#8:第5日 (6) ビールのグラス
向かいのビストロに入るなりステファンが「ボレケ、二つ!」と注文する。
「ボレケってのはビールの銘柄?」
カウンターに座りながらステファンに訊く。
「ああ、デ・コーニンクのクラシックのことだよ。正しくは、グラスのことだけどね」
脚付きのビール・グラスに入れられた琥珀色のビールが2杯出てきた。これがボレケか。乾杯もせず、ステファンがビールを半分ほど飲み干してから言った。
「ベルギーはビール用のグラスの数が本当にたくさんあってね。銘柄ごとに一つずつあるんじゃないかってくらいなんだ。例えば、そこにちょっと変わった形のタンブラーがあるだろう? あれがフーハールデンっていう銘柄専用のグラスなんだ」
カウンターの奥に色々な形のグラスが、20種類以上も並んでいる。ステファンが指したグラスは、上の方は丸いが、下の方は六角形になっている。なるほど、ちょっと変わっている。
「あれだけがタンブラーで、他はだいたい脚付きなんだ。ボレケみたいな
ステファンはそう言うとグラスの残りを飲み干し、“
「この絵、見たことある?」
瓶のラベルにはルーベンスの『アダムとイヴ』が描かれていた。しかし、アダムが左手にビールの入ったグラスを持っている。よく見ると、イヴもビールを飲んでいる。
「なるほど、いい遊び心だ。ルーベンスもきっと
「そうだろう? ルーベンスもビールが大好きで、それで痛風になったって説もあるくらいだからね。あんたもこれ、飲む?」
「1杯だけのつもりだったが、後で飲むよ。ところで、よくプロのモデルに試着を頼む気になったな」
「ああ、最初はプロだと気付いてなかったからね。プロのモデルみたいなプロポーションをしてると思って声をかけただけで。でも、プロならなおさら受けてくれると思ったんだよ。新しいデザインに興味がないはずないからね。もちろん、こっちはまだプロじゃないけど、デザインには自信があったし、見てもらえるだけでもと思ってたから。僕がコンセプトを説明したら納得してくれてたみたいだし、僕のノートを見て他のデザインにも興味がありそうだったし、彼女も何か収穫があったと思ってるんじゃないかな。もし僕がプロになれたら、依頼するときは正式のルートを通すし、報酬だって支払うさ。ところで、あんたって何の仕事してるんだっけ?」
さて、それについては俺自身も困ってるんだよな。“財団”の仕事は何をやってるか判らないから、説明に使いたくないんだよ。
「アメリカン・フットボールのセミプロだ。他の仕事もパート・タイムでやっていたが、そっちは今、失業中だ」
「そうなのか、スポーツを仕事にしているとは思ってなかったよ。でも、アメリカン・フットボールか。それなら解る気がするな。あれ、かなり
「どんなスポーツだって
「そういう意味じゃなくて、事前にたくさん作戦を立てて、それを憶えなきゃいけないから、論理と記憶力のスポーツなんだろうっていう意味で言ったのさ」
こいつといいデボラといい、フットボールが身体以上に頭を使うスポーツだということを認知している奴がそれなりにいるのはいいことだと思うが、合衆国民以外でフットボールのファンだという登場人物に出会ったことがないのが、フットボールの世界的な
「それもポジションによる。例えば
「はあ、でも、
「俺はほとんど全部のポジションをやらされたことがあるんで、どっちつかずのプレイヤーなんだよ。今はオフェンスだ。
「そうかな、満遍なく才能を持ってるのがいいのかと思ったけど、何かに突出した才能がある方がいいのか。動きがポジションでみんな違うからってことね。ところで、フットボールの作戦を考えるとき、○とか×とかを使ってプレイヤーの動きを表す図を描くんだろう? あれ、描ける?」
「描けるが、どこに描く?」
「ああ、そうか、ノートは上に置いてきたんだ。そうだな、とりあえずこれに描いてくれないかな。ノートは妹に持ってこさせるよ」
ステファンはグラスの下に敷いてあったコースターをひっくり返して俺によこした。ペンもないので、店員から借りた。コースターに
「あれ、こんなのだったかな。このTとかEとかMってのは何?」
電話を架け終わったステファンが、俺の描きかけのXO図を見て言う。
「ディフェンスのポジション名だ。Tは
「ふーん、そうなのか。これ、ディフェンス側を一律に×で表したら変かな?」
「別におかしくはない。○にしようがVにしようが▽にしようが、描き手の好みだ」
「そうか、よかった。ところで、これ、タイミングはどうやって表すの? ボールを受けるプレイヤーは何秒後かにどこかの地点まで到達してなきゃならない、ってのを聞いたことあるけど」
フットボールを知ってたとしても断片的な知識しか持ってない奴ばかりだなあ。いや、こんなことでも知ってるだけましか。これもフットボールの立ち位置なんだろうな。
「そういうのは図とは別に欄外に文字で書く。時間と距離は図と分けて憶える方が理に適ってるってのが理由だそうだが、もし画期的な表記法を思い付いたら教えてくれ」
「ああ、そういうことね。いや、さっきの服のデザインを表現するのにいい方法がないかと思ったから訊いただけなんだけど、ああ、でも、この図もこれはこれで面白いなあ。服のデザインにも使えそうだよ。もう何パターンか描いてくれないかな?」
礼をすると言っておきながら、また頼み事してやがる。描こうと思えば10ダースでも描けるが、そんな時間ないって。
30分後、仕上げが終わった服を持って、ホテルに戻った。その前に、また菓子屋へ寄る。やけに店の中が混雑していて、入れない。中にミシェルがいるのが見えたので、手招きで呼び寄せる。
「どうした、大繁盛だな」
「そうだよ、今日から売り出した新しいお菓子を、みんな買いに来てるんだ」
新しい菓子というと、
「昨日の夜、母さんが試しに作ってくれて、すごく美味しいって僕が言ったから、今朝、試食用のをたくさん作って、僕が友だちに配ったんだ」
そんなに偉そうに言うようなことか。しかし、これでは閉店になるまでヨルダーンス夫人に話を聞くのは無理じゃないか。おっと、誰か来た。
「あっ、スザンヌ! どこ行ってたんだよ、すぐ来てって言ったのに」
「ごめんね、大事な約束があって……えっ、これどうしたの!?」
「だから、早く手伝いに来てって言ったのに!」
スザンヌが店の大混雑を見て驚き、ミシェルに急かされて中へ入っていった。なるほど、手伝いに呼ばれたのか。セシルと何か話をしていただろうに、途中で呼び出されたのかもしれない。俺がセシルに恨まれるかもしれんな。いいか、これもシナリオのうちだろうし。
とりあえず、ホテルの
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