#8:第7日 (10) 行儀の悪い競争者
ゆっくりと、歩いて、歩いて、さらに歩くと、ずっと先の、丘の頂上とおぼしき辺りに、家が建っているのが見えた。空が赤く染まり始めている。時計を見ると、7時過ぎ。下り坂が多かったおかげで、カペルミュールから2時間はかからなかったようだ。
ようやく登り切ると、道の両側に1軒ずつ家が建っていて、その少し先で石畳が終わっていた。そしてそこがゴールラインであるかのように、デボラとセシルが立っていた。車は、その辺の草地に乗り入れて停めたのだろう。
デボラはビール瓶とグラス、セシルはグラスと“聖杯”を持っていた。聖杯を持つセシルの腕の時計が、チカチカと光っているのが見えた。あれが確認の結果か。どうやらここがゲートで正解のようだ。
「完走おめでとう、アーティー!
「
舗装の分かれ目という“ゴール・ライン”を越えると、二人から祝福のキスを贈られた。誰もいないのをいいことに、道の真ん中に自転車を停め、セシルから“聖杯”を受け取る。これが彼女との“勝負”の結果なのだろうか。
「完走をお祝いして、乾杯しましょう!」
セシルが言うと、デボラが聖杯にビールを注いだ。そして二人のグラスにもビールを満たす。聖杯型のグラスだ。どこでこんなグラスやビールを仕入れてきたのだろうと思う。
「
ここまでで十分、水分を補給してきたので、喉が渇いているわけではないが、運動の後のビールというのは、それなりにうまいものだ。たぶん、炭酸の喉ごしだろう。半分ほど飲んだが、二人は飲み干していた。
「それじゃあ、アーティー、私は先に退出するわね。今日一日、あなたといられて、本当に楽しかったわ。もう少し一緒にいたかったけど、名残を惜しむ時間が長いと、別れがつらくなるだけだから」
セシルはそう言って俺に抱きつき、とどめのキス――もちろん、今まで一番長い――をする。そしてデボラとビズを交わすと、グラスを掲げながら笑顔で「
それにしても、あっさりとしたものだ。あれだけ朝からまとわりつかれていたので、退出も一緒に、などと言われるかと思っていたのだが。
「アーティー、汗を拭かないと、風邪をひくわ。車に着替えも用意してあるから、こっちへ来て」
デボラが俺を草地の方へ連れて行く。確かに陽が落ち始めて気温も下がってきているが、汗は自転車を押して坂を登っている間にほとんど乾いてしまった。しかし、少しばかり座って休憩したくはあるので、デボラの勧めに従って車の助手席に乗り込む。
中を更衣室の代わりに使わせてくれるのかと思っていたら、デボラが運転席に乗り込んできた。そして笑顔で俺の方に抱きついてくる。結局は、こうなるんじゃないかと思ってた。
「
「あら、ごめんなさい、こっちに置いておけばいいわ」
デボラはそう言って俺の手から聖杯をもぎ取ると、リア・シートの方に放り投げてしまった。だから、割れたらどうするんだって。それでもターゲットと認められないことはないだろうけどさ。
「セシルは今日一日、あなたと一緒に過ごしたから、残りの時間を私に譲ってもらったの」
ああ、なるほどね、それでセシルはあっさりと退出したのか。ところで、彼女が何時頃から俺と一緒にいたのかは知ってるのだろうか。
「現実世界じゃできないようなことをして、満足したのかな」
「ええ、デートは人目が気になるからしたくてもできないと思ってたのに、やってみたらむしろ見られるのが快感だったって言ってたわ。モデルとしてショーに出ているときよりも気持ちよかったって。それに、あなたが何でも言うことを聞いてくれて嬉しかったって」
ああ、そういうこと。つまりその返礼として、俺に
「本当にあれだけでよかったのかなあ」
「あなたが彼女にどれだけのことをしたか、詳しくは聞いてないけど、彼女が本心から嬉しがっていたのは間違いないと思うわ。だから、私の言うことも聞いてくれると嬉しいの。私との約束、憶えてるでしょう? 今なら心も時間も余裕があるから、誘ってくれると思って」
いや、誘ってるのは君の方だよ。
「心も時間も余裕があるけど、体力に余裕がないなあ」
「大丈夫よ、あなたは動かなくてもいいわ」
デボラがそう言いながら、レヴァーを操作して、シートを倒してしまった。この車、すぐそこの家から丸見えなんだけど。
「君の方は時間の余裕があるのか? ゲートはここじゃないんだろう?」
「ええ、アントワープ空港よ。でも、12時までに行けばいいから。ここからなら1時間半もかからないわ」
「疲れて君が事故に遭わないか心配だよ」
「あら、そんなに疲れちゃうの? アクセルも踏めないくらいに?」
いや、そんな嬉しそうな顔するなよ。どうしてそんなに俺に過剰に期待するのかねえ。しかも、もう俺の腰にまたがっちゃってるよ。まだ服は着たままだけど。
「アクセルよりもブレーキが踏めない方が危ないだろ」
「そうなったら世話係の人を呼ぶわ。それとも、もしかして、私の相手が嫌なの?」
「そんなことはないよ。でも、さっき言ったとおり、体力の余裕がないんだ」
「じゃあ、しばらく休憩したら大丈夫なのかしら」
「退出するまでに回復する自信がないなあ」
「あら、意地悪なのね! でも、セシルとは寝たんでしょう?」
「寝てないよ」
さあ、ここが肝心なところだ。うまく言い抜けられるかどうか。
「そうなの? でも、彼女は、アーティーはテクニックも最高でとっても激しくしてくれたって言ってたわ」
「マッサージしただけだよ。尻の筋肉痛がまだ治ってなかったらしくて、そこに効くようにマッサージしてやったら、のけぞって喜んでた」
「ダメよ、そんなこと言ってごまかそうとしても。セシルから、あなたと寝たっていう証拠を見せてもらったんだから」
証拠って、おいおいおい、君ら、車の中で何をやってたんだ? ああ、デボラがシャツを脱いでしまった。ブラジャーはいつの間に外してたんだ。いや、そんなところを見てる場合じゃなくて!
「しかし、ここは仮想世界だし、そうなると俺たちの身体ってのも生身じゃなくてアヴァターだろうし、現実の感覚が完全に再現されるわけじゃないだろうから、万が一、君を失望させるような結果になったら……」
「そんなことないわよ。五感がこれほど完璧に再現されてるのに、性感だけが再現されないなんて、あり得ないわ。それに、私が満足できなくても、あなたを好きになった理由と、“目”の秘密はちゃんと教えてあげるから!」
おい、ちょっと、手の動きが滑らかすぎるって! さて、この危機を回避するには、どうしたらいい? あああ、最初の危機を回避できなかった時点で、ちゃんと対策を考えておくべきだったか!
「予想外の好成績ね、ボナンザは」
シミュレーション結果についての報告を読み終えたパトリシア・オニールが、アビーに向かって感想を漏らした。ここは彼女のオフィスで、彼女は自身のデスクの前に、そしてアビーは来客用のソファーに座って、共にホログラム・ディスプレイの表示を見つめていた。
「はい、パラメーターからは読み取れない能力を発揮しているのが少々問題とは思いますが、このまま観察を続ける価値はあると思います」
「でも、スートJはやはり全体的に成績が悪いわね。他スートと比べても、合格点を出せるのは二人だけ。やはり、アマチュアはダメね。今後もプロフェッショナル系の人格データを提供してもらえるよう、省にはお願いしておくわ」
「私もその方がいいと思います。ところで、パティー、今回のシミュレーションに関して、一つ質問をいいですか?」
アビーが自分の端末の電源を切りながら言った。パトリシアはディスプレイのライトだけを消し、眼鏡を外す。
「何?」
「ピクシーが言っていた、ボナンザの目に関する特徴というのは事実なのでしょうか?」
アビーは興味本位の笑顔で訊いているが、パトリシアの心の内は、表情からは読み取れなかっただろう。パトリシアは、アビーに気付かれないように小さくため息をついてから言った。
「それは別チームに検証させるわ。でも、目の中の素子の分布に何か特徴があるとしたら、分布それ自身が盲点になるから、調べるのは難しそうね」
「そういうことですか。了解しました」
「でも、ピクシーのような
「了解です。では、あと一つだけ。省の商談責任者が今日から代わったそうですね」
「あら、誰が漏らしたのかしら。アビーは色々な部署に友人がいるから情報が早くて困るわ。あまり広めないでね」
「ええ、もちろん」
「前任者は解雇されたそうよ。理由は教えられてないけど、たぶん利益の不正な誘導による背任でしょう。これまでも交渉の裏ではバック・マージンの話ばっかりだったものね。後任はミズ・マツダという人。こちらからの問い合わせに対する応答も丁寧で早いし、これからは交渉がやりやすくなりそうだわ」
「それは結構でしたね。それでは、また明日!」
アビーがオフィスから出て行くのを、パトリシアは黙って見送り、再びディスプレイのライトを付けた。
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