもらうから」
「好きになさいよ」
不機嫌そうなデメトリアが厨房に戻った後で、クラウディアに訊く。
「どうして君は俺のことをわざわざデメトリアに報告するんだ?」
「あなたが、彼女の好みの男性だからですよ。彼女は何度も失恋してますが、好きになるのはいつもあなたによく似た人なんです」
イタリア人に、俺に似た男なんていないと思う。俺よりハンサムで、話がうまい奴ばっかりだぜ。そうでないイタリア男に、存在意義はないだろう。
「俺はいつまでもここにはいられない、そのうち来なくなるんだから、好きになられても困る」
「彼女が決心して、あなたに付いて行くかもしれませんよ」
それはもっと困る。というか、付いて来るのは不可能なんだけど。
「俺には婚約者がいるんだよ」
「あら、そうでしたか、それは残念です。妹がダメなら、私でもと思ってましたが」
何言ってるんだか。それより、いつの間にかしゃべりがイタリア語に戻ってるじゃないか。デメトリアと話をしたからだ。英語でしゃべれ。
「オーケイ、アーティー、それでは、
発音まで元に戻っちまったよ。どうやって矯正すればいいんだ?
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