ステージ#9:第4日

#9:第4日 (1) ライヴ・モーニング・コール

  第4日-2027年6月10日(木)


 人が動く気配で目が覚めた。下のベッドだ。カロリーヌだな。どうしてこそこそしてるんだろう。同じ時間に起きる約束をしたんだから、目覚ましを鳴らしたって構わないのに。彼女がどうしたいのか気になるので、しばらくじっとしていると、音の場所が動いていく。ベッドを出て、床に立って、靴を履き、立ち上がって、咳払いをして……

おはようございますトレ・ボン・マタン副主任スー・シェフ! 5時半です! 起床の時間です!」

 起こしてくれと頼んだ憶えはないのだが、まあいいか。彼女の元気な声を聞くのは気持ちいいからな。しかし、隣の部屋に聞こえたりしないのだろうか。ゆっくりを身を起こす。

「おはよう、カロリーヌ。灯りを点けてくれ」

「はい、副主任スー・シェフ!」

 灯りを点けるのにそんなに律儀に返事をする必要はないと思うが、すぐに部屋が明るくなった。カロリーヌは服装を綺麗に整えた状態でベッドの横に立っていた。やはり頭には少し寝癖が付いている。寝癖というのは髪を洗った後でちゃんと乾かさずに寝るから付くと思うのだが、彼女はどうして仮眠なのに付くのだろう。

「よくおやすみになったでしょうか?」

「うん、よく寝たよ。君はよく仮眠できた?」

「はい、あの、はい、とても……」

 よく仮眠できたかディデュー・ナップ・ウェルなんてのはおかしな訊き方だが、カロリーヌは至って真面目に……というよりは、何となく恥ずかしそうに答えるのはなぜなんだろう。とりあえず、それはいいとして。

「先にシャワー・ルームを使ってくれ。俺は君が部屋を出た後で使うから」

「ありがとうございます!」

 元気に礼を言って敬礼をしてから、カロリーヌはシャワー・ルームに入った。今日はタオルを取ってくれとは言わないだろう。昨日、俺がシャワーを使ったときに、彼女のタオルが中に掛かっていたから。ベッドを降りて、待つほどもなく、彼女が出てきた。寝癖がきれいに直っている。

「では、副主任スー・シェフ、私はこれから警備に戻りますが、今日の講義は、何時からしていただけるでしょうか?」

「君は今日も8時まで仕事? なら、8時半からにしよう。もう一人の、ミレーヌにもそう伝えてくれ」

「了解しました!」

「それから、ミレーヌに頼んで、俺の論文のタイトルと要旨アブストラクトをいくつか調べてもらってくれ」

「ああ、副主任スー・シェフ! 彼女は既にそれを調べています。昨日、私も教えてもらいました。それに、彼女は自分のラップトップを持ってくると言っていました」

 何だかやけに気合いが入ってるなあ。ろくに教えられないかもしれないんだけど、大丈夫なんだろうか。

「それは手回しがいいな」

「他に何か連絡事項はありますでしょうか?」

「ないよ。あと2時間半、しっかり働いてくれ」

「了解しました!」

 カロリーヌが凛々しく敬礼をして出て行った後で、顔を洗ってトレーニング・ウェアに着替える。カジノを出て、昨日と同じ小道を通ってサーキットのコースに入る。入念に準備運動をしてから、昨日と同じく時計回りに走り出す。

 クランクを抜けてホーム・ストレートへ。スタート・ラインを越え、S字カーヴを抜けてから北へ。弓なりの緩やかなカーヴを快走し、車道と歩道の分かれ道を、やはり車道へ。"Pavillon du Canada"の前を通り過ぎ、前方に橋が見えてくる。昨日はこの辺りでジャンヌを見たが、今日はいなかった。恐らく、まだ走っていないだろう。

 橋の下をくぐると、未知のコースに入る。すぐ先が広場のようになっているが、コースはここでクランク状に曲がっているようだ。いわゆる“シケイン”だな。クランクに沿って右、左と曲がり、川沿いから離れてしばらく走ると、見たことのある十字路に出た。コスモ橋の近くだ。左手に、バイオスフィアの丸い網が見えている。

 コースはそこからまだ北へ行くが、150ヤードほど走るとヘアピン・カーヴで折り返す。三方をスタンドに囲まれているので、フットボール・スタジアムに似ていなくもない。南へ走り、ようやく一度歩いたことのある道まで戻る。ただし、初日はここを逆向きに歩いたので、景色の見え方が少し違う。

 カジノの近くまで戻って来た。27分かかっている。時速約6マイルで走ったと思うので、計算はしやすくて、1周約2.7マイル。あと1周することにしよう。昨日はだいたい今頃の時間に走り始めたから、もしかしたらまたジャンヌに追い付くかもしれない。

 もう一度ホーム・ストレートを駆け抜けて、S字カーヴを抜けて……"Pavillon du Canada"の先で、予想どおり女の後ろ姿が見えてきた。昨日とだいたい同じところで追い付きそうな距離差だ。もちろん、昨日は追い付いたのではなくて、ジャンヌに止められたのだが。

 次第に距離を詰め、橋の下を通る頃には10ヤードくらいの差になったのだが、ジャンヌは振り返らなかった。が、たぶん、俺が追い付いてきたのには気付いているだろう。シケインでは追い付けなかったが、それを抜けた後で追い越した。追い越す時に、右手を挙げて挨拶すると、ジャンヌが左手を合わせてきた。ヘアピン・カーヴを回るときには、100ヤードくらい差が付いていたようだ。

 カジノの前まで戻って来て、クーリング・ダウンをしているとジャンヌが追い付いてきた。通り過ぎるのかと思ったら、俺の方に寄って来て、わざわざ立ち止まって言う。

おはようボン・マタン、アーティー」

「おはよう、ジャンヌ」

「クレデンシャルを着けてって言っておいたのに」

「ポケットに入れてるんだよ。誰かに呼び止められたら見せるつもりだった。首から提げていると、ぶらぶらして邪魔だからね」

「それはそうね、私も提げてないもの」

 そんなの、胸を張って言うほどのことでもない。ところで、今日の彼女の姿は、レギンスは昨日と同じだが、シャツはピンク地に紺の縁取りの袖なしスリーヴレスだ。身体にぴったりフィットしていて、胸の形と大きさまで判るが、別に俺に見せつけるために着て来たわけではあるまい、と思う。

「君の場合は顔で判ってもらえるからね」

「そうでもないわよ。初戦のオーストラリアでは、私のことを知らない人がたくさんいて、ピットを歩いているだけで何度も呼び止められたわ。ちゃんとクレデンシャルを付けてるのに呼び止められるから、よけい悔しくって」

 しかし顔は笑っている。今はもう、ジョークのネタとして使えるくらいということだろう。

「俺も世界中どこでランニングをしていても、呼び止められないくらいになりたいよ」

「顔が売れたら、別の意味で呼び止められるわよ。ところで、今日は何周したの?」

「2周だ」

「あら、じゃあ、私と同じね」

 ほう、俺の方はスタートを30分早めたのに、それで昨日と同じ辺りで追い付いたというのは、できすぎだな。さすが仮想世界のシナリオ。

「君はまだスタート地点に戻ってないだろ」

「そんな細かいこと気にしないの。これから、一緒に朝食でもどう?」

「申し訳ないが、先約がある。ところで、今日もカジノに来るのか?」

「ええ、今日は午前中に色々あって、ファン・セッションのインタヴューにも出演しなきゃならないから、昼過ぎになるかしら」

「今日も変装して来るのかね」

「今日はそんなことしないわ。あなたのこと、受付で呼び出してもいい?」

お好きなようにアズ・ユー・ライク・イット

「解ったわ、じゃあ、午後にね!」

 ランニングの後で別れるときにもベクをするとは予想外だったが、とにかく宿泊室に戻り、シャワーを浴びる。ランドリーで洗ってもらった服に着替え、6階のレストランへ行く。まだ7時5分前だったが、エレヴェーターを降りると、そこにマーゴが立っていた。

 少し不安そうな表情だったのが、俺の顔を見て一気に明るくなる。賭場で見るよりももっと嬉しそうにしているのは、気のせいではないだろう。これほど嬉しそうな顔をする女はメグ以来だな。

「おはよう、マーゴ」

「おはようございます、アーティー!」

 そしてわざわざ俺の方に歩いて来て、抱きつくようにベクをする。胸が当たってる、胸が! ついでに眼鏡も顔に当たる。それだけ、唇を俺に近付けているということだ。

「来ていただけてとても嬉しいですわ」

「俺も朝から君と会えてとても嬉しいよ」

「私、まだここで食事したことがないんです。どこに入れば美味しい朝食が頂けるのかしら?」

「ランスタンしか開いてないが、君の食べる量にも依るな」

「いつもは軽く済ませてます。それに、あなたとたくさんお話がしたいですし……」

 昨日からほとんど知識が増えていないのでたくさん話を聞かれると困るのだが、それはそれとして、いつものランスタンに入ることにする。窓際の席に座って、俺はいつもと同じトーストと卵二つとコーヒーのセット、マーゴはチーズを挟んで焼いたサンドウィッチとコーヒーを注文した。

 マーゴはずっと俺の顔を見つめている。俺の方もマーゴの顔を見つめているつもりだが、時々視線が下がってしまう。襟付きの真っ白な袖なしスリーヴレスのブラウスは、胸元が大きく開いていて、そこに見えている深い谷間がどうしても気になる。フランス人は夏場になると肌をさらす服を着たがるという話を聞いたことがあるが、彼女はフランス人でもなさそうだし、どういう意図でこんなセクシーな服を着ているのだろうか。

 ケベック州がフランス文化なのでそれに合わせているということならそれでいいし、そもそも彼女がどんなファッションを選ぼうと彼女の自由で、俺には関わりのないことなのだが、気になることはやっぱり気になる。

「君のことを少し訊いてもいいか?」

「ええ、もちろん。何でもお訊き下さい」

 本当に何でもいいのか? どうしてそんなセクシーな服を着ているのか、俺を誘惑するつもりか、と訊いたら何と答えるだろうか。

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