#8:第7日 (9) 壁から壁へ

 10分の休憩を終えて、再び走り出す。最初は一方的な下り坂。ほとんど漕ぐこともなく進む。5マイルほど走って、ニノヴェの街中へ。外周道路に囲まれているので、その南側を回って北へ進路を変え、街を出たら再び西へ。

 1マイル半ほど走ったら、左に折れてN45国道に入る。周りに畑が広がり、のどかな田舎の風景に変わる。しばらく行くとN460国道に合流。ニノヴェを出てから、ここまではほぼ平坦か、緩やかなアップダウンしかなくて走りやすい。

 細い並木道を通り、建物が増えてきて街中に入ったなと思ったらN42国道にぶち当たり、南へ折れる。間もなくヘラーツベルヘン。踏切のない線路を横切り、煉瓦造りの倉庫が増えてきて、いよいよ街の中心部かと思ったところで、東へ折れる。先ほど横切った線路を陸橋で越え、路駐だらけの街中の細い道に入り、川を越えたら正面に尖塔が見えてきた。

 道が石畳に変わり、勾配がきつくなる。デボラの車が、ゆっくりと前を走る。先導のつもりだろうか。どんどん坂が急になる。ちょっとした広場に出て、勾配が緩くなり、広場の真ん中に建つのが教会かと思いきや、デボラの車がその手前を左に折れると、また坂がきつくなる。立って漕ぐが、既に脚がかなり疲れてきている。

 噴水のある広場を左に折れ、駐車場を脇に見ながら更に坂を上がる。三叉路に出て、ようやく平坦になったのかと思ったら、デボラの車が右に曲がると、道幅がさらに狭まり路面が粗くなった。おいおいおい、本当に自転車レースでこんな道を通るのか? 道を間違えてんじゃないだろうな。もう力が尽きかけてるんだけど。

 その二つ先の三叉路で、デボラの車は左へ折れたが、窓からセシルの右手が出てきて、“右”を指差す。右? いや、絶対無理だろ、この坂は。確かに“壁”だわ。

 しかもこの粗い石畳。今までの道だって十分きつかったけど、路面がわりあい滑らかだったから何とか登れたんだぜ。こんな悪路、下手に走ったらタイヤがパンクしそうだ。自転車を車に寄せて停める。窓からセシルが顔を出す。

「どう? 行けそう?」

「冗談がきつすぎるよ。いくら何でもこの坂を自転車で登るのは無理だ」

「私もそう思うわ。歩いて登るのも疲れそう。車で先に上って、ここが本当にゲートなのか確かめてきた方がいいかしら?」

 ここまで来ておいて、ゲートじゃなかったなんてことになったらかなりショックなんだが、どうするかね。

「この先には車で行けるのか?」

「迂回しないと行けないみたいなの。それに、私はこの上にゲートがあるのか、自信がないわ。今回のロンドはアウデナールデがゴールなんでしょう? だったら、そっちがゲートじゃないかと思うの」

 デボラは冷静だ。まあ、他人事だからな。それでいて俺の体力を心配してくれているのは解ってるけどね。

「とにかく、上まで登ってみよう。ただし、俺は自転車では無理だ。押して行くよ。君たちは車で上ってくれ。デボラ、セシルを頼む」

「解ったわ」

「上で待ってるわ、愛しい人モナムール

 セシルはそう言ってキスしてくれたが、フレンチ・キスは体力を奪われるような気がする。デボラは下の三叉路まで器用に車をバックさせ、別の道へ行った。

 とにかく、登るか。自転車を押して目の粗い石畳を歩く。こうなると自転車が荷物だな。曲がりくねった道を登っていく。家は建っているし、車も停まっている。まさに生活道路だ。これを本当にレースに使うのだろうか。

 坂の突き当たりは山というか森のように木が生い茂っていて、真っ直ぐ行くと石段、右に曲がると山中の散策道のような細道で……本当に冗談じゃないかと思ったが、路上の草がタイヤで踏みつぶされた跡があるし、道の脇に人が踏み荒らした跡があるし、レースがあったのは間違いないようだ。でもこんなところ、追い越しすらできないだろう。落車があったら通行止めだぜ。

 石畳の小道を、自転車を押してゆっくりと登る。100ヤードほど行くと左に曲がり、もう100ヤードほど行くとまた左に曲がり、さらに100ヤード登ると笑顔のデボラが立っていて、“右へ”のサインを送って来た。そのデボラと一緒に、一際急峻で湾曲した坂を登る。教会の屋根が見えている。登り切ると教会の前に、残念そうな笑顔のセシルが立っていた。左の手首をこちらに向けて腕時計を見せているが、もしかして反応がなかったのだろうか。セシルのそばまで行くと抱きついてきて、またフレンチ・キスで唇を塞ぐ。

「残念だったわ、愛しい人モナムール。ここはゲートじゃないみたいなの。でも、あなたの頑張りはとても素晴らしいわトレ・ビアン・フェ

「そうか、じゃあやっぱり、アウデナールデなんだな」

 しかし、先に登って確かめてもらったとしても、あの狭い道を途中から引き返すのは大変だった。これはこれでいいだろう。

 とにかく、休憩だ。最後は自転車を押して上がるだけでもきつかった。しかし、こんな急坂をもう1回登らねばならないのだから、どうなることやら。ほんの少しだけ坂を下って駐車場に行く。デボラからチョコレート・バーをもらい、セシルから水をもらう。

 少し上に展望台があるが、登りたくもない。しかし、アウデナールデまででも40マイルくらいという見積もりは甘かったようで、もうあと5マイルくらいの上積みが必要か。3分の2くらいは来たと思うが、もう6時半だ。夏時間だから日の入りは遅いはずだが、7時半頃には暮れ始めるだろう。

「アウデナールデまで、あなたも車に乗った方がいいんじゃないかしら」

 デボラも同じことを考えていたようだ。

「私もそう思うわ。あなたの体力のことも心配だけど、日が暮れたら危険だもの。移動の手段に制限なんてないんだから、あなたも車に乗りましょう?」

 セシルが愁いを帯びた表情で言う。自転車で行ったら、と俺に言ったのはセシル自身なので、責任を感じているのかもしれない。

「君たちの提案は嬉しいけど、せっかくここまで来たんだから最後まで自力完走を目指そうかと思ってるんだがね。あと2時間くらいかかるかもしれないけど、付き合ってくれるとありがたい」

「まあ! ええ、もちろん、最後まであなたに付き合うわ。私にできることがあれば何でも言ってね」

 セシルがそう言って俺に抱きついてくる。だから、フレンチ・キスは体力を奪うんだってば。

「途中でもう1回休憩を取った方がよさそうね。ブラーケルか、その少し先のゼゲルセムで休憩しましょ。あと、N493は途中に上り勾配があるから、北に上がってN8に戻る方が平坦な道が多いみたい。でも、5キロメートル……3マイルほど遠回りになっちゃうけど」

 デボラが車載端末でルートを調べながら言う。サポーターとしてはやはり彼女の方が優秀だな。

「いや、予定どおり最短コースで行こう。勾配も、さっきの“壁”みたいのでなければ大丈夫だよ」

 自転車にまたがり、走り出す。緩やかな坂を下り、突き当たりを右に折れて丘の東側へ。左に折れるのが近道なのだが、一方通行で車が走れないし、下り坂が急すぎて危ない。

 交差点を南へ曲がりN496国道に入る。丘の南側を、大きく蛇行しながら下っていく道だ。ほとんどペダルを漕ぐことなく、位置エネルギーを景気よく使いながら猛スピードで駆け下りる。

 街まで降りてくると、元来た道に合流し、西へ。この地点で既に高度の貯金を使い果たし、緩やかな上り坂を3マイルほど走る。そこからは下りと上りの繰り返しだ。どの坂でも登り切ったところでデボラたちが待ってくれているが、まだ大丈夫と言って走り続ける。

 ブラーケルの街からN8国道へ。このあたりは坂を下りきったところにあり、その先にちょっと厳しい上り坂が控えているので、そこを登り切ったところで休憩を取ることにする。1マイル半ほどあり、後半になるほど坂がきつくなっていったが、何とか登り切ることができた。

 交差点の近くの空き地に乗り入れて休憩。アウデナールデまであと10キロメートルであることを示す看板が立っている。しかし俺たちが行くのは市街地ではなく、その2マイル半ほど南西にあるコッペンベルグの丘がゴールだ。バナナを2本食べ、水を飲み、最後の行程に備える。

 ここから丘の手前まではほぼ下り一辺倒だし、道も解りやすくて迷うおそれもないので、アウデナールデ市街地の少し南の、N60国道と交わるラウンドアバウトでデボラたちと待ち合わせることにする。7マイルほどか。

 特に無理をしなくても、下り坂なのでかなりのスピードが出る。時速30マイルくらい出ているところもあったかもしれない。最後の1マイルくらいは、かなりの急坂だった。市街地との間にはスヘルデ川――もちろんアントワープを流れていたあの川の上流だ――があるので、河岸段丘を降りていたのだろうか。

 ラウンドアバウトで無事デボラたちと合流、平坦な道をしばらく西へ走ってからメルテン通りという脇道に入り、それからロテレンベルク通りへ。途中から道が狭くなって、石畳に変わる。

 三叉路に看板が立っていて、右へ行くと"Zulzeke""Nukerke"、左へ行くと"Oudenaarde"とあるが、それを左に折れる。家と家の間に丘が、そしてそこを駆け上っていく一本道が見えた。これが二つ目の“壁”か。

 ここまで先導してくれていたデボラたちの車は、加速してその道を登っていく。俺の方も登りに備えて加速する。路面が粗くて自転車ががたがたと揺れ、ハンドルを持つ手に衝撃が来る。

 家並みを抜けると両側に緑の草原が広がる。街路樹に挟まれた坂道は、すぐに上まで登れそうに見えた。しかし進むほどに勾配が“壁”のごとく立ち上がり、道幅が狭くなる。路面が泥にまみれ、タイヤが滑る。さすがはレースの後だ。あっという間にスピードが落ちていく。

 もうあと少し、少し行って曲がったその先に、“壁”の頂上がある気がしたが、加速で溜めておいた運動エネルギーが尽きると、ペダルの上に立って全体重をかけてもタイヤが回らなくなった。もちろん、頂上はまだ先だ。

 諦めて自転車を降り、“壁”を歩いて登る。並木を抜けると、勾配は少し緩やかになったが、まだ遠く続いている。どうやら俺は半分も登れないところで力尽きたらしい。

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