#12:第1日 (6) 溺れる者は浮き輪を掴む

 海の方を眺めていると、フェリーが近付いてきた。カプリ島から来た便だろう。到着を見るために、フェリー・ステーションへ戻る。

 予想以上に大きい船だった。客室は2階建てで、上段はオープン・デッキ。そこに客を満載している。接岸して、客がどっと降りてくる。こんなにたくさん観光客がいるのに、どうしてホテルは空いているのだろう。

 客がけるのを見届けてから、俺もホテルの方へ戻る。来たのと同じ、海岸沿いの歩道を歩く。

 日はだいぶ西に傾いてきたが、まだ山の向こうには隠れていない。日没はたぶん8時半頃だろう。ヨーロッパの夏は日が長い。

 海を見ながら歩いていると、またフェリーがやって来た。あれは小さい方のマリーナに到着するに違いない。興味本位だが、見に行ってみることにする。

 船の方が先に到着してしまうかに見えたが、防波堤のところで転回するのに時間がかかっている。俺が乗り場の近くまで来たら、ちょうど客が降りてきた。

 先ほどのフェリーよりずっと小さい。長さは半分くらいか。一応、2階建てで上はオープン・デッキだけれども。船長が降りる客に挨拶して……おお、女の船長? え、あ、おい、誰だ、押したのはっ!

 あっという間に海の中に……落ちた。落ちるときに景色がスロー・モーションに見えるってのは本当だった。

 ああ、沈んでいく。海ってのは上から見たときには青かったのに、水の中から見ると青くないぞ。

 泳げないが、ティーラに少し教えてもらったから、とりあえず浮くくらいはできるはず。手で水を掻いて……って、ほとんど浮き上がらんなあ。もっと真面目に練習に付き合ってればよかったか?

 後悔しても今さら遅い。それでも手で水を掻くことを繰り返して、水面に……ようやく浮かんだ、がっ!

「ぶはっ!」

 何か顔にぶつかったっ! 何だよ、せっかく浮かび上がったのに、息吸う前にまた沈んじまった。どうすんだよ、これ。こんなところで溺れてゲーム・オーヴァーかあ?

 いや、何か水の上に浮いてるぞ。浮き輪だな。誰かが浮き輪を投げてくれたんだ。しかし、顔に当てるかよ。

 もう一度頑張って浮かび上がって、やっとのことで、浮き輪をつかむことができた。ようやく息もできた。

大丈夫スタイ・ベネ? 引っ張りますよ」

 女の声がする。ああ、浮き輪にロープが付いてるのか。フェリーの装備か何かかな。

 しかし、引っ張るったって、防波堤から3ヤードくらいしか離れてなかったので、すぐだった。それでも溺れるときは溺れるんだな。

 え、何、ここからは上がれないから向こうの方へ? なるほど、防波堤を切り欠いて階段が作ってあるから、そこから上がれってことか。とにかく、助かった。

「災難でしたね。財布とか落としてません?」

 また女の声。財布はたぶん大丈夫。スリに備えて、ボタン付きのポケットに入れてあるから。念のため確認。うん、あった。これをなくしたら全財産を失うから、用心してるんだよ。

 それより、時計は大丈夫か。単なる生活防水のはずだから、クリエイターが仕込んだスマート・ウォッチ機能が壊れてなければいいが。

「ありがとう。助かった。落とし物もないよ。その……船長キャプテン?」

 白い船員服の女が、防波堤の上から笑顔で覗き込んでいる。肩章は見えないが、帽子に金筋が付いているので、階級が高いことだけは判る。

「ええ、船長カピターナのクラウディア・パレッティです。あなた、船に乗ってたかしら?」

「いや、船が着くところを見に来ただけだ。接岸を見るのが好きでね。明日は乗るかもしれない」

「ああ、そういうこと。それで、着替えは? ホテルは近いのかしら」

「近いよ。プラザだ。すぐそこ」

「あら、そう、それはよかった」

「しかし、こんなずぶ濡れで戻るわけにはいかない。せめて絞らないと」

「そうね、じゃあ、タオルを貸してあげます。ちょっと待ってて」

 やけに優しい船長だが、もしかしてキー・パーソンか? しかし、俺がここに船を見に来たのはたまたまだぜ。

 とはいえ、架空の国の宿屋の娘だって実にタイミングよく階段を登ってきたし、俺がこの時間帯にここへ近付いたから、あの女が船長になって登場したってこともあるかもしれん。

 だいたい、船長にしては美人すぎるし若すぎるだろ。何か設定があるに決まってるって。というのはさすがに、偏見が過ぎるだろうか。

 タオルを持ってきてくれた。礼を言って、顔と頭を拭く。どこか服を脱げるところは? ああ、チケット売り場の建物の陰ね。

 そこへ行って、まずポロ・シャツを脱いで、絞る。身体は拭かなくていいだろう。どうせこのシャツを着ないといけないんだから。続いてジーンズを脱ぐ。下着も脱いで……いや、船長、まだ覗きに来たらダメだって。

「あら、失礼、船の中で着替えたらどうかと思って、言いに来たんです」

「着替えは持ってないよ。ホテルに戻らないと」

「それもそうね。もう身体を拭き終わりました?」

「まだだ。これから下着を脱いで絞る」

「じゃあ、ここに立って、人目から隠してあげます」

 ああ、それはいいな。ヌーディスト・ビーチじゃないだろうし、公然猥褻罪で捕まったら困る。でも、頼むからこっちを見ないでくれ。

「どこから来たんですか、連合王国?」

 彼女には俺の言葉がイタリア語で聞こえているはずだが、英語訛りでもあるのだろうか。

「いや、合衆国だ」

「休暇の旅行?」

 どう答えたものか。仕事で来た……は、さすがにおかしいだろう。今回は財団の研究員じゃないし。

「そうだ」

 下着を脱いで絞り、さっさと穿いてしまう。これで見られても大丈夫。

「どこを見に行きました?」

「アマルフィを少しだけ」

「サレルノに来る前はどこにいました?」

「今日、イタリアに着いたばかりだ」

「あら、そう、じゃあ、明日から見て回るんですね。何週間の予定?」

「この辺りには1週間ほどかな」

「その後はどこへ?」

 それは俺も知りたい。でも、寒い国は行かなくていい。フロリダみたいな温暖なところが好きなんだ。

「まだ決めてないが、ローマかな」

行き当たりばったりア・カプリツィオ?」

「そんなところだ」

「サレルノへ来たのも? ナポリから来たんでしょう?」

「そうだ」

 ということにしておこう。

「それでよくホテルが取れましたね。この時期、普通は満員なんですけど」

「団体が直前にキャンセルでもしたんだろう」

 脱いだジーンズを絞る。船長は首だけをこっちに向けて、横目で見ている。この状態なら特に恥ずかしいことはない。が、なぜ彼女が俺を見ようとするのかが判らない。

「運がいいんですね、あなた」

「普段はよくないから、今回限りだろう。この先が心配だ。ところで、もしホテルが取れてないと答えてたら、紹介でもしてくれたのか?」

 一応、彼女が“宿屋の娘”なのかどうかくらいは確認しておこうか。

「いいえ。ただ、夜遅くまでやってる居酒屋オステリアを知ってるから、そこへ連れて行くくらいですね」

「閉店になったら追い出して、夜明けまで我慢しろって?」

 駅の待合室にでも行けば泊まれるのか。この時期なら暖かいから、野宿だってできるかもしれないが、今回は寝袋は持ってないぞ。

「ほとんどの場合はそうですね」

「例外もあるのか」

「人が良さそうなら、閉店後でも店内に置いてくれることはあります。ただ、朝まで出られないって条件ですけど」

「俺は人相が悪いから置いてもらえないだろう」

「どうかしら? 店主ティトラーレに訊いてみないと」

 可能性があるとでも? ただ、この仮想世界の女は、俺がとびきりいい男に見えることもあるらしいから、理解できなくもない。

 絞った後のジーンズを穿く。濡れたジーンズというのは、どうしてこんなにも穿きにくいのか。

「ありがとう、もう隠してくれなくてもいい」

 あと、そんなに見なくていいから。

「夕食は?」

「まだだ」

居酒屋オステリアを紹介してあげましょうか?」

「じゃあ、頼む」

 そこで別のキー・パーソンに会えるのかもしれない。海岸通りルンゴマーレを東へ行った“ギンザーニ”を紹介された。何でも安くてうまいのが自慢だそうだ。

 ホテルに戻ると、濡れ鼠になった俺を見て、ベル・ボーイが入るのを止めようとしたが、ベアトリーチェのおかげで入ることができた。彼女は優しい。

 部屋でシャワーを浴びて着替える。ロジスティクス・センターから荷物が届いていたので、今回は服が豊富にある。小憩してから居酒屋オステリアへ行く。

 ちなみにプラザにもレストランが入っていた。明日の朝にでも、利用することになるだろう。

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