#8:第6日 (3) ブリュッセル・サイクリング

 もう少し時間がありそう。ステファンをどう思うか訊いてみた。「天才だと思います」とスザンヌは言った。

「それにすごく努力もしてるし……どうやったら彼に追いつけるのか、いつも悩んでるんです」

「しかし、彼は自分は努力なんかしてないと言っていた。ただ、ファッションのことが好きだから、何でも知りたいし何でもやりたいだけだ、とね」

「そうですか、でも……」

「ミシェルは君より自転車を漕ぐのが速いが、それは努力した結果なのか? そうじゃない。今はただ自転車に乗るのが好きなだけだ。レーサーになるには努力が必要だろうが、それはもっと先の話だ。君も、ステファンに追い付くとかそんなのじゃなしに、今はファッションのことを考えるのを楽しんだ方がいいんじゃないかな。実際、楽しいんだろう? 本当に努力が必要なのは、学院を卒業してからだと思うよ」

「はあ……」

 スザンヌの返事が冴えない。同じようなことをトレドでダマスキナード職人相手に言ったことがあるが、その時も同じような反応だったなあ。悩める若い女の相手は難しい。

「ああ、それと、ステファンは話相手が欲しいらしいから、彼に色々訊いてみるのもいいかもしれない。彼の考え方を知るのはなかなか面白いと思う。絶対に参考になると思うね」

「でも私、彼の話に付いていけないことが多くて」

「彼も今後は話し方を改善するそうだし、話してるうちに理解し合えるよ」

「ねえ、何の話してるの?」

 ミシェルが割り込んできた。そろそろ行きたくてうずうずしてきたのだろう。

「好きなことのプロになるにはどうすればいいかって話だよ。ミシェル、お前はプロの自転車レーサーになりたいのか?」

「うん! なるよ、絶対になる!」

「よし、それなら好き嫌いせずに色んなものを食べて、算数も頑張れよ」

「えー」

「スポーツマンシップってのは何でも公平にやることだよ。それと、一流になるには嫌いなものを作らないことだ。さて、そろそろ行くか」

 ミシェルを先頭にして走り始める。スザンヌを2番目に行かせ、俺が殿しんがりを務める。恐らくあと6マイルほど、30分くらいで着くだろう。ずっと平坦で見通しもいい。しかし、ミシェルは口先よりもへばっていたのか、あまり飛ばさない。おかげでスザンヌが置き去りにされるようなことにはならなかった。

 ブダという集落を過ぎると、地図では左手に鉄道の広大な操車場が広がっているはずなのだが、木立に遮られて見えない。木々の間から架線だけが見えている。時折、列車が通る音がする。

 そしてついに1本の線路も見ないまま、N1国道の終端に到達した。R21という、ブリュッセル市街の大外を迂回する半環状道路との交差点だが、その道には入らず、交差点の向こうのショッピング・モールへ行く。ここが“待ち合わせ場所”で、ミシェルの祖父じいさんが車で迎えに来ているはずだ。車に自転車を載せられるのかと訊いたら、屋根にキャリアを装備していると言っていた。

「お前のためにわざわざ取り付けたのか?」

「違うよ、母さんのためだよ」

「何だと?」

「母さんは元々、自転車レーサーだからね。練習に付き合うために、じいちゃんが車に付けたんだよ」

 昨日の帰りにミシェルからその話を聞いたときには、どれだけ驚いたか。菓子屋の店員がその昔は自転車レーサーだったなんて、誰が想像するもんか。

 それはともかく、モールの駐車場で無事ミシェルの祖父じいさんと落ち合い、礼を言われて別れた。ミシェルはこのまま祖父じいさんの家に泊まり、明日はロンド観戦、スザンヌは昼食の後、鉄道でアントワープに引き返すとのことだった。そして月曜日にはヨルダーンス夫人がやって来て、ミシェルと一緒に自転車で帰るのだそうだ。


 さて、俺の方はこのままブリュッセルの中心部を目指す。モールの駐車場から川沿いの道に出て、南へ走る。N1国道を通っているときもそうだったが、どうも“壁”の気配を感じる。感じなかったのはメヘレンの街中くらいだった。

 ブリュッセルの中心部を取り巻くR20道路に、もうすぐ突き当たる、というところの、その4分の1マイルほど手前で自転車を停める。ここから東へ行くと、ベルギー国鉄のブリュッセル北駅がある。俺はここまで自転車で来たが、もしかしたら鉄道でも来られたかもしれない、という考えが朝から頭に浮かんでいた。これほどの長距離なら、道路だけでなく列車にも乗れたのではないか?

 東へ自転車を走らせる。“壁”の気配はあるが、問題なく走ることができる。交差点を通過する毎に“壁”から解放されながら――つまりこの辺りの道はどこでも通れるということだ――、駅に到着した。自転車を置いて、中に入る。入れた。

 問題はプラットフォームに上がることができるかだ。階段を登る……登れた。この世界に来てから初めてのことだな。列車に乗れるかどうかを確かめるのは、面倒だからやめておく。きっと、アントワープとブリュッセルの間だけ乗れて、それ以外のところへ行く列車には乗れなかったりするのだろう。

 駅を出て、また自転車で南へ走り、R20道路にぶつかって少し東へ行くと、ヒルトンの“ブリュッセル・シティー”がある。今夜泊まれるかどうかは朝の時点では判らず、申し訳ないがここで訊いてくれ、とラウラに言われている。

 フロントレセプションに行って訊くと、ここではなく“グラン・プラス”の方に部屋が取ってあるとのことだった。中央駅のすぐ近くで、「観光にも大変便利です」とフロント係デスク・クラークが得意そうに言う。部屋はまたジュニア・スイートだそうで、俺が泊まるために何人の予約客が部屋を取り替えることになるのだろうと思う。

 チェック・インの手続きはこちらでしておきます、と言うのでありがたく厚意を受け、ついでに市内中心部の観光地図をもらった。間もなく昼だから、あと6時間ほどで見るべきところは全部見なければならない。しかし、教会だけで10ヶ所、博物館はそれ以上にたくさんある。ホテルのレストランでサンドウィッチを摘まみながら作戦を立てる。

 教会は可能な限り見て回ろう。しかし、博物館は大きな所しか行けないだろう。市立美術館、王立博物館、ベルビュー博物館の三つに絞るか。教会に計4時間、博物館に計2時間。これなら何とかなりそうだ。他は明日に行くか、それとも諦めるか。

 まず、一番近いノートル・ダム・デュ・フィニステール教会へ。ショッピング・センターなどのわりあい新しい建物が立つ地区の中に、時代に取り残されたかのように18世紀の石造りの建物がある。外観は古びているが、中に入ると綺麗に補修されている。壁は1階部分がダーク・ブラウン、2階以上が白で、太い大理石の柱が何本もそそり立っている。

 この教会の見所はモーセの十戒を表現した説教壇だそうだが、一瞬だけ見てから奥の祭壇へ。こちらも大理石造りの立派なもので、燭台がたくさん飾ってあるが、聖杯はなかった。入口の上の大きなパイプ・オルガンを眺めてから外へ。ちなみにフィニステールとはフランスの北西の端にある県のことで、ブリュッセルはフランドル地方なのにフランス語の方が優勢らしい。

 少し西へ行って、ベギン会教会へ。ここはビッティーの挙げた10ヶ所の中にはなかったが、廃教会だからだろう。しかし、宝探しといえば廃教会という固定観念もあるので来てみたが、誰でも入れる記念館のようなものだった。外見は廃教会とは思えないほど立派だが、中はベギン会の歴史を説明する看板ボードが林立していて、確かにミサなどの行事には使われていないな、というのがよく解った。祭壇はシンプルで、燭台が2本立っているきりだった。

 その南西の聖カトリーヌ聖堂に行く。近いので、自転車に乗るのが面倒なほどだ。建物の東側は黒く薄汚れているが、正面に回ると真っ白で綺麗だった。ファサードの大きな丸窓も特徴的だ。中の壁も白い。

 ここで有名なのは“黒い聖母子像”で、18世紀にプロテスタントによってセンヌ川に投げ捨てられ、泥炭に浸かっていたため、後に発見されたときには黒くなっていた、ということらしい。ついでに黒い聖杯なんかも発見されてりゃよかったのに。祭壇の脇には一対の彫像。他に見るべきものは特になし。

 南へ少し離れた、ノートル・ダム・ド・ボン・スクール教会へ行く。南へ一直線に行く道がなく、斜めに交わる道をこまめに渡り歩く。少し東へ寄り道すると聖ニコラス教会があるのだが、これは道順の都合で最後に行くことにする。

 教会は込み入った街中に建っていて、正面に広場がなかった。中に入るといきなり謎の像が。座った子供が口の横に両手を当て、天に向かって何かを言おうとしているかのように見える。ただし、口は開いていない。何の像かの説明はなく、妖怪ゴブリンにも見えて、なかなかに気味が悪い。教会の中はさほど広くなく、祭壇に上がることもできる。そのためか、燭台などの飾り物は一切ない。マリア像は木製だった。

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