#9:第3日 (10) 数理心理学とは

 さて、遅ればせながらエヴィーとカティーの待つバーへ行く。最初にサーシャを見かけた、本館3階の中空にあるバーだが、今夜は彼女はいないようだ。フロリダを注文し、二人が待つ席に座る。

「さっきからずっとジャンヌ・リシュリューの話をしてたのよ。私たち、モーター・スポーツのことなんて詳しくないから、ウェブで調べてたんだけど、女性のF1ドライヴァーってすごく珍しいみたいね。しかも、1ポイント獲得したのが女性ドライヴァーとして史上初なんですって?」

「ああ、そうみたいだな」

 君たちはウェブで物事を調べることができて羨ましいよ。俺はそういうことができる携帯端末ガジェットを取り上げられてるから、判らないことはビッティーに訊くしかないんだ。重要なことはたいてい教えてくれないけどな。カジノから支給された携帯端末ガジェットは、カジノ内しか通信できないから俺でも使えるんだろう。

「そんなすごいドライヴァーが、カジノに何をしに来たのかしらね」

 カティーがとろんとした目で言う。既に出来上がっているらしい。しかし、F1ドライヴァーがカジノに来てはなぜいけないのかと思う。明日になれば他のドライヴァーも来るんじゃないのか。

「そりゃあもちろん、賭け事ギャンブルをしに来たのさ。ただ、このカジノはいいレストランといいバーがあるから、そっちを目的に来る客もいるみたいだけどね」

「アーティーったら、わざとらしくとぼけなくてもいいのよ。賭け事ギャンブルをしに来たのは当然だけど、どうしてわざわざ変装までしてお忍びで来たのかってことよ」

「アーティー、あなたはもちろん彼女から理由を聞いてるんでしょう?」

「あの場で言わなかったんだから、ここでも言えないさ。言うには彼女から許可をもらわないと」

「じゃあ、明日彼女が来たときに許可をもらってくれる?」

「訊いてみてもいいけど、許可がもらえない方に1ドル賭けたいな」

「あら、二人だけの秘密なの? ひょっとして、アーティーってジャンヌ・リシュリューの恋人なのかしら」

「恋人だったら、わざわざ彼女が来たことは報告しないよ。そもそも、来たこと自体を信じてもらえなかったくらいなのに」

「それもそうですわね。じゃあ、アーティーに恋人はいらっしゃらないのかしら?」

 待て、どうしてそういう話になる。どうもさっきの食事の時から、カティーの目付きが怪しい。ひょっとして痴女なのだろうか。

「カティーはさっきからずっとそのこと気にしてるのよ。でも、私も気になるわ。ねえ、恋人はいるの?」

 だから、どうしてそういう話になる。恋人がいると言ってしまえば面倒が少なくなりそうだが、相手はキー・パーソンなのだから情報が得られなくなりそうで困る。さて、どうするか。

「ああ、もちろん、いるよ。今回のヴァケイションは都合が合わなくて連れて来られなかったけど、5週間後に結婚する予定なんだ」

「あら、そうなの、羨ましいですわ。でも、ここにいる間は一人で寂しいんじゃないかしら。私なら恋人の代わりをしてさしあげられますのに」

「アーティー、カティーも最近恋人と別れたばかりで寂しいから、いい男を見る度にこんなことばっかり言ってるの。でも、アーティーと知り合ったのは私の方が先だから、付き合うなら私を優先して欲しいわ」

 やっぱりこうなるんじゃないかと思った。恋人がいると言おうと、いないと言おうと、その先のシナリオは共通なんだろうな。しかし、エヴィーは昨日は色気を振りまくこともなく大人しく帰ったのに、今日はどうしたんだろう。これが本性か、それともカティーに触発されたのか。もしかしたら、二人して悪い酒でも飲んだんじゃないか?


 乱れる女二人を10時に無理矢理帰宅させ、サーキットへ出る。ビッティーと通信しようと思うが、今回の通信場所は“サーキットのコース上で、水が見えるところ”という妙な条件が付いている。時間は日没から日の出まで。こんなことだけでなしに、俺の肩書きに見合った仕事の知識も頭に詰め込んでおいて欲しいものだ。

「ヘイ、ビッティー!」

 道路の東側の柵越しに、オリンピックのボート・コースを見ながら腕時計に呼びかける。真っ暗な水面の向こうに見える対岸の灯りを消しながら、黒幕が降りてくるのが判った。

「ステージを中断します。裁定者アービターがアーティー・ナイトに応答中です」

「やあ、君の冷静な声を聞くと安心するよ、ビッティー。このステージに出て来る女は俺に興味を持ちすぎて、しゃべり方が甘ったるくて閉口していたところだ」

「そうですか」

「早速だが、数理心理学ってのはどんなことをする学問なのか教えてくれないか」

「人間の知覚過程、認知過程、及び刺激伝達過程を数学的にモデル化し、定量化可能な刺激特性を定量化可能な挙動と関係づけることで人間の行動様式を法則化することを目的とした、心理学の一分野です」

 難しいことを言っているが、俺がエヴィーに一言で説明したのと大して違わないような気がするな。

「俺は肩書き上、その分野の第一人者ってことになってるんだが、どうしてそれに関する知識を頭の中に入れておいてくれないんだ?」

「知識量が膨大で転送不可能であることと、その知識によりあなたの行動様式が変わってしまうことが許容できないためです」

「もっともらしい理由に聞こえるが、そのせいで俺は他人から研究の内容について訊かれた時の答えに窮してるんだ。その分野の論文の一つくらい見せてもらうことはできないのか? 中には俺が書いたことになってる論文だってあるんだろう?」

「現時点ではそれらをお渡しする手段がありません」

「郵送するとか」

「できません」

「ロジスティクス・センターに預けてある俺のスーツ・ケースの中に入れるとか」

「ステージ開始後はできません」

「ステージ開始前ならできたのか?」

「はい」

「次のステージではそうしてもらうとして、ウェブで俺の論文が検索できたりしないのか?」

「誰でも検索可能ですが、ほとんどの登場人物はタイトルと要旨アブストラクトのみしか入手できません」

「誰なら全文を入手できる? 学術関係者?」

「お答えできません」

「でも、全文を入手できる可能性はあるんだな?」

「はい」

 何たる不自由な世界。よくこれで、俺の身分についての信用が保てるものだ。

「じゃあ、俺の研究の詳しいことについて訊かれたら、どう答えたらいいんだ?」

「無理にお答えにならない方が良いかと思います」

 やはりそうなのか。

「それで俺が偽物の研究者だって思われたりしないのかねえ」

「あなたが研究に関する詳しい内容を知って、それを説明することができたとしても、疑う人は一定の割合でいることになっています」

 結局はそういうことか。キー・パーソンは俺のことをほぼ無条件に信用するだろうし、そうでなくてもだいたいは信用されて、たまに信用しない奴もいると。どうせこの世界での時間と会う人間は限られてるんだ。ボロを出さないように何とか頑張れってことなんだろうな。

「解った。じゃあ、次の質問。俺は今回の世界で、いつもより運がいい設定になっているとか、そういうことはある?」

「ありません」

「なら、昨日今日とカジノの賭けでやけに勝つのはどう説明するんだ?」

「ステージ内のシナリオ進行についてはこの場では説明できません。ステージ終了後に質問願います。また、その際でも説明できる内容に制限があることについてはご了解願います」

 何の理由もなく勝つのは気味が悪くて嫌なんだけどね。まあ、いいか。

「まだ質問時間はある?」

「長くならなければあと二つか三つは可能と思います」

「今週末にここで開催されるカナダ・グランプリのスケジュールについて教えてくれ」

 ウェブが使えないからこんなことまでビッティーに訊かなければならない。木曜日の午前中にファン向けのピット開放、コース・ウォーク、ファン・セッション。金曜日の午前と午後にフリー走行が1回ずつ。土曜日の午前にフリー走行の3回目、午後に予選。日曜日の午後に決勝レース。その合間に別のレースがいくつか挟まる。

 1レースが4日間で構成されるわけだが、スタッフはその前後にモーター・ホームの設営やら撤収やらがあるわけで、なかなか大変そうだ。

「最後に一つ。俺は島から出られないのか?」

「お答えできません」

 やっぱりね。まあ、思ったとおりだった。

「以上だ。お休み、ビッティー」

「ステージを再開します。お休みなさい、アーティー」

 カジノへ戻り、賭場を少し歩く。夜勤のディーラーにもう一度顔を売るのと、カロリーヌの仕事ぶりを見てやるためだ。それにしても賭場は混雑していて、どのゲーム・テーブルも客でいっぱいだ。しかも、スロット・マシンに群がる客の数の多さと来たら! 何も考えずにレヴァーを引いて、あわよくば一攫千金という夢に飛びつく気持ちは今一つ解らない。もちろん、否定する気もない。俺だって、今日ならジャックポットを当てそうな気がするし。

 客が多すぎてテーブルに近付くだけでも容易でないが、ディーラーは俺に気付くと魅力的な笑顔をくれる。もちろん、彼女たちが笑顔を向ける相手は俺だけではないけれども。

 カロリーヌになかなか会わないので、携帯端末ガジェットで彼女の位置を確認し、その近くへ行く。いた。が、一際小柄なので、客の波に埋もれて見えにくい。目立たないのは警備員としては理想的だけれども、視界が確保できなければ警備としてどうかという疑問がある。でかい身体で客を威圧するだけが警備でもないだろうし、彼女の身体的特徴を生かした警備方法というのも探せばあるだろう。今は、客への案内係のように見えるけれども。

 場所を変えるためか、彼女が歩き出した。人の波を避けながらゆっくりと位置を変える。後をそっと付いていくと、不意に彼女が振り返った。目が合うと、彼女の顔が緊張で堅くなった。俺に見張られているとでも思ったのかな。そして、目を合わせたまま、俺の方へ歩いてきた。そして半ヤードの距離まで寄って来て、俺の顔を見上げながら言った。

「あの、副主任スー・シェフ、何かご用でしょうか?」

 緊張のあまり、敬礼するのを忘れているんじゃないかと思う。

「特に用はないが、俺はそろそろ寝るので、おやすみを言いに来た。夜勤は大変だろうが、よろしく頼む」

「あ、はい! はい、あの、ええと……はい、副主任スー・シェフ、了解しました。あの、ええと、おやすみなさいボンヌ・ニュイ!」

 そんなに顔を赤くするようなことか。ようやく敬礼を思い出したカロリーヌと別れ、宿泊室へ向かう。部屋の中に入った瞬間、妙な雰囲気を味わう。朝、俺が出て行った後にカロリーヌがここを使い、夕方の出勤前にもまた使ったわけだが、どうもそれだけではない、“第三の人物”が入った気配を感じるのはなぜだろうか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る