#9:第3日 (6) ピットへの誘い
ピットへ向かって歩きながら、ジャンヌが俺の仕事のことについて訊いてくる。昨日から何度も答えに窮しているので、本当に今夜中にビッティーに訊いておかなければならない。
答えをごまかしながら、彼女のことを訊く。見たところそれほど身体が大きくないが、それでもレーサーになれるのか、など。レーシング・カーはコックピットが狭いため、逆に身体が大きいと不利らしい。しかし、軽すぎるとその分
ピットまで来ると、裏手に大型車が何台も停まっていた。しかもその周辺で大勢の人が作業中だ。いつの間にこんなに人が。
「レースは日曜日にやるらしいが、もうこんなに来てるのか」
「そうよ。ほとんどのスタッフは今日から来るの。今やってるのは、モーター・ホームの設営」
「スタッフはみんなここに泊まるのか?」
「そういうこと。でも、私は自分のキャンパーを持ち込んでるの。チームのモーター・ホームに私の個室も用意されてるけど、女だし、それで気を遣ったり遣われたりするのも良くないし、自分のキャンパーの中の方が好きな格好でいられるし」
あれが私のチームのモーター・ホーム、とジャンヌは言って、十数ヤード先にある白いトレーラーを指差した。車体の側面や妻面に赤い"Magnus"の文字が見える。“マニュス”と発音するのが正しいが、“マグナス”と発音するのも認められている、のだそうだ。2台のトレーラーをくっつけて、“建物”を作る作業の最中だとのこと。
作業員の一人がジャンヌに声をかけてきた。さすがに同じチームともなると変装も見破れるらしい。ジャンヌはその男に挨拶を返し、「クレデンシャルを一つ欲しい」と言っている。男は俺の方を見てから「恋人ですか?」とジャンヌに訊いたが、ジャンヌは「そうよ、何十人もいる恋人のうちの一人!」と返す。なかなか慣れている。そして男が持って来たカードを、ジャンヌが俺に手渡す。
「ピットにいる間は、これを首から掛けておいて。これであなたも関係者ってわけ」
「なるほど」
カードは紐付きのカード・ケースに入っていて、白地に赤でチームのロゴらしき文字が書かれている。裏には通し番号。それを首にぶら下げて、更に歩く。モーター・ホームはもちろん彼女のチームのものだけではなくて、十数個も建ち並んでいる。中には"Ferrari"のように俺でも知っているチーム名が見える。
ピットの端まで来ると駐車場だが、昨日見た白いキャンパーの他に、数十台の車が停まっている。もちろん、俺が招き入れられたのはその白いキャンパーで、ソファーがあり、ミニ・キッチンがあり、ミニ・ダイニングがある。それだけでも俺が泊まっているカジノの宿泊室より広い。さらにベッドも付いているはずで、車の幅からきっとクイーン・サイズであろうということは簡単に想像が付く。
もう一日早く彼女と知り合っていたら、ここに泊まらせてもらえた可能性はある。ただその場合でも、俺が寝るところはソファーだろうな。
そのソファーではなく、ミニ・ダイニングの方に座るように言われる。ジャンヌは帽子を脱いで赤い髪を下ろした後で、キッチンで紅茶の用意をしたり、冷蔵庫の中から何かを取り出したりしている。そして机の上に並べられたのは、カプチーノのように白い泡が立ったカップと、フレンチ・クルーラーが二つ。紅茶と言っていたのに、と思ったが、カップからは確かの紅茶の香りがする。
「美味しいから、飲んでみて。ロンドン・フォグっていうレシピなの」
ジャンヌが笑顔で向かい側に座る。変装を解くとやはりかなりの美人だな。変装でも隠せないほどの美を振りまく女もいるけど。
紅茶に口を付ける。バニラの甘い香りがする。もちろん紅茶自体にも甘味が付けてある。これで砂糖だらけのフレンチ・クルーラーを食べるのは、かなりきついと思う。
「これはカナダの有名な飲み方?」
「そうよ。ベースはアール・グレイだけど、銘柄を替えたら別の名前になるわ。モントリオール・フォグなんていうのもあるけど。でも、私はアール・グレイが好きだから」
ジャンヌが美味しそうにロンドン・フォグを飲む。ずいぶんとリラックスした表情をしている。今日会ったばかりの男を、私室とも言えるキャンパーの中に連れ込んでいるのに。
「ドーナツまで用意しているが、ここに人を呼んだりするのか?」
「呼ぶわよ。レース・ウィーク中に、必ず1回くらいは。他のドライヴァーの恋人と奥さんが多いわね。モーター・ホームからお菓子をもらってきて、ミニ・パーティーをしたり。たいてい木曜日ね」
「どうして?」
「他のドライヴァーがサーキットに来るのがたいてい木曜日の午後だからよ」
なるほど。金曜日からレースが始まるからといって、ドライヴァーはその日に来るのではないわけだ。それはそうだろうな。俺だってゲームで遠征するとなれば、前日か前々日には到着するように行くわけだから。
「君は火曜日から来ていたみたいだが」
「そうよ。どうして知ってるの?」
「今朝、サーキットを走ってたんだから、昨日から来てたんだろうと思っただけさ」
「ああ、そういうこと。それも当てずっぽう?」
「もちろん」
いや、本当はこのキャンパーが来たのを見てたから知ってるんだけどね。
「私も、他のレースでは木曜日にサーキット入りするのよ。じゃあ、今回はどうして火曜日に来たか当ててみてくれる?」
「カジノに行ってみようと思ったからだろ」
「それもあるけど、それだけじゃないわ。だって、私の家は、ここから車で30分くらいのところにあるのよ。カジノに行った後で家に帰っても大した時間のロスにはならないわ」
「君はこの島と一体になりたいと思った」
笑顔だったジャンヌの顔が引きつった。ずいぶん解りやすく表情に出るんだな。レースってのは賭け事と違って相手に表情を読まれることがないから、隠すことに意味はないだろうけど。
「ここは君の地元だ。この島にだって、子供の頃から何度も遊びに来ただろう。隣のサンテレーヌ島もそうだ。慣れ親しんでいたはずだけれども、しばらく遠ざかっていたから、昔の感覚を取り戻しに来た。遊園地へ遊びに行ったり、森の中を歩き回ったり、プールを覗いてみたり。子供の頃にはできなかったことをしようと思ったかもしれない。例えば夜に島の中を歩き回ったり。朝のジョギングもそうだろうな。そうして
「ちょっと待って!」
ジャンヌが机を叩いて立ち上がり、俺を睨んだ。美人だが、さすがに怒った顔は迫力がある。
「あなた、本当にそれ、当てずっぽうで言ってる!? もしかして、実は私のこと、もっとよく知ってて、いいえ、私のこと調査していて、それで……」
「俺が君のことを調査している探偵なら、本人の前に出てきて調査結果をべらべらしゃべったりするかね?」
「あ、それは……」
「安心しなよ。君がやってることは、ホーム・フィールドに帰ってきたアスリートなら誰でも経験があることさ。俺はイリノイの出身だが、もしNFLプレイヤーになって、シカゴのソルジャー・フィールドで開催されるゲームに出場するとしたら、同じようにやると思うね。ノーザリー島のプラネタリウムは俺も大好きだったし、その近くの水族館もお気に入りだったし。ただ、シカゴのカジノは狭いから、アーリントン・パークにでも行って競馬で大穴を狙って景気よく外そうとするだろうな」
ジャンヌはまだ立ったまま、俺の顔を見下ろしている。だが、興奮は治まって、目付きも申し訳なさそうなものに変わった。が、この後、どうしたらいいのか判らない、というように見える。
「立ってるついでで申し訳ないが、紅茶のお代わりくれるか?」
「え、あ……」
とにかく彼女に考える時間を与えようか。ついでに身体を動かした方が考えもまとまりやすかろう。ジャンヌは俺と自分のカップを持ってミニ・キッチンへ行ったが、すぐに振り返って言った。
「あの、ストレート・ティーでいいかしら? ホット・ミルクは少し時間が……」
「いいよ」
しばらくするとジャンヌがカップを持って戻って来て、それをテーブルに置きながら言った。
「あの、ごめんなさい、さっきは興奮して。だって、夜に島の中を探検してたのなんて、誰も知ってるはずがないと思ってたから……」
おやおや、フランス系カナダ人なのに、意外に素直に謝ったな。だが、実はあれは単なる当てずっぽうじゃなくて、俺が昨日の夜にジャマイカ・パヴィリオンへ鞄を取りに行ったときに、その近くの庭園に誰かがいる気配がしたからだ。カジノの客が散策でもしているのかと思っていたが、彼女ならそういうこともやるかなと思って言ってみただけなんだよな。当たってやんの。
「俺も
「だいたいじゃないわ、全部よ。だから私、びっくりして、つい……」
「そうか。いつもは半分も当たればいいくらいなんだがな。ま、カジノで君も見たとおり、俺は今週、かなり運がいいらしいから」
「本当に運だけなのかしら。信じられない。でも、とにかくもっとあなたと話がしたいわ。この後、夕食もどう? モーター・ホームでもいいし、街へ行ってもいいし……」
「せっかくのお誘いだが、夕食は先約があるんだ。それに、俺はそろそろカジノへ戻らなきゃあ。これでも一応、調査員なんでね」
「そうか、まだ仕事中だったのね。今週はずっと仕事なの? 明日、私がカジノに行ったら、また少しだけでも話をしてくれるかしら」
「ああ、もちろん歓迎するよ。ついでに、俺の方からも一つ訊きたいことがあるんだが」
「何?」
「このクレデンシャルを持ってたら、朝、コースをランニングしてもいいか?」
「
「俺の方がペースが速いと思うなあ。君が付いてこられるのならいいけど」
「そうね、今朝も追い付かれちゃったもの。でも、同じくらいの時間に走るのなら、また会えそうね」
それからジャンヌとベク!をして別れ、カジノに戻った。
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