#12:第1日 (5) 美術館、またはマリーナで
やはりピンタウロのスフォリアテッラは素晴らしくおいしかった。
リッチャとフロッラを八つずつ、発祥の味を堪能することができた。お腹の方は、夕方まで保つだろう。
リストランテも予約した。これから夕食までの間、どこで過ごそうか。
やはりカポディモンテ美術館だろう。ティツィアーノを見ることができる。ここからは、北へ歩いて1時間くらい。
タクシーはやめておこう。運転手を危険にさらすことはない。バスに乗ろう。ダンテ広場に乗り場がある。
歩くと、また男が声をかけてくる。相手をするのが面倒。私のことなんて、放っておいてくれればいいのに。関わると、危険なだけだから。
ダンテ広場に着いたら、ちょうどバスが来た。178番。たぶん、カポディモンテへ行くだろう。
乗ったら、男が近付いてきた。何も話しかけてこない。私に何の用だろうか。バスが揺れた拍子に、うっかり男の足を踏んでしまった。痛がっている。足の指が折れたかもしれない。可哀想。病院へ行けばいいのに。
カポディモンテのバス停に着いた。美術館まで歩く。入場料は30リラ。私の時代よりもかなり安い。2階の展示室に上がると、男が声をかけてきた。
「
「持ってないの。受付へ行けば借りられるわ」
まだ何か言っているが、放っておこう。ここにはティツィアーノの『ダナエ』がある。これを見ながら1時間くらい過ごすことにしよう。
ベッドに横たわり、エロスを見るダナエの柔和な笑顔が素晴らしい。プラド美術館のものよりも、こちらの方が柔らかく感じられる。
私もこんな表情が、自然にできるようになれるだろうか。そしてその表情を向ける相手は……
「シニョリーナ、絵がお好きですか? この後、レストランに行って二人きりで美について心ゆくまで語り合いたいですね!」
「チャオ、ベッラ、絵の中から抜け出してきたのかな? ああ、失礼、絵の中の女性よりも、君の方がずっとずっと美しいよ!」
「私もこの『ダフネ』が一番好きな絵なのですが、あなたに見られていると少し残念な気持ちになってきました。あなたと並べるとこの絵の美しさが霞んでしまいますから」
「ああ、
「イタリアが生み出してきた美の歴史は今日で終わった! なぜなら君がその最後の美だからだ!」
この絵を一人でゆっくりと楽しむには、盗み出すしかないのかもしれない。後で、時間があればそうすることにしよう。
あっという間に1時間経ってしまった。次はどこへ行こうか。
そういえば、宝石を探さなければならないのだった。ナポリに関連する宝石……何も思い付かない。個人で所有しているのではないだろうか。
もしかしたら、このステージにいる間に、オークションにかけられるのかもしれない。ナポリでオークションというと、ブリンダルテがある。どこに行けばいいのかは知らない。受付に訊いてみよう。
カヴールから地下鉄に乗って、レオパルディで降りる? カタログだけ見られればいいのだけど。
「今週か来週にある
「でしたら、こちらをどうぞ!」
カタログをもらうことができた。受付の女性は、とても美しい笑顔で応対してくれた。彼女こそ美術品だろう。私など遠く及ばない。
カタログは、カフェに行って読むことにしよう。1階へ降りる。店へ入ると、すぐに席に通された。
「ババは何種類あるの?」
「6種類でございます」
「では、それを全て一つずつ。それから、エスプレッソを一つ」
「一つでよろしいですか?」
「ええ、一つ」
「
「相席はお断りしているわ」
カタログに目を落とす。オークションの予定日は7月1日、水曜日。テーマは“宝石、美術品と家具”。きっと、一番最後の方だろう。
あった。おそらく、これのことだろう。“ディアマンテ・アル・リモーネ”。100.09カラット。評価額は3000万リラ。出品者はアルノルド・アスカーリ。
「ババとエスプレッソをお持ちしました」
「
「チャオ、ベッレ・シニョリーナ、宝石に興味があるの? でも、どんな宝石でも君の美しさには敵わないよ!」
「相席はお断りしているわ」
さて、今夜のホテルだが、地図を見るとB&Bという名前が、やたらと目に付く。もちろん、ホテル・チェーンではなくて、“
そういうところに泊まってもいいのだが、こちらで選ぶよりはキー・パーソンに出会って連れて行ってもらうのがよくて、しかし残念ながら誰ともぶつからずに、サレルノの駅前まで戻ってきた。
ここはバス・ターミナルがあるから便利な場所で、明日以降のことを考えると、この近辺に泊まることにしたい。そして、ロジスティクス・センターに預けた荷物を受け取るには、やはり大手のホテルの方が都合がいいだろう。
ということで、手始めに駅の真正面にあるプラザ・ホテルへ入ってみる。ドアマンはいなかったが、ベル・ボーイがいた。鞄を奪い取ろうとするので、断って
「予約はないんだが、宿泊したい」
「お一人ですか。何泊のご予定ですか?」
あいにく本日は満室です、という答えも予想していたのだが、あっさり裏切られた。
「最長で6泊」
「調べます。少々お待ちください」
美人は笑顔で端末を操作していたが、すぐに顔を上げて言った。
「土曜日にお部屋を移っていただくことになりますが、それでよろしければ」
財団の肩書きがないのに、どうして今回はこんな簡単に部屋が取れるんだろう。何かが間違っている気がする。
「それでいい」
例のクレジット・カードを差し出す。美人が笑顔でそれを受け取り、端末にタッチする。
「
荷物のことを訊いてもいないのに、この親切さよ。財団研究員だとサーヴィス過剰すぎるから、これくらいがちょうどいいな。
「ありがとう。君、名前は?」
「ベアトリーチェ・ジャコメッリです」
「ベアトリーチェか、いい名前だ。ダンテの『神曲』に出てくる」
「ありがとうございます。よく言われます」
「月並みすぎる褒め方だったな。じゃあ、15世紀のナポリ王女の名前」
「あら、よくご存じですね!」
「さっきもらった観光案内のリーフレットに書いてあったんだ」
それからペイジ・ガールに部屋まで案内してもらった。ずいぶんと尻が小さい。そんなことはどうでもいい。
さて、早々にホテルが決まってしまったので、時間が余っている。まだ6時だ。外は明るいし、夕食には早いので、出掛けよう。
せっかく海が綺麗なのに、山の上から眺めただけなので、海を見に行く。正確には、フェリーのことを調べに行く。
幸い、このホテルからはフェリー乗り場も近い。南に向かって3分歩くと海岸で、マリーナがあり、防波堤の先にあるフェリー乗り場までまた徒歩3分だ。
マリーナには大小様々なボートが浮かんでいた。手漕ぎの釣り船のようなものから、スポーツ・クルーザーまで。バハマのステージで俺が乗せてもらったような大きなものもいくつかある。ヨットもあるが、もちろん帆はたたまれている。
フェリーのチケット売り場で時刻表をもらう。アリコストとトラヴェルマールの2社が運行しているらしい。ついさっき、アマルフィ行きの最終便が出て行ったところだ。
サレルノにフェリー乗り場はもう一つあって、ここから湾を挟んで西に4分の3マイルほどのところに見えている。
今いるところには“マリーナ・マスッチオ・サレルニターノ”、あちらには“スタツィオーネ・マリッティマ・ディ・サレルノ”という名前が付いている。
防波堤から戻り、海岸線の歩道を西へ向かって歩く。他にも歩いている奴らがたくさんいる。観光客が散歩しているのだろう。
右手の木陰の下にベンチがあり、座って海を眺めている男女がいるかと思えば、海側の柵に腰掛けて、陸の方を眺めている孤独な怪しい男もいる。柵に寄りかかって、海に釣り糸を垂れている男の姿もある。
海辺にたくさんボートが係留されているなと思ったら、レンタル・ボート屋があった。その横には海を眺めながら食事できるカフェが建つ。
海岸線に沿って左へ緩やかに曲がっていくと、奇妙な建物が見えてくる。半円の弧を描くように曲がっているが、実はホテルであるらしい。“クレセント・ムーン”という名前。イタリアなのになぜ英語で名付けられているのかは不明。
その手前の海辺に、小さな砂浜があって、ビーチ・パラソルがたくさん並んでいる。もちろん、人工の砂浜であることは明らか。泳げない俺にとっては砂浜が人工だろうが自然だろうが関係ない。もう日暮れに近いので、当然のように人はいなかった。
そして半円弧型ホテルの前の広場を通り過ぎると、マリーナがある。先ほどのより格段に広くて、ボートの数も多い。太い突堤の真ん中にフェリー・ステーション。
ここは長距離フェリーが発着しているので、もしかしたら見えない壁があるかも、と思って警戒していたのだが、また裏切られた。
外国行きの船だって出ているし、マリーナのボートに乗ったら、どこへだって行き放題じゃないのか。もしかしたら、フェリーは特定の便にしか乗れないのかもしれないし、ボートは中型ばかりなので、遠くへ行くには燃料が足りなくなる……のかも。
念のため、マリーナのボートに近付いてみる。うむ、行ける。乗れるな、これは。ただ、ボートに乗るのは前例があるし、ボートの持ち主と知り合いになるというシナリオもあるかもしれない。
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