ステージ#12:プレゲーム・イヴェント

#12:ステージ開始半年前 (1)

 フランスのリゾート地シャモニーと、イタリアのリゾート地クールマイユールを結ぶモン・ブラン・トンネルは、全長11.8キロメートル。これを抜ければイタリアだ。いや、もう3分の2を過ぎた頃だから、既にイタリアの領土に入っているだろう。

 トンネル内は最低時速50キロメートル、最高時速70キロメートルを守らねばならず、なおかつ車間距離を150メートル以上取らなければならない。

 その通行量にもかかわらず、対面2車線なので、トンネルに入るまでに車が列をなし、長く待たされる。しかし、入ってしまえばイタリアまでわずか10分。

 ジュネーヴの銀行は、もう気付いただろうか。おそらく、まだだろう。しかし、たとえ気付いてももはや遅い。

 我々は既にスイスからフランスへ抜け、そしてイタリアへ入ろうとしている。非常線を張ることすらできなかったわけだ。教授の作戦は、やはり完璧だった。

 ほとんど一直線で、わずかな勾配があるだけの暗い単調な道は、眠気を催させる。前の車が、特にゆっくり走っているせいでもある。最低速度ぎりぎりだ。

 ようやくトンネルを抜け、雪に覆われたクールマイユールへ出た。もちろん、シャモニーも雪景色だった。白い世界から黒い世界へ入り、そして白い世界へ戻ってきたわけだ。

 眩しさに、眠気も醒める。前を行く車は、トンネルを抜けた途端に猛スピードで走っていった。こちらも少しだけスピードを上げる。

 ジュネーヴから1時間半、そろそろどこかで車を止めて、勝利の祝杯を上げたい気分だった。もちろん、アルコールを飲むことはできないけれども。

 アロイスは隣で運転するアントニーを、ちらりと横目で見た。トンネルの中ではずっと無言だった。万一のためにカー・レディオを聞いていなければならなかったからだ。しかし、トンネルを出て、レディオを消してからもまだ無言だった。

 今度は右を見る。眼下にアオスタ渓谷の景色が広がっているが、トンネルで一瞬遮られ、その先のヘアピン・カーヴを曲がると渓谷の眺めは左窓に移る。さらにその先の分かれ道では、新道の方へと進む予定になっていたが……

「何だ、あれは!?」

 アロイスが思わず口走ったのと、アントニーがブレーキを踏んだのは、ほぼ同時だった。新道への分岐を、数台の黒い車が塞いでいる。

 そしてそのうちの1台の窓から黒い服の腕が出ていて、旧道を指差しているのが見えた。警察か? しかし、それなら車の屋根に回転警告灯をつけているはずだが。

「どうします?」

 アントニーが訊いてきた。しかし、アロイス自身だけでは判断できない。携帯電話モバイルフォンを近距離通信モードにすると、教授の携帯電話モバイルフォンに接続した。すぐに、通話が了承された。教授の乗るトレーラーは、すぐ後ろに停まっている。

「教授! 前が見えますか?」

「見えているとも、アロイス」

 リアヴュー・ミラーに、教授の不機嫌そうな顔が映っている。教授はこれまでに、どんな不測の事態に対しても、常に準備があった。今回もあるのだろうか。

「どうします?」

「アルビナ、後ろに車は?」

 通信はいつの間にか、アルビナともつながっていた。アルビナの車は、トレーラーの後ろにいるはずだ。ミラーには映っていないが。

「たくさんいるわよ。ずっとつながってるわ。すぐ後ろの車は、トンネルを抜けたときから変わってない。それより、どうして停まってるの?」

 アルビナはまだ事態に気付いていないらしい。トレーラーで視界を塞がれているからだろう。

 後ろに車がいるのでは、逆走ができないことは間違いない。右にはガード・レール、左には対向車線との間にコンクリート・バリアがあり、隣の車線に逃げることもできない。選択肢は一つしかなさそうだった。

「アロイス、今のところは従っておきたまえ。いずれ機会を窺う」

「了解」

「教授、アロイス、何かあったの?」

「アルビナ、私から説明する。アロイス、通信を切って、進みたまえ」

 近距離通信を切断し、アントニーに「行け」と指示する。アントニーはゆっくりと車をスタートさせた。後ろのトレーラーもついてくる。もちろん、その後ろのアルビナたちの車もついてくるだろう。

 腕の指すとおり旧道へ入り、短いトンネルを抜け、しばらく行くと、また前に車が停まっていた。その車は、アロイスたちが近付くと、ゆっくりと動き始めた。

 少し先に、ラウンドアバウトがあったが、直進以外の道は全て黒い車で封鎖されていた。前の車は自動車レースのペース・カーのようにゆっくり走っている。レストランの駐車場へ折れる道も、黒い車で塞がれていた。

 気付くと、対向車は既に来なくなっている。どうやら“道に閉じ込められた”ようだ。

「この辺りの道はどうなってたんだったかな」

 アロイスは呟きながら、カー・ナヴィゲイションの地図を操作して道の先を表示させた。この道を通る予定はなかったので、調べが十分でなかった。もちろん、万一の迂回路として計画には入っていたのだが。

「ガス・ステーションがあって、民家があって、それから……」

 もちろん、どこにも黒い車が停まっていて、曲がることはできなかった。我々は一体何台の車に囲まれたのだろう?

「橋を渡ると、長めのトンネルがあるはずです。それを抜けると、クールマイユールの市街地があって……」

 アントニーが顔をこわばらせながら、独り言のように呟いた。さすが、運転担当だけに、道路のことはよく憶えている。アロイスが画面で見た地図もそのとおりになっていた。だが、その市街地までは行くまい。

 トンネルは右側が明かり取りになっていて、真っ暗ではなかった。柱の間から雪が降り込んで、路面の一部を白く覆っている。

 そしてトンネルのちょうど真ん中辺りの反対車線に、車が1台停まっていた。車の周りには三つの人影が見える。前を走る車がそれに並んで停まり、道を塞いだ。

 アンソニーが仕方なくブレーキを踏む。後ろのトレーラーも停まった。おそらくアルビナたちの車も。

 サイド・ミラーを見ると、ずっと後ろに、黒い車が見える。「そっちは?」とアントニーに小声で訊くと「います」。だが、前に立っている人影は動かない。何が目的なのか。見張られているのだろうから、通信は避けた方が良さそうだ。

 教授は何か対策を考えているのだろうか。リアヴュー・ミラーを見ても、暗くて後ろの車の中が窺えない。

「アクセルから足を離すなよ」

「もちろん」

 アントニーも、隙あらば逃げることを考えているようだ。しかし、自分たちだけが逃げても意味がない。トレーラーも一緒に逃げなければ。あの中には、戦利品が入っている。それを失ったら、今までの苦労は水の泡だ。

「何だってんだ、一体……」

 10分経っても何事も起こらない。アロイスは、つい、愚痴を漏らした。こうなった以上、どうとでもしろ、と思っているのに、何もされない!

 奴らは一体何を待っているのだろう。反対車線に他の車が来る様子もないから、もっと先の方で封鎖しているのだろう。

 しかし、奴らだっていつまでも封鎖しているわけにはいかないはずだ。無許可で封鎖しているに決まっているのだから、いずれ警察が動き出す。もっとも、警察に動かれたら自分たちだって困るが……

 冬景色の中、時間だけが過ぎていく。

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