#10:第5日 (3) MVPの知名度

 30分くらい経って、エンジンの音が静かになってきたな、と思っていたところに、イライザの声が聞こえた。

「ハロー、初めてお会いしますわね。お名前を伺ってよろしいかしら」

 船はどうやら沖で停められたらしい。男の声が微かに聞こえるが、何を言っているのかは聞き取れない。

「書類をお見せすればよろしいですか? 立ち入り? それは構いませんけれど、まず書類のチェックを済ませてからお願いしますわ。ええ、そういう手順だと聞いていますけれど」

 どうやら書類のチェックと同時に立ち入りさせろと言っているらしい。イライザはそれをやんわりと阻止する。

「ええ、そうですわ。それが私たちです。あの時は本当に驚きました。あの方はその後、どうなったかご存じですかしら? あら、ご存じでいらっしゃいませんの。では、ジョン・エイクロイド提督に連絡いただいて……」

 これはリンディーのことかな。自分たちが協力的であることをアピールして、臨検を軽く済ませてもらおうというのだろう。

「ええ、提督は私のことをよくご存じだと思いますわ。時々、お食事も一緒に……ええ、そうです、私がイライザ・ヒギンズです。書類のチェックは終わりましたか、ご苦労様です。あら、立ち入りはなさらなくてもよろしいの? 助かりましたわ、長旅の後なので、早く家に帰りたいと思っていましたの。ありがとうございます、お勤めご苦労さまですわね。それでは、さようなら、よい一日を」

 イライザの知名度を最大限に駆使して切り抜けたか。隣でダーニャがふうっと細いため息を吐いた。


 船の速度が落ちた後、大きく旋回するような遠心力を感じて、軽い衝撃があってから、止まった気配がした。船は軽く上下に動くのみになった。リヴィング・スペースを覗くと、サブリナとホリーが荷物をまとめている。しかし持っているのは衣類だけかな。探検道具はしばらく船に置きっぱなしにするのだろう。

 ややあってハッチが開き、イライザが降りてきた。

埠頭ピアに着きました。しかしやはりマリーナにも検問が張られているらしいですわ。作戦の準備を始めてよろしいかしら」

「はい、よろしくお願いします」

「アーティーは降りる用意をしてくださいな」

「もうできてるよ。俺も船の外に出たら検問にかかると思うけど、その時、念のために船の中を調べさせろ、ってなことになったりしない?」

「それは私の口添えで何とかなると思いますわ。それにあなたほどの知名度なら、多少の疑問点など有耶無耶になるのは間違いありませんことよ」

 やっぱりそういうものなんだよな。マイアミ大の時も、モトのスピード違反を警官に見逃してもらったりしたことは何度かある。あの学生証は、マイアミ近辺で絶大な威力を持ってたなあ。

「レディー・ダーニャとミス・シェーラは、もうしばらく船内でお待ちください。申し訳ありませんが、電源を落としていきます。空腹は非常食で凌いでいただけますか」

「もちろん、構いませんとも。ご配慮に感謝します」

「では、アーティー、私の邸宅コテージへ案内しますわ」

 サブリナとホリーはもう外へ出ていた。イライザに続いて、デッキへ上がる。夜が明けて、マリーナが朝焼けに染まっていた。久しぶりに建物を見て、文明に戻ってきた、という感じがする。ちょっと大袈裟な感想か。

 船尾スタンデッキを抜けて、桟橋に降りる。周りにクルーザーやヨットがたくさん並んでいる。ほとんどはイライザの船と同じく、豪華な仕様だ。この辺りは金持ちが住むところらしい。桟橋からコンクリートの突堤に上がると、足元がやけにしっかりしていて違和感がある。船に9時間も乗っているとこうなるのか。半分は寝てたんだがな。

 早朝のことなのでほとんど人影はないが、マリーナ入口のクラブ・ハウスの近くに、パトロール・カーが何台か停まっていて、制服を着た男が二人立っていた。イライザの顔を見て笑みを浮かべながら近付いてくる。警官かな。初老と、若いの。クレオールらしい風貌だ。

「おはようございます、ミス・ヒギンズ。船でミス・ヘップバーンやミス・ティファニーと一緒に遠出をされたそうですな。おや、横の男性は?」

「ハイ、ヘンリー、彼は……」

「ああああああああ!」

 イライザと初老の警官が話をしていたら、若い警官がいきなり大声を上げ、驚愕の表情で俺を見ている。目というのはこんなにも大きく見開くことができるのか、という感じだ。

「おい、どうした、フレッド? 彼を知ってるのか?」

「ああああ、ア、アーティー・ナイト!? マイアミ・ドルフィンズ! QBクォーターバック!」

「マイアミ・ドルフィンズ? 合衆国のNFLか? アーティー・ナイトというと、確か……じゃあ、スーパー・ボウルMVPの!?」

 初老の警官が呆然とした顔で俺を見る。何だろう、心構えができていないせいか、それとも架空の経歴だからか、嬉しいような、嬉しくないような。

「やあ、初めまして、アーティー・ナイトだ。合衆国から来た。ご存じのとおり、ドルフィンズに所属している」

 とりあえず、挨拶と自己紹介はしなければならない。済まんね、こういうとき、どんな顔をしたらいいのか、よく解らんわ。

「いやあ、はっはっは、お目にかかれて光栄です。握手してくれませんか、ミスター・ナイト。王立バハマ警官隊のヘンリー・ファーエ巡査部長です。私はスーパー・ボウルの日は残念ながら当番でね。ゲームは次の日のダイジェスト版を見たんだが、素晴らしい逆転カムバックでしたなあ。おい、フレッド!」

 初老の警官は、まだ驚愕して開いた口の塞がらない若い警官の横っ腹を、肘で突いた。

「フレッド、驚いてないでお前も握手してもらえ。ミスター・ナイト、彼はフレッド・ミラー巡査。フットボールの大ファンでね。時々、仕事中にこっそり携帯端末ガジェットでゲームを見ていることもあるくらいで、はっはっは。ところで、バハマにはいつお越しになったんです?」

「ああ、昨日ね。彼女に個人的に招待されて、お忍びインコグニートで来たものだから」

 フレッドという若い警官と握手をしながら、予行演習どおりに答える。フレッドの手がぶるぶると震えているが、どうやら興奮して声も出なくなっているらしい。

「そうですか、道理でニュースにならんかったはずだ。それで、昨夜はミス・ヒギンズの船にお泊まりになっていたので?」

「ええ、そう、私が色々とお話を伺おうと思って。あら、ごめんなさい、そのことは警察へも連絡が行っているものと思ってましたわ」

「ああ、どこかで展開が漏れたんでしょう。よくあることです。なあに、大した問題じゃありません。これから島の観光ですか? 他の島にも行くなりして、ぜひ、ゆっくりとバハマを楽しんで下さい」

「やあ、ありがとう」

「あああ、ミスター、ミスター・アーティー、ミスター・アーティー・ナイト、サインオートグラフサインオートグラフどうかプリーズ……」

 若い警官があたふたとしながら手帳とペンを取り出してきた。始終ポケットに入れているらしく、あちこちのページの端が折れている。最後の方の空いているページにサインオートグラフをする。せっかくなので名前だけでなく、"Dolphins #14"と書いておいた。これがこの世界でどのくらいの価値のあるものかはよく判らない。それにしても、パスポートすら見せずに済むとは、スーパー・ボウルMVPの肩書きは恐ろしいほどの威力だな。

 警官と別れて、5分ほど歩くとイライザの邸宅コテージに着いた。高級住宅街の中で、一際広い敷地を占めている。門に入る前にプロムナードがあって、椰子の木が並んでいた。建物は白い壁にオレンジの屋根の2階建て。恐らく、海側にプールがあるだろうな。部屋数はいくつで、何人泊まれるんだろう。俺もこれくらいの別荘を持ってみたいものだ。スーパー・ボウルの優勝ボーナスが本当にもらえていたら、買えただろうな。

「朝食を用意しますから、リヴィング・ルームでお待ちくださいな」

「俺も手伝うよ」

「そうおっしゃってくださるのは嬉しいですが、手伝っていただくほどのことでもありませんのよ」

 イライザが得意気な笑顔でキッチンに消える。財閥の令嬢なのに、自分で料理をするとはね。というかこの邸宅コテージ、広いのに使用人はいないのかよ。しかし、なぜ手伝いを断られるのかな。料理は苦手じゃないし、現にスペインで作ったフレンチ・トーストは好評だったんだけど。

 しかし無理に手伝うこともないようなので、リヴィング・ルームへ行く。ああ、広いね。これまでに泊まった、どのホテルの部屋よりも広いよ。南国らしい涼しげな白いソファーに、木のテーブル。壁はオフホワイトで落ち着いていて、無駄な家具もなく、シンプルなサイド・ボードのみ。南側の窓は広く、その向こうに予想どおりプールが見えていた。プール・サイドにパラソルとデッキチェアもある。こういう気持ちのいい朝は、プール・サイドで食事を摂るのもいいんじゃないのと思わせる眺めだ。

 そしてソファーに座って思うのは、俺にはこういう高級な暮らしは向いていない、ということだ。なにせ広い部屋にいると落ち着かないんだよなあ。

 待っているうちに寝そうになったが、イライザに呼ばれてダイニング・ルームへ行く。こちらは英国風スタイリッシュ。全体的にクリーム色が基調。ダイニング用の高いテーブルと、ティー・タイム用の低いテーブルがあって、まるでホテルのロビー・カフェだ。

 高いテーブルにできたての朝食が用意されていた。トースト、クリスピー・ベーコン、スクランブルド・エッグにスモークト・サーモン、紅茶。皿はどれも4人分で、量が一番多いのが俺のだろうな。

「アーティーは脂肪分がお好みではないようなので、ベーコンの脂はなるべく落としておきましたわ」

 なぜ、そういうところに気付く。もしかして昨日の夕食で、俺が脂身の少ない肉をって食べているのを見ていたのか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る