#8:第5日 (7) 菓子と自転車

 6時まで待ってから、もう一度菓子屋へ行く。大混雑はなくなり、"GESLOTEN"の札が掛かっていたが、中の灯りは点いていた。ヨルダーンス夫人もスザンヌもミシェルもいる。もう一人の店員の姿も見える。ドアをノックすると、ミシェルが開けてくれた。

「まあ、ナイトさん、昨日のあの焼き型で作ったお菓子が、今日は大評判だったんですよ。本当に、ありがとうございました」

「ああ、そうらしいな。俺は食べてないんだが」

「あら、そうでしたか。ホテルのラウンジの方にもお出ししたつもりだったんですけれど」

 少なくとも、朝食の時には置いていなかったと思うが、もしかしたら俺が行った時点でもう“売り切れ”だったということだろうか。

「そうか、明日も出してくれるなら食べるよ。とにかく、人気があって良かったじゃないか」

「はあ、そうなんですが、今、そのことでちょっと相談をしていまして……」

 ヨルダーンス夫人が言いかけたとき、厨房の方から初老の男が入ってきた。いかつい風貌をしているが、料理人の服装をしているからパティシエだろう。菓子を載せた皿を手に持っている。それを見てヨルダーンス夫人が話しかける。

「どうでした?」

「やっぱり慣れるまでは焼き手は二人必要だね。明日は朝からお客が詰めかけるだろうから、今日のようなペースじゃ捌ききれんよ。誰です? お客?」

 俺が増えていたことに気付いて、男が怪訝そうな顔をする。焼き型を持って来てくれた人だ、とヨルダーンス夫人が説明すると、少し機嫌のいい顔になった。ここの店長だそうだ。例の焼き菓子はラウンジに出したら好評だったので朝から店でも売っていたが、2時を過ぎたあたりからそれを買いに来る客が急激に増えて、4時から5時頃までは客が店に入りきらないほどだったそうだ。

「とにかく、明日は朝から焼き手を二人にしよう。コンロブランデルワッフルワーフェルを止めて使う。しかし、他の菓子もあるから、ヌレット、申し訳ないが、やっぱり朝から来てくれんかね」

やだネー!」

 ヨルダーンス夫人の代わりに、ミシェルが返事をした。明日は休みということになっていたはずだから、約束があったのだろう。そういえばロンドという自転車レースを見に行くと言っていた気がする。店長もその辺りの事情は解っているらしく、どうしたものかという表情をしている。

「明日は朝からブリュッセルへ行くんだよ。約束したじゃないか!」

「でも、ミシェル、ヨリーンが火傷をしてしまったから、焼き型を使えるのが私と店長しかいないのよ。他のパティシエを回しても結局人数が足りないし……3時過ぎからじゃいけないかねえ?」

「でも、約束したんだよ! 約束を守らなきゃいけないって、いつも言ってるのは母さんじゃないか!」

「それはそうだけど……」

 店長が一つため息をついて、困ったな、と言った。まあ、ミシェルの言うことが正論だから仕方ないな。大人は子供を裏切らないようにしなきゃ。

 それから店長は、今頃ようやく気付いたかように、手に持っていた皿をカウンターの上に置いた。城塞フォルトの焼き菓子が六つ載っている。さっき、ペースとか言っていたから、手際よく焼くのに何分かかるかなどを計っていたのだろう。後で食べさせてもらうことにしよう。

「それじゃあ、スザンヌ、明日、ミシェルに付いて行ってやってくれないかねえ?」

 しばらく黙った後で、ヨルダーンス夫人が苦肉の策をひねり出してきた。

「えっ、私? どこに? ブリュッセルまで、自転車で? 無理よ、そんなの! 道も知らないし、そんなに遠くまで自転車に乗ったことなんてないし……」

「道は僕が知ってるよ! 地図があれば行けるんだ。スザンヌは付いて来てくれるだけでいいよ。自転車は母さんのを借りればいいから」

「でも、私一人だと、やっぱり自信がないわ。ルネおじさんは?」

「それが、この前から腰を悪くして、自転車なんてとても……」

 うん、さっきから茶番が続いているが、ようやく結論が見えてきたぞ。つまり、ここは俺の出番だな。

「ミシェル、そういうことなら俺も付いて行ってやろうか。3人で行けばいくら何でも大丈夫だろう」

「あっ!」

 ふくれっ面をしていたミシェルの顔が明るくなった。お前、俺がいるの忘れてただろう。

「そうだ、おじさんが付いて来てくれればいいよ! スザンヌと二人で!」

 やっぱり、俺の名前を覚えてないな。それはともかく、アントワープから出られるとは思ってなかったが、こんなタイミングでブリュッセルの話が出てきたんじゃあ、“行けるようになる”って考えられるよな。過去にも例があったことだし。

 ヨルダーンス夫人もスザンヌも色々と負い目があるだけに、ミシェルの案、というか俺の案に従うしかないだろう。


 話し合いが無事終わると、ホテルのコンシエルジュ――やはり中年婦人、この前声だけ聞いた――のところへ行って、ロード・レース用の自転車を明日の朝までに調達するよう申し入れた。お安いご用、と彼女は言っていたが、もう一つの申し入れにはさすがに驚いていた。

「明日のブリュッセルでの宿泊? でも、明後日にロンドがあるので、予約がいっぱいのはずです。今からじゃあ、とても無理ですわ!」

 それでも何とかしてくれと言うと、少々お待ちを、と言ってどこかへ去って行った。そしてしばらくするともう一人の中年婦人――初日に俺の受付をしてくれたラウラ・ペーテルス――を連れて戻って来た。

「明日からのブリュッセルでのご宿泊ですね。1泊でよろしいでしょうか?」

「うん、1泊でいいが、やっぱり無理かな」

「いいえ、当ホテルの威信にかけても用意いたします。ただ、ブリュッセルにはヒルトンが2軒ございますので、どちらにご宿泊いただけるかはこれから確認いたしますが、確定は明日になるかもしれません。その点についてはご了解いただけますでしょうか?」

「ああ、それは問題ない」

 当日のキャンセル状況にもよるということだろう。だいたい、ホテルというのはオーヴァー・ブッキングは当たり前で、当日来た順に客を泊めていって、後で来たら予約してても満室になってて、他のホテルに回されるなんてのはよくあることだ。

 そもそも、俺だって明日ブリュッセルで泊まる必要があるのかどうか判っていない。ただ、残り2日の時点でブリュッセルへ行ける状況が発生したのなら、ターゲットはそちらにあるかもしれない、そうなったらアントワープに戻ってる暇はないな、と思っただけだ。アントワープでは5日間探しても、それらしいものはなかったんだから。

 かしこまりました、ご安心下さい、というラウラ・ペーテルスの返事をもらってから部屋へ戻り、7時からのデートに備えて着替える。メグに誂えてもらったデート用の服がこういう時に役立つ。

 7時に15分も前から下のロビーで待っていると、3分前になってようやくデボラがやって来た。例の“ファッション・ショー”の服を着ている。ということは、あの服の下にはブラジャーを着けてないということだ。

「さあ、行きましょ。腕を組んでいい?」

 断る理由はないので、肘をデボラの方に出す。デボラが腕にしがみついて身体を密着させる。やっぱりブラジャーを着けていない。顔の方は、元々化粧っ気がないところに少しばかり塗ったような形跡があるが、そんなことをしなくても十分美人だから化粧の評価はしないでおこう。黒い執事服を着た、超ハンサムな男がデボラを見送っている。年格好は俺と同じくらいだが、顔の良さは比べるべくもない。きっと彼が世話係だな。

「そうよ、アイクさん。優しくて、とってもいい人よ」

「彼と食事には行かないのか?」

「行かないわ。だって、執事として扱うべき人だもの。それに、仮想世界の登場人物に、あまり深く関わらない方がいいと思うの。思考が阻害されちゃうから」

 そういうものかね。うん、それが正解なんだろうな。いくらメグが愛しく思えて、彼女の方からも愛情を投げかけてきたからって、俺が応える必要はないもんな。とはいえ、もうほとんど心を奪われてる感じだから、今さらどうしようもないけどね。

「ところで、あなたのその服、とっても似合ってるわ! いつものカジュアルな服も似合うけど、体格がいいから、何でも似合うのかしら?」

 そうやって褒められると、メグのことを思い出さざるを得ない。他にも色々服を買ってもらったし、そういう服を見る度にメグのことを思い出してしまうだろう。かと言って、捨てるわけにもいかないしなあ。

「どういたしまして。君のその服も、よく似合ってるよ。1ダースあった中で、俺が見ていて一番似合ってると思ったのがそれだった」

 スカイ・ブルーのドレスで、スカートは膝丈くらい。袖なしスリーヴレスだが、肩から胸にかけてレースのような薄い布が何枚も重ねられていて、そこに鳥と雲の模様が描かれていて、歩くと鳥が羽ばたきながら飛ぶ、ついでに雲も動くという仕掛けだ。ただし、デボラが胸を俺の腕に押しつけているので、揺れが少なくて模様の動きが小さい。せっかくのステファンのアイデアが台無しだ。

「本当? 嬉しい! 私、セシルとお昼を食べながら、デートの服の相談をしたの。アドヴァイスをもらって、その後、買い物に行って、ホテルへ帰ってきたときに、ちょうどあなたから電話をもらったのよ。買った服も気に入ってたんだけど、モデルとして着たこの服の方がもっと気に入ったから、着て来たの。あなたもこれが一番似合うと思ってくれてたなんて、とっても嬉しいわ」

 電話をしたのは俺じゃなくてステファンなのだが、どこで記憶が入れ違ったのかな。

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