#11:第6日 (9) 饒舌な数学者

 マルーシャが三つ目のケーキを小皿に取った。フォークで一片を切り取って突き刺し、口元まで持っていったが、口には入れず、そのままの格好で俺のことをじっと見つめている。何という麗しい視線。この姿をケーキの広告に使ったら、世界中で大ヒットするんじゃないか。

「勘違いするな。君が彼に、俺のことを話さなかったのが悪いと言ってるんじゃない。君は好きなように行動してくれていい。俺と話そうが、彼と話そうが、君の自由だ。彼には俺から接触してみよう。君のことは警戒しても、俺には気を許すかもしれないからな。それで断られたら仕方ない。しかし、それはそれで公平だ。そう思わないか?」

「あなたに任せるわ」

 そう言ってから彼女はケーキの欠片を口に入れた。表情を変えていないのに、うまそうに見えるのはなぜだろうか。

「さて、今度は俺から二つばかり質問したいが、いいか」

「どうぞ」

「エルラン教授のことを俺に教えると、君に何かメリットがあるのか」

もちろんオフコース

 もう三つ目を食べ終わった。飲み込んでからまた口を開く。

「理由はさっき言ったわ」

「俺の時間が節約できると、君にもいいことがあると? 俺に他のことを調べる余裕ができて、そうするとその調べた内容が君にも伝わる仕掛け?」

「いいえ、あなたが不利になるようなことは、絶対にしないわ。あなたが無駄な時間を過ごさないことが、私にとってもメリットになる。ただ、それ以上のことは言えないの」

「共謀になるから? なら、そういうことだと理解しておこう。で、もう一つの質問」

「どうぞ」

 既にケーキは四つ目の途中だ。

「君はとても優秀なのに、なぜまだ現実世界へ戻れていないんだ? 俺は君と3回競合して、2敗1分けだ。きっと他のステージでもたくさん勝ってるだろう。君がヴァケイション・ステージを過ごしたのも見た。その後、2回会った。だから、ここがもう9ステージ目かそれ以降のはずだ。それなのに、まだターゲットを七つ集められていないのか?」

「あなたと分けた半分が影響しているから」

「つまり俺のせいで6.5止まりになってるわけだ」

「そう」

 謝る必要はないよな。俺は奪われたのを取り戻そうとしただけだし、裁定者アービターが協議の上、0.5の獲得を認めたんだ。

「ここのターゲットが青で、それを0.5ずつに分ければちょうどいいかな」

「共謀を提案すると、獲得しても取り消されるけれど」

「判ってるさ。君がイエスと言わないことくらいはね」

「ケーキがまだ残ってるわ」

 予想どおりものすごく甘いんだよ、これ。メレンゲとヴァニラ・クリームの塊だ。アーモンドの香りが利いてるのはいいんだけどさ。

「モントリオールのレモン・パイみたいに、甘さが控えめだったらよかったんだけどな」

「私もそう思う」

 そう思ってたって、もう半分以上食べてるじゃないか。糖分を適切に備蓄できる体質で羨ましい限りだよ。

「話はこれで終わりかな。残りのケーキは君が食べていいよ」

「ありがとう」

 何がありがたいのかよく解らないが、とりあえず席を立つ。マルーシャは視線だけで俺を見送るようだ。

 部屋を出たが、さて、この後どうするか。自分の部屋へ戻って紙幣の謎を考えるか、それとも数学者に会いに行くか。マルーシャにああ言った以上、先に数学者の方を片付けることにしよう。

 受付に行くと、モードがいた。俺の顔を見て嬉しそうに微笑む。彼女はイングリのように無愛想ではなく、またサンドラのように無邪気でもなく、普通の性格で大変結構だ。数学者に面会を申し込む。

「既に何人か申し込みがありましたが、全てお断りになっていて……よほどのことでない限り、お部屋に電話もしないよう言われてるんです。でも、ヘル・ナイトなら、お会いになるかも!」

 他人ひとごとなのにこの嬉しがりようは、もしかしたら普通でないかもしれない。電話の前に、数学者がどういう人物なのか訊いてみる。

「とてもお若くてハンサムな方ですわ。あなたと同じくらいハンサムです!」

 この仮想世界ではもしかしたら、俺が自分で鏡で見る顔と、他人から見える顔が違っているのだろうか。それとも、他人の美的感覚が調整されているのかな。

 それはともかく、そういう外面的なことではなく、性格について訊く。もちろん、彼女だってそうたくさん話したわけではないだろうから、印象だけでいいと言っておく。

「世界的な数学賞をいくつも受賞されたと伺っていたので、天才的で近寄りがたい方かと思っていたのですが、実際は気さくでおおらかな方に見えました。ウルリヒセン支配人が挨拶したときは、しばらくの間、とても親しげにおしゃべりをされていました。夕食をお約束されていたと思います。それから、お部屋への連絡は全て私が扱うよう言いつかりました。とてもお優しい言葉をかけていただいたんです! それに、あなたとドクトル・イヴァンチェンコのご用も勤めますので、何でも気軽にお申し付け下さい」

 最後の方は全く関係ない話になってしまっているが、ドクトル・イヴァンチェンコって誰?

 もしかして、マルーシャのことだろうか。偽名を使っているのか。いや、マルーシャ・チュライが芸名で、本名がイヴァンチェンコ? ファースト・ネームもマルーシャじゃないのだろうか。それくらいは後で訊いておいた方がいいかもしれない。

 さて、ようやく数学者に電話をしてもらう。

「忙しいので10分間だけならということですが?」

 もちろん、それでいいと言っておく。敵情視察のようなものだし、長居するつもりもない。部屋を教えてくれればいいと言ったのに、モードがまた俺を部屋まで案内しようとする。世話好きで強情なところはメグに似ている。

 ドアもモードがノックして「ドクトル・ナイトをお連れしました」。中から「お入りコム・イン!」と陽気な声が返ってくる。ドアを開けて入ると、若い男が両腕を広げて待っていた。ハグされたくはないので、片手だけを差し出す。

「ようこそ、ドクター・アーティー・ナイト。財団研究員という肩書きだそうだね。何を研究していることになってるの?」

 こちらの肩書きが全て架空のものであるのは、お見通しということか。差し出した手を笑顔で握ってくる。

 きつくウェーブがかかったダーク・ブラウンの髪を肩の辺りまで伸ばし、髭を綺麗に剃り、糊の利いた真っ白のシャツに、綺麗な折り目クリースの入った黒いスラックス。山小屋なのにどうしてこんな服装なのかは解らないが、彼のこだわりなのかもしれない。

 そしてモードが言ったとおり、若くてハンサム。さらに“目に知性インテリジェンスが煌めいて”いる。しかし、いくら若く見えるとは言っても、30歳は超えているに違いない。世界的な数学賞をいくつも受賞しているらしいから。

「数理心理学だ。端的に言うと行動モデルの計算機シミュレイション」

「ああ、それはもちろん理解してるよ。友人にもいるんだ。心理学と名が付くと偏見を抱かれたり、未来予想と勘違いされたりするだろ? 名前がよくないよね。まあ、名前を聞いても何やってるのか判らない学問もあるから、まだ判りやすい方かもね。僕の主研究テーマは多変数複素関数論なんだけど、普通の人には何をやってるか想像も付かないだろう。ただ、他にも色々なことに興味があるし、実際に色々やってるし、専門なんかないって答えることもあるな。もちろん、応用数学にも興味がある。同業者の中には、自分の研究が応用されるのが嫌だって人もいるけどね。しかし、数学的な美しさってのは応用されることで消えてなくなったりするものじゃないからさ。実際、この世は数学的な美しさに満ちあふれてるからね。ところで、何の話をしに来たの? 僕の研究の話? それとも君の研究の話? それとも他に?」

 しゃべっている間、エルラン教授はくるくると表情変え、指揮者のように手を動かし、ダンスのステップを踏むかのように歩き回っていた。そしてしゃべり終えるとソファーにどっかりと腰掛け、俺の方を仰ぎ見た。

「我々の任務ミッションの話をしに来た」

「ああ! 全く、お互いつまらないことに巻き込まれたよね。君は何をしたせいでここにいるの? 僕は何のせいでここにいるかよく判ってないんだ。誰かに殺されかけたのは間違いないんだけどね、判らないのはその理由さ。たぶん、僕がいろんなことに手を出しすぎたせいで、誰かの気に障ったんだろうけどね。でも、何が悪かったのかな。一番ありそうな理由は量子暗号の解読理論を考え始めたからだと思うんだけど」

「なるほど、通信における情報セキュリティーの低下を招くから、みんなが困る」

「でも、いつかは誰かがやるよ。僕がやったら結論がたかだか数十年早まるってだけだと思うけど」

 他人がやれば数十年かかるが、自分がやればもっと早いだろうと言ってるわけだ。数学者にありがちな自信と無邪気さではあるな。

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