#8:第4日 (6) それで十分か?
ステファンが窓の方を見た。ちょうどその時、向かい側の部屋の灯りが消えた。正確には、いくつかの部屋の灯りが、少しの時間差で連続して消えていった。代わりにエレヴェーター・ホールに灯りが点いた。目の中にはさっきまで見ていた部屋の灯りの残像が飛び交う。ステンシルの影が、なぜか色付きに見えた。もちろん、錯覚……
「ああ!」
ステファンが突然大きな声を出し、両の拳を顔の前で握りしめながら、地団駄を踏み始めた。エレヴェーター・ホールから、誰かがこちらを向いているのが見える。
「ああ! ああー!」
頭がどうかしたんじゃないかと思うほど叫び続けた後で、ステファンは膝を叩き始めた。タッチダウンの後のセレブレーションじゃねえってんだよ。お前、そうやって大声出してたから、隣の部屋にいた奴に殴られたんだぜ。うるさい、黙れってな。絶対、そうだ。
「そうだ! 僕はついに見た!」
それからステファンはしゃがみ込んで頭を抱え、しばらく動かなくなった。頭の血管が切れたんじゃないか。また病院行きだぜ。エレヴェーター・ホールの灯りが消え、人影がなくなった。
たっぷり5分ばかりも経った後でステファンは突然立ち上がり、リオ・デ・ジャネイロのコルコバードの丘に建つキリスト像のように大きく両手を広げ、晴れ晴れとした声で言った。が、ほとんど真っ暗なので、どんな表情をしていたかは判らない。
「神よ、それで十分だ!」
まるで舞台で幕切れの台詞を言う役者だ。何の劇の台詞なんだ? だが、とりあえず忘れてたデザインのことを思い出したようだな。良かった良かった。それで?
「待って、ちょっと待ってくれ、ちょっとだけ待っててくれないか。それと、悪いけど、灯りを点けてくれ。せっかく思い出したんだから、ノートに描き留めておかなきゃ。また忘れないうちに。早く早く!」
仕方なく電灯を点けてやる。ステファンは鞄からペンを取り出し、立ったまま、ノートにスケッチを始めた。手の動きを見ると、人の形と、そして服を描いているのだろう。しかし、ラフではなく、ペンがすごい速さで動いて描きまくっているのだから、デッサンだろう。しかも次々にページを繰っていく。1枚描き終わるのに1分とかかっていない。ただし、20枚以上描いていたので、結局15分くらいはかかった。頭の中にどれだけの量のデザインが思い浮かんでたんだ?
ようやくペンを止めると、ステファンは「よし!」と言った後で、スケッチしたページを最初から全部見直し、もう一度「よし!」と叫ぶと、ペンとスケッチ・ブックを鞄の中に放り込んだ。
「オーケイ! あんたのおかげで忘れていたデザインが思い出せた。改めて礼を言うよ。
言いながらこっちに歩いてきて、俺の手を握る。先ほどの劇的な物言いとは違って、ずいぶんとあっさりしていたが、逆に芝居がかって礼を言われても気持ち悪いだけなので、気にしないでおく。さて、これで彼から何か情報を引き出せるようになったのだろうか。それとも、今のスケッチの中に何かヒントがあるのか?
「そうか、思い出せて何よりだ」
「うん、結局はあんたの言ったとおり、影が動いているのを見て思い付いたんだ。それと、残像ね。画期的とまでは言えないだろうけど、かなり面白いデザインだと思うよ。課題で提出するんだ。入院してたから僕だけ2日遅れなんだけどね。さて、僕は今のデッサンのうちいくつかを、これから試作をしようと思うんだけど、完成したらあんたにもぜひ見て欲しいし、お礼もしたいから明日も来てくれないかな。3時くらいに」
待てよ、おい、今夜はこれで終わるつもりか。
「これから試作? 徹夜でもするのか」
「どうかな、途中で眠くなったら寝ると思うけど。でも、明日の授業が始まるまでにはできると思うよ。3時は授業が終わる時間なんだ」
大したヴァイタリティーだな。ま、若いうちは多少の無理も効くさ。俺が学生の時は寝不足だとすぐに体調を崩してたから、早寝早起きに努めてたがな。しかし、このイヴェントはこれで終わりなのか? 何か足りない気がするが。
「そういえば、誰に殴られたかは突き止めなくていいのか」
「ああー、誰なんだろうなあ。あの日は翌日に課題の提出を控えてたんで、僕を含めて結構たくさんが遅くまで残ってたからなあ。ダフィットとヤンとニールスと……あと3、4人? その中の誰かが犯人だと思うよ。でも、もう思い出したからいいや。入院はしたけど、大怪我もしなかったし」
いや、それを突き止めるのがこのイヴェントの結末じゃないのか。このままにしてしまっていいのだろうか。そうしないとお前、また殴られるかもしれないんだぜ。
「それじゃあ、床に何か記号を描いたと言っていたが、それももう思い出さなくていいのか」
「ああ、それも必要ないよ。何か、面白い形の記号を描いたようには思うけど。それもデザインに使えるかもしれないから、思い出せれば思い出したいけどね」
それもターゲットのヒントになるんじゃないかと期待していたんだがな。
「そういや、ノートをなくしたと言ってたような気がするが」
「あ、そうだったね。その日の昼頃になくなったんだよ。誰かが間違えて持っていったのかもしれないと思って、みんなに訊いたんだけど、知らないって言われて。でも、あれに描いてたデザインは全部頭の中に入ってるから、大したことじゃないんだよなあ」
「そのデザインを他の奴に盗まれるとは思わないのか」
そもそもなくしたんじゃなく、盗まれたんじゃないのか。課題ができなくて困ってた奴にさ。もっとも、それについては俺の知ったことじゃなくて、もしかしたらそのノートの中にヒントが書かれてるんじゃないかって期待してるだけだけど。しかし、ステファンは肩をすくめる仕草をしただけで言う。
「そりゃ、そういうこともあると思うけどね。でも、僕がデザインしたものかどうかは、他の人も見れば解ると思うよ。みんなそれぞれ自分の特徴ってものがあるからね。しかも盗作をすると、後々自分のデザインってものが解らなくなってくるんだなあ。で、結局デザイナーとしてダメになる」
大した性善説だな。しかし、デザインなんて盗んでなんぼっていう奴はざらにいるぜ。バレなきゃいいって思ってる悪人だらけだよ。
「じゃあ、お前が課題を提出できないようにしようとした」
「さっき言ったとおり、デザインは全部憶えてるから、ノートがなくなってもまた描き直せばいいだけなんだよ。困るのは、思い付いたのをノートに描く前に、うっかり忘れたときだけなのさ。今回みたいにね」
要するにお前は、もう困ってないって言いたいんだな。でも、俺が困ってんだよ。しかし、この調子じゃ今夜はこれ以上は無理だろうなあ。しょうがない、明日も来るか。イヴェントの続きもあるようだし、何とかなるだろう。ただ、午前中が暇そうだな。調査に行くところがもう思い当たらない。
「解った。じゃあ、俺は帰るよ。また殴られないように気を付けな」
「ああ、そうするよ。でも、もうみんな帰ったみたいだし、スケッチもしたから忘れる心配もないし」
今度殴られたら入院なんかじゃ済まんかもしれんのに、天真爛漫な奴だな。部屋を出て、階段を降りる。ステファンは鞄を持ってどこか別の部屋へ行ったようだ。外の通りに出て、時計を見ると11時半を回っていた。
「うーん、“ステファン講義”に辿り着いたまでは良かったけど、最後はちょっと突っ込みを欠いたね。ひとまず、レッドの意見を伺おうか」
「ミスター・ブルー、それは私の役割ですのよ」
「やあ、失礼、グレイ。映画を見た後のような気分になっちゃって」
「
「了解です。ミス・グリーンはいかが?」
「悪いところは多々あったけど、冴えてるところもあったじゃないの。特に、
「本当に聞いてみたかったんですかぁ? “ステファン講義”だけでもうんざりしてたように見えましたけど」
「講義の方はシナリオどおりだから、注意して聞いてなかっただけなの!
「じゃあ、そういうことにしておきますね。ミスター・ブルー、ご意見をどうぞ」
「ふうん、僕も続きは気になったねえ。例えば、“ポーズ論”に対して
「僕は“ファッション
「ミス・グリーンはどの可能性を考えていましたか?」
「私も“数字論”に行くと思ってたわ。昨日の“黄金比”に対して、
「では、このイヴェントに対する行動については、ステージ終了後の講評に入れることとしますね。この後は、
言葉は違ったが、3人が口々に肯定の言葉を返した。本日の総括で何かご意見は?とグレイが訊いたのに対して、ブルーがぼそりと呟いた。
「ピクシーは何かしてくれるかと期待してたんだけど、本当に大人しいなあ。何もしないつもりなのかなあ。ボナンザにやけに興味を持ってたようだけど」
「行儀のいい被験者ですからね。でも、本来はそうして攪乱がない方が想定シナリオですし、常に波乱を求められても、ちょっと」
「いやあ、明日に期待したいな。明日、また明日ばかりじゃ終わっちゃうけどさ」
「他になければ、本日はこれで終了します!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます