#8:第7日 (8) 壁に向かって走れ

 ダンドワへ行く前に、ギャルリー・サンテュベールで買い物。ヨーロッパ最古のアーケード街だ。セシルが服やバッグを買うのに付き合うだけかと思ったら、俺の服まで「見立てて買ってあげる」と言い出した。要らないと言っても聞いてくれない。

 ただ、試着もせず、デザインと色だけで似合うか似合わないかを判断してしまうのには驚いた。プロだけに、頭の中で試着ができるんだろう。おかげですぐに買えるから、たくさんの店に寄ることができるが、シャツだけで6着も買うことになったのには閉口した。

 こんなにたくさん鞄に入らないと不平を漏らすと、ロジスティクス・センターへ別便で送ればいいと言われた。いつもそうしているのだそうだが、おかげで次のステージの初日は荷物の整理で忙しいらしい。

 3時に、グラン・プラスにほど近い、メゾン・ダンドワへ。1829年に創業した老舗の菓子屋で、2階のカフェで焼きたてのワッフルなどを食べることもできる。混雑していたが、もちろん予約はしてあった。例のカードの権力を使ったのか、それともセシルのネーム・ヴァリューを使ったのかは判らない。

 入口には既にデボラが待っていたが、セシルが俺と腕を組んでいるのを――正確にはセシルが俺の腕にしがみついているだけなのだが――見ても、何も言わず、表情も変えない。意外だな。彼女も同じことをやったからか。

 ただし、4人掛けのテーブルに座るときの位置でちょっと揉めた。どちらが俺の隣に座るかなどと不毛な争いを始めたので、二人とも向かい側に座らせた。そしてチョコレートがたっぷりかかったワッフルを食べながら、自転車と車に分かれて“壁”を目指す計画をデボラに話すと、「面白そう!」と乗り気になる。

「いいわよ。自転車レースのサポート・カー係ね。セシルは私が乗せてあげる。一緒にアーティーを応援しましょ」

 止めてくれなかったか。

「飲み物と補給食も用意した方がいいわね。飲み物はスポーツ・ドリンクがいいかしら?」

「水でいいよ。本当にレースをやるわけじゃないんだし、この季節ならゆっくり走ればそんなに汗はかかない」

「ロンドのコースを行くなら、250キロメートル以上あるわよ? 早く行かないと、着くのが夜中になっちゃうんじゃないかしら」

「同じコースなんて通る必要ないだろ。車でも行けるに違いないんだから、N8国道を通ればいい。アウデナールデでも40マイルくらいだ」

「あら、じゃあ、あなたの体力なら3時間もあれば行けそうね。4時に出発したら、7時頃に着くから、まだ明るいわ」

「あんまり早く着き過ぎると、まだレースをやっていて、道路が通行止めになってるんじゃないか?」

「大丈夫よ。カー・ラジオの交通情報では、通行止めは5時頃までって言ってたわ」

 その後で、女二人で地図を眺めながら、「1時間に1回ずつ休憩ね」などと言って、地図にルートを書き込んでいる。勝手に楽しみやがって。

「アーティーの荷物も、私が車で運んであげるわね」

 ああ、それだけは助かるな。あの鞄だけはロジスティクス・センターに送るわけにはいかないし、かと言って、自転車にくくりつけて運ぶには重いから。

 足取りも重く、自転車を取りにホテルへ戻る。デボラも車をヒルトンの駐車場に置かせてもらっているということで、一緒に戻る。もちろん、セシルも付いてくる。

 ホテルの1階のコンヴィニエンス・ストアで水や補給食を調達し、地下駐車場で荷物を車に積み込んでから、腕時計でビッティーを呼び出す。本当に、ヘラーツベルヘンやアウデナールデに行けるか確認しなければならない。

 二人から少し離れたところで呼び出したつもりだが、どういうわけか3人でバックステージに入ってしまった。距離が近すぎたかもしれない。

「ステージを中断します。裁定者アービターがアーティー・ナイトに応答中です」

「ゲートはカペルミュールかコッペンベルグで合ってるか?」

「お答えできません」

 直接は訊けないのか。ならば、間接的に訊くまでだが。

「昨日、ブリュッセルに来たときは、R20道路が可動域の境界だった。今はその可動域の制限が解除されて、ヘラーツベルヘンやアウデナールデに行けるようになっているんじゃないか?」

「はい、そのとおりです」

「通れる道に制限はあるか」

「ロンド・ファン・フラーンデレンのルート、並びに、N8、N45、N460、N42、N493の各国道と、ヘラーツベルヘン、アウデナールデの両市街地が通行可能です。その他は通行不可です」

「あら、じゃあ、私たちの考えたルートが通れるわ。良かったわね」

 などとセシルとデボラが言い合っているのが聞こえる。確かに、そこが通れるということは、ゲートの推測は正しいのだろう。

「ゲートに到達したことを、退出を宣言する前に確認する方法はあるか」

「腕時計に向かって“確認コンファーム”と呼びかけてください」

 そういう機能があったのか。なぜ最初から教えてくれないんだ。

「壁の頂点に登るのに、手段の制限はあるか」

「ありません。徒歩、自転車、自動二輪車、自動車、いずれでも結構です」

「俺は自転車で行かされることになっているが、尻が痛くなっても、退出したらバックヤードで治療してもらえるんだろうな?」

「問題ありません」

「聞いたか、セシル? 君も自転車で走って尻の形が変わっても、治してもらえるらしいぞ」

「いやよ。それに私、今朝の激しい運動のおかげで疲れてるの。予定どおり、車で送ってもらうわ」

 君は激しい運動なんてしてないだろうが。動いたのは専ら……まあ、どうでもいいや。

「OK、ビッティー、以上だ。後で退出したら君も、『ご苦労様グッド・ジョブ』と労ってくれると嬉しい」

「了解しました。ステージを再開します」

裁定者アービターニックネームスルノムを付けてるの? 物好きね」

 黒幕が上がると、セシルが訊いてきた。

「ああ、少し前のステージで、ちょっとしたことから親近感が湧いたのさ。ところで、君たちの裁定者アービターは女? 男?」

「私のは男よ」

「私も」

 二人が口々に答える。マルーシャの裁定者アービターも男だった。競争者コンテスタントとは異性が割り当てられるのだろうか。それとも、同性愛者は同性かな。どうでもいいことだが。

「君たちはニックネームを付けてないのか」

「固い声の男は好きじゃないわ」

「ずっと年上の人の声に聞こえるから、いつも緊張してるの。だから、親近感が湧かなくて」

 俺も最初は冷たい感じがして好きじゃなかったがね。君たちはまだアヴァターを使うステージを経験してないんだろうな。

「さて、そろそろ出発するか。最初の休憩ポイントはアイゼリンゲンだったな。先に行ってしまわないで、途中で何度か待っててくれよ」

「解ってるわ。頑張ってボン・シャンス、アーティー」

 自転車にまたがったところでセシルが抱きついてきて、濃厚なキスをされてしまった。対抗意識を燃やしたのかデボラまで抱きついてキスをしようとする。彼女の場合、身長差が8インチもあるからかなり頭を下げなければならない。

頑張ってグッド・ラック、アーティー!」

 駐車場を出て、コーニンク通りに出るまでの細い道は、ゆっくりと走る。コーニンク通りを南下し、ポウラエール広場を右折してキャトル・ブラ通りを抜け、R20道路へ。昨日と同じように、南側を半周する。

 ハル門の少し先で、デボラの運転する車が追い越して行った。ルノーの、車種は知らないが、ブルーの小型車だ。二人して窓越しに投げキスなんてするのはやめてくれ、お願いだから。

 北北東へ折れる手前で、左折してN8道路へ。ここからニノヴェまで、ほぼ真西に14マイルほど一直線。アップダウンもほとんどないが、道路が狭いのだけが難点で、車も多いし、さほど速く走れない。

 1マイルも行かない交差点の所に、デボラの車が停まっていた。追い越す時に、「ゴー、ファイト!」などと声をかけてくる。俺は誰と戦ってるんだろう。

 しばらくするとデボラたちが俺を追い越す。2マイルほど行ったら、ブリュッセルの域外に出たのか、車が減って、道が広くなった。またデボラたちが待っていて、追い越すと、後から追いかけてくる。それを5、6回繰り返す。道も緩やかなアップダウンを繰り返す。

 1時間ほどでアイゼリンゲンに到着。自転車を降りて休憩する。平均時速は12マイル半ほどで、今のところは快適なサイクリングだ。脚も特に問題なし。セシルとデボラは、どちらが水を渡すか、タオルで汗を拭くかなどという、不毛なやりとりをしている。仲のいい友人どうしがじゃれ合っているように見えなくもない。

「あなたって脚にはそれほど筋肉は付いてないけど、動きが滑らかでとってもセクシーアギシャンだわ」

 セシルが言いながら俺の脚を舐めるように見ている。ギャルリー・サンテュベールのスポーツ用品店で買ったサイクリング用のウェアを着させられているから、筋肉の動きがよく見えるわけだが、自転車を漕ぐ脚の動きなんて誰でもほぼ同じのはずだし、鑑賞するところが間違っていると思う。これもきっと俺の“目”の効果のせいだろう。次のステージでは正気に返ることを望む。

 セシルがくれたバナナを食べ、デボラがくれた水を飲んだ。

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