ステージ#8:第4日

#8:第4日 (1) トレーニングの理論

  第4日-2041年4月4日(木)


 昨日と同じ時間に起きて、スタツ公園へ行った。セシルの姿を探したが、見つからない。とりあえず、1周走ることにする。10分もかからないし、待ち合わせの時間と場所を正確に約束したわけでもないのだから、待たせたとしても機嫌を悪くすることはないだろう。

 走っているのはおおよそが昨日と同じメンバーに見える。絵描きは池のそばにいない。彼とその付き添いはキー・パーソンズと思えるので、見つけ出した方がいいだろう。探すあてはモード・ナシーしかないけれど。サッカーの練習をしている親子はいつもと同じ場所。彼らに声をかけた方がいいのか。しかし、ボールは転がってこなかった。

 最初の場所に戻ってくると、見覚えのあるファッショナブルなウェアの女がいた。サングラスをかけているが、もちろんセシルだ。道の端に自転車を停めて、その横で準備運動をしている。ここまでは自転車で来たらしい。

 近付いていくと、俺の方を見ているが、サングラスは外さなかった。まだあまり信用されていないのか。

おはようモーニン

 声をかけても、サングラスで半分隠された眉を少し動かしただけで、返事もしない。馴れ馴れしいのは嫌いなのかも。そもそも、フランス人は合衆国民のことがあまり好きでないらしいから、仕方ないとは思う。

「さて、走り方を教えるということになっていたから来てくれたんだ、と思っているが、そのつもりでいいかい」

ええウィ

「理論で説明するのがいいか、それとも実践か」

「理論で説明して。言っておくけど、私、一流のインストラクターに走り方を教わったのよ。あなたが嘘を言っても、見抜く自信があるわ」

「うん、そうだと思った。君の走り方を見て判っていたつもりだ」

 これほどのプロポーションの持ち主が、我流のトレーニングをしているとはとても思えないからな。

「あら、そう」

「背筋を伸ばす、歩幅は小さめ、着地は足全体、腕を大きく動かす、骨盤の動きを意識する。それと、見てはいないが、準備運動と整理運動をしっかりする。こんなところだと思うが」

「そうよ。それで何も問題ないつもりだけど」

「そうだ。今のプロポーションを保つだけならね」

「何が言いたいの?」

 “だけジャスト”のところを少し強調したものだから、思ったとおり食いついてきた。そもそも、自分に合った走り方を知ってるのなら俺に訊く必要はないわけで、それなのに“取り引き”に応じたのは、今の走り方では何か不満があるということだろう。しかし、このプロポーションで不満を持つのは、いささか贅沢というものだ。人間の欲望にきりがないとは解っていても。

「俺の見立てが間違っていれば、ぜひ訂正して欲しいが」

 セシルが腕を組んだ。間違ったことを言ったら許さない、というポーズに見える。上等だ。聞いてもらおう。

「君のプロポーションはほぼ完璧だが、臀部バトックスの形に改善の余地がある。恐らくそれは大臀筋の鍛え方が不足しているからであって、大臀筋は君が今やっているようなジョギングのフォームでは鍛えられない。もしかしたらジョギングとは別に筋力トレーニングをしているのではないかと思うが、それにしてもおそらくメニューに不備か不足があって、大臀筋は適切に鍛えられていない。もっとも、これは俺の好みで言っているだけであって、今のプロポーションの方が君の職業に合っているというのなら、君は何も変える必要がない」

 セシルは黙って聞いていたが、俺が話し終わってしばらくすると、組んでいた腕をほどき、腰に当てて肘を張った。“挑戦”のポーズだ。さて、何を挑戦してくるつもりなのかな。

「今日は走らずに、ホテルに戻って筋力トレーニングをしろってこと?」

「そうは言ってない。大腿部から下の形を保つには、今の走り方が有効だと思うよ。だからぜひ続けた方がいいが、そうじゃないところの形を変えたいなら、違うトレーニングもすべきだと言っているだけさ」

「誰がトレーニング方法を教えてくれるの? この世界で」

「ホテルのフィットネス・ジムで頼んでみたら? トレーナーがいるかもしれない」

「あなたはどうなの?」

「俺は無理だ。鍛える部位も目的も、君とは違うからね。スポーツ用の筋肉が付いてもいいというのなら教えられるけど」

 セシルは俺を睨んだまま――サングラスをしているから睨んでいるかどうかは、実は判らない――しばらく黙っていたが、右手でサングラスを外しながら言った。気だるい視線は変わっていないようだ。

「ケニー・セーノ」

「何だって?」

「もう一人の競争者コンテスタント。日系カナダ人のグラフィック・デザイナーだと言っていたわ。私には日系に見えなかったけど」

 教えてくれたということは、一応、俺の情報は彼女の役に立ったということなのかな。まだ確認してもいないのに。

「ほう、それはありがとう。どこで会った?」

「モード博物館。初日に、向こうから声をかけてきたわ」

競争者コンテスタントと名乗って?」

「いいえ」

「じゃあ、なぜその男が競争者コンテスタントだと判った?」

「その後、聖母大聖堂に行ったときに、受付で彼が聖杯カリスのことを熱心に訊いていたからよ」

「なるほど。ついでに、彼の容姿を教えてくれるとありがたいが」

「思い出したくないわ」

 不機嫌そうに表情を歪め、首を振りながらセシルが言った。いかんねえ、ケニーとやらは、よっぽど不快な印象を彼女に残したらしいな。俺もそうだったらとても残念だが、どうか。

「目に知性インテリジェンスが煌めいてなかったんだな」

「思い出させないで。そろそろ走る?」

「一緒に走る必要はないと思ってるけど」

「ええ、もちろん。あなたは一人で走ればいいわ。私はあなたより走るのが遅いし、たぶん先に帰ると思うけど、気にしないで」

「解った。それから、この後の俺の行動を教えておくよ。午前中はプランタン・モレトゥス博物館と肉屋ギルド・ハウスとダイアモンド博物館へ行って、午後は路面電車トラムに乗ってどこまで行けるかを調べる。夕方からモード・ナシーへ行く」

「私は一日、モード・ナシーとその周辺にいるわ。キー・パーソンと一緒にいるけど、見かけても声をかけないで」

「判った。じゃあ最後に、君のフル・ネームと職業を教えてくれ」

「セシル・クローデル」

 セシルがサングラスをかけながら言った。かけても美しさが全く毀損されず、なおかつ彼女だと判ってしまうこのオーラはすごいな。

「職業はモデル。ファッション・モデル」

「ありがとう。じゃあ、よい一日を」

あなたもア・ヴゾースィ

 セシルをその場に置いて、また走り始めた。身体がすっかり冷え切っているが、走っているうちに温まるだろう。

 周回を重ねているうちにセシルに追い付くかと思ったが、30分ほど経っても追い付くことはなく、そのうちに自転車がなくなっていた。そういえば、ステファンから声をかけられたのかどうかを訊くのを忘れていたが、別にいいか。


 ホテルに戻って朝食。ラウンジのビュッフェには、城塞フォートの形のクッキーが置いてあった。一応、好評なのだろうか。一日や二日で人気が判るわけでもないから、今週の間は置いてみるつもりかな。

 今日もデボラの姿は見えない。昨日からずっと見かけないが、オプショナル・ツアーでどこかへ行っているのかも。彼女には世話係が付いているのかな。次に見かけた時にでも訊いてみるか。もう一度会うかどうかは判らないけど。

 さて、セシルに宣言したとおり、今日は風変わりな博物館を回る予定なのだが、開館はいずれも10時からなので、暇があるのは昨日と同じ。そこで、モード・ナシーを少し覗きに行く。もちろん、キー・パーソンズを探すため。万が一、セシルに会ったとしても、きっと無視してくれるだろう。声をかけないで、と言われたからには、向こうもそのつもりのはずだから。

 8時半なので、もしかしたらアカデミーの始業時間帯なのではと思ったが、まさにそのとおりで、若い男女が続々と建物に入って行く。流れに乗って一緒に入り、吹き抜けの階段を登る。朝の光が、内側のガラス窓に乱反射して眩しい。さりげなく周りを観察したが、知っている顔はない。というか、お前ら、俺が混じってても不審に思わないのかよ。

 4階まで行くとさすがに注意されそうなので――生徒ではなく、職員に――3階の踊り場で立ち止まって、上がってくる顔を見る。エレヴェーターに乗っていることもあるだろうから、見逃すかもしれない。と思っていたのだが、スザンヌが来た。だが、声をかけようにも他の奴らが邪魔で近付けない。しかも、微妙な俯き加減で、思い詰めたような表情をしている。頭の中はファッションのデザインのことでいっぱい、という感じ。目の前を通過して階段を登っていき、声をかける機会を失った。

 強引なのはよくないよな、と思っていると、人の流れが切れてきた頃に、画家とその付き添いが上がってくるじゃないか。さて、どうやって声をかけよう……いやいやいや、その後ろにセシルが。サングラスをしていても、さすがにあの美形では解る。まずいな、彼女に二人を取られたか。昨日、王立美術館で知り合いになった? もっとも、キー・パーソンは自分に似合いの者はいるだろうけど、誰が誰のものとはっきり決まってるわけじゃない。だから奪ってもいい……のだが、強引なのはよくないよな。

 気弱なことを考えつつ、他にすることもないので、一つ下の階の図書館へ行って、写真集のような本を何冊か見ながら時間を潰すしかなかった。

 10時になり、プランタン・モレトゥス博物館へ。モード・ナシーから徒歩3分。16世紀の出版業者クリストフ・プランタンの工房を元にした印刷と出版の博物館だ。世界最古の印刷機が置かれていたりするが、ルーベンスが描いたというプランタンやヤン・モレトゥス――プランタンの娘婿で、工房を引き継いだ人物――の肖像画が展示されていた。ここでもルーベンス!

 ルーベンスがヤン・モレトゥスの孫のバルタザールと学友だったからということだが、その他にもルーベンスが本の挿絵を手掛けたり、逆にルーベンスに関する書籍をこの工房で印刷・出版したり、という関係があったらしい。

 これだけルーベンスが出てくるからにはターゲットと何らかの関係があるはずだ、という気がするが、全くつながりが見えない。まさかルーベンスは聖杯のデザインなんか手掛けていないよなあ。図書館にルーベンスに関する資料もあったが、さすがに目を通している暇はないだろう。第一、英語じゃないと読めないって。

 次は肉屋ギルド・ハウスへ。煉瓦造りだが、5層に1層の割合で白い煉瓦が挟まっていて、独特の縞模様を作り出している。16世紀に建てられて、18世紀の終わり頃まで肉屋として使われ、その後、売却されて様々な目的に使われた。20世紀になってアントワープ市が買い上げ、アンティーク博物館として開館。その後、1970年代に古楽器の展示が中心に変わったとのこと。

 ストリート・オルガンの自動演奏のデモンストレーションは面白かったが、ターゲットとの関連性は全く見えなった。

 続いてダイアモンド博物館。市庁舎のすぐ裏手にある。ダイアモンドだけでなく、他の宝石や金細工、特に銀細工の展示が多いのが特徴。様々な贅沢品が、貴族や金持ちの暮らしの様子と一緒に展示されていたり、ダイアモンドの採掘や研磨技術の歴史、商取引のルートなどを動画で説明したり、子供でも判りやすいクイズ・コーナーがあったりする。

 他の展示施設と比べて、比較的新しい技術を使っているようだ。どこかの遺跡で見つかった銀の聖杯が展示されている、というようなことはなかった。ただ、高価なものを展示しているだけに、他の博物館に比べて防犯対策はしっかりしてるだろうなあ。

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