#8:第7日 (7) 18ヶ所の壁

 ハル門の前に停まっていたタクシーを捕まえて、いったんホテルに戻る。ロンドのことを調べるのなら観光案内所でもいいが、いつもブリュッセルでやっているわけではないから、ホテルのコンシエルジュの知識だって似たようなものだろうし、ホテルの方がカードによる“権力”を使いやすい。コンシエルジュは一般的なことしか知らないとのことだったので、ロンドに詳しい、若い男のスタッフを連れてきてもらった。早速、ロンドの“壁”について教えてくれと鎌をかけてみる。

「ああ、ミュールですか。今年は18ヶ所です」

 一発で情報が出てきたのは嬉しいが、18ヶ所とは多すぎる。1ヶ所でいいのに。とにかく、その“ミュール”がどこにあるか知りたいので、地図で説明してもらう。

「今から見に行かれるのですか? しかし、沿道はもう観客でいっぱいだと思いますが」

 余計な心配をするので、TVで観戦するが、ちょうどいい時間帯を知りたいだけだ、とごまかしておく。男がルートが描かれた地図を持って来て、嬉しそうに説明を始める。

「スタート地点はご存じかと思いますが、王宮前広場です。R20道路を1周と少ししてから、北西へ向かって、ラーケン王宮前、アトミウム前、ボードワン国王競技場前を通って、ウェメルが正式なスタート地点でして、そこから……」

 そういう最初の方はすっ飛ばしてもらって、“壁”の辺りだけを説明してもらう。男は名残惜しそうに、そろそろ一団はアウデナールデに着く頃ですが、と前置きしてから言った。

「最初のミュールはアウデ・クワレモントです。全長2200メートル、平均斜度4%、最大斜度11.6%。全部で3回通ります。ここはぜひお薦めしたいです」

 全部で3回、とは何を言っているのかよく解らなかったが、地図をよく見ると、アウデナールデの辺りだけ、コースを示す線が特に複雑に錯綜している。同じ所を何度も通るようにコースが設定されている、ということらしい。

「続いてコルテケールです。全長1000メートル、平均斜度6.4%、最大斜度17%。ここは全てアスファルト舗装です。それから次がエデラーレ。全長1500メートル、平均斜度4.2%、最大斜度7%。ここも全てアスファルト舗装です。それから……」

 またよく解らない説明が出てきた。なぜ、いちいちアスファルト舗装であることを言うのか? 訊けば、ミュールにはアスファルト舗装と石畳があると言う。アスファルト舗装はグリップがよくて走りやすいが、石畳は悪いので走りにくい。石畳の急坂で一度でも停まってしまうとタイヤが滑って再発進ができず、自転車を降りて押さなければならなかったりする……

「つまり、石畳のミュールの方が難易度が高いと」

「そうそう、そうです。だから、ミュールを観戦されるなら石畳の方が面白いでしょう。ただ、ミュールに至るまでに先行車をいつ抜くかといった駆け引きにも魅力があるので、ミュールの部分だけ観戦されても、その、ロンドの本当の魅力というものは……」

 だんだんと興奮してきた男を宥めつつ、石畳のミュールで最大の見所と言える場所を1ヶ所挙げてくれ、と頼んでみる。

「うーん、難しいですね。どれも見所と言えますが、うーん」

 そんなに悩むようなことか。こいつ、きっと自転車レースのマニアだな。マニアというのは素人から見て、どうでもいいところにこだわったり悩んだりするから困る。もっとも、俺もフットボールのマニアのようなものだから他人のことは言えなくて、例えば去年のマイアミ・ドルフィンズの一番面白かったゲームを一つ挙げろと言われたら悩むことは間違いない。

「1ヶ所に限られると難しいですね。アウデナールデ近辺だと、やはりアウデ・クワレモントとパテルベルグ、それからコッペンベルグの三つを挙げざるを得ないでしょう。パテルベルグは全長360メートル、平均斜度12.9%、最大斜度20.3%、今回は2回通りますが、2回目は最後の“ミュール”ですので、激戦になることは必至です。コッペンベルグは全長600メートル、平均斜度11.6%、最大斜度22%。コース中の最急勾配で、過去に幾多の激戦が繰り広げられた名所ですから、これも絶対に外せませんね」

 ほら、そんなことを言い出す。それじゃあ、去年のドルフィンズのベスト・ゲームは、ウィークシックスのペイトリオッツ戦と、ウィーク10テンのジェッツ戦と……って言ってるのと一緒だろ。

「解った。その三つは地図だとどの辺りに……」

「ああ、それから、もう一つ、ヘラーツベルヘンのカペルミュールがあります。全長475メートルと短いですが、最大斜度は19.8%。丘の上の教会へ上がる坂ということでカペルミュールです。最も危険な“ミュール”と言われることも多くて、落車事故がたびたび発生するので、コースに入ったり入らなかったりするんです。しかし、ファンだけでなく、出場者までがここをコースに組み入れることを希望するようなところでして、今年は5年ぶりに復活しましたから、おそらく盛り上がりも史上最大規模に……」

 おいおい、四つに増えたぞ。収拾がつかんな。

「例えば、あなたが大事な人をロンドの観戦に連れて行くとして、そうね、両親でも恋人でもいいわ」

 それまで黙っていたセシルが突然口を開いた。

「何ですって?」

「とても面白いところを見せたいけど、時間がなくて、どうしても1ヶ所だけしか見られない。そういう場合、あなたならどこを選ぶかしら?」

「4ヶ所のうちから、1ヶ所ですか!? ええと、それはですね、その……」

 男が頭を抱え込む。なるほど、そういう訊き方があるのか。セシルは俺とデートをして満足したと言っていたから、もうゲートのことなんか何も考えていないのかと思っていたが、一応は考えてるんだな。

 それにしても、歩きながら突然手をつないだり、信号待ちでキスをせがんできたり、どういうご乱心があったのかと帰りのタクシーで訊いてみたら、「世間の人が、私が恋人とデートしているのを知ったら、どんな反応をするのか見てみたかった」だと。現実世界ではそういうことができなかったからって、こんなところで試すとか、もうどうしようもない状態だな。

「ダメです。どうしても1ヶ所には絞りきれません! 2ヶ所であれば、カペルミュールと、コッペンベルグです。しかし、二つのうちのどちらか一つと言われても、僕にはとても……」

 なんでそこまで迷うんだよ、男らしくない奴だな! こいつまでどうしようもなくなってる。とりあえず地図で、その2ヶ所のミュールのある場所を教えてもらう。まだ説明したそうな男に礼を言ってチップを渡し、フロントレセプションで手荷物を受け取り、大きな荷物はロジスティクス・センターへ送る手配をして、ロビーの一角に座り直す。

「それで、どっちのミュールへ行くの?」

 地図を見ている俺にもたれかかりながら、セシルが訊いてくる。さっきからずっとこんな感じだ。ロビーには他に人影もなく、恋人といちゃついているところを誰に見せたいのかと思う。

「両方行ってみるしかないだろうな。まずは近い方のヘラーツベルヘン、外れたら遠い方のアウデナールデ」

「どうやってそこへ行くの?」

「鉄道か、バスか。時間や何かは自分で調べるより、コンシエルジュに頼んで切符を取ってもらった方が早いだろう」

「車は?」

「免許を持ってないんだ」

「あら、じゃあ、ブリュッセルにはどうやって来たの?」

「自転車」

 それを聞いて、セシルが嬉しそうに笑う。何か、嫌な予感がしてきた。

「それじゃあ、自転車で行けばいいんじゃないかしら。自転車レースのコースなんでしょう? ちょうどいいわ。あなたなら体力もあるし」

「君も自転車で行くのか?」

「そんなの、いやよ。お尻の形が悪くなっちゃう」

 女性自転車レーサーを敵に回すようなことを言うなよ。誰も周りで聞いてないからいいけど。

「それに、もし間違って転んだりしたら、聖杯カリスが割れちゃうわ」

「じゃあ、どうするんだ?」

「私は車」

「俺も乗せてくれればいいのに」

「運転できないもの。免許リサンスは持ってるけど、国際じゃないのよ」

「じゃあ、どうするんだ?」

「デボラに頼もうと思って」

「わざわざアントワープから呼ぶのか?」

「いいえ、今日もこっちに来るって言ってたのよ。私が断りの連絡をしない限り、3時にダンドワで待っててくれるはずなの。そうだわ、その時に、あなたの目の秘密も聞いたらいいんじゃないかしら」

 女どうしで仲がいいのは喜ばしいことだけど、俺に対する君の態度が前と全然違ってたら、デボラがびっくりすると思うぜ。

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