#6:第7日 (3) 王子の庭園にて
しばらくすると、汽車の形をした乗り物がやって来た。ああ、なるほどね。トレドでも“ソコトレン”という似たような乗り物を見たが、あのアランフエス版か。白い“蒸気機関車”を先頭に客車が3両つながっていて、1両に6人乗り。計18人乗り。列に並んでいた客が乗り込んでいく。ドロレスたちも乗るが、席は1列二人掛けなので、男の一人がドロレスの横、もう一人がドロレスの前に座った。
俺が一緒に乗り込むわけにはいかないので、出発するのを待ってから乗り場へ行く。小さな建物はチケット売り場だった。係員に聞くとチキトレンという名前で、王宮の東にある“王子の庭園”を回る乗り物とのこと。週末は30分に1本出ていて、所要時間は50分。そういうところもソコトレンとよく似ている。ドロレスがチケットを買った様子はなかったが、おそらくさっき
ともあれ、追いかけなければならないが、チキトレンはゆっくりと走っているだろうから、走れば追いつくだろう。何しろ自転車よりもゆっくりだから。リーフレットをもらい、ルートを確認する。パラシオ通りを通って、ラウンドアバウトに出て、レイナ通りへ入って、“王子の庭園”の南西の入口から入って、中を反時計回りに一周……
チキトレンの走り去った方へ早足で向かう。“王子の庭園”の入口のところで追い付いた。本当にゆっくりだな。入口から北へ向かう。横にはタホ川が流れている。走っては木立に隠れ、を繰り返しながら、チキトレンを追いかける。
半マイルほど行くと、小さな四角い広場で停まった。木立の向こうに、古い平屋建てが見える。リーフレットを見ると、
チケット売り場があるが、そこに並んでいる客はほとんどいない。たぶん、チキトレンとセットになっているのだろう。ドロレスたちの他には、中年夫婦が1組、若い女の3人組、そして10人くらいの外国人団体客――たぶんフランス人――がいる。それらの人が消えてから、チケットを買って入った。
ドロレスたちは団体客のすぐ前くらいに入ったので、団体客越しに見張ることになるだろう。団体客を追い越すと近付きすぎになってしまう。いっそのこと、出てくるまで外で待つという方法もあるが、中で何かが起こるという可能性もあるので、やはり入った方がいい。
展示室には歴代のスペイン王がタホ川での船遊びに使った小舟、というかゴンドラが置かれている。ベッドのように天蓋が付けられたものがほとんどで、凝った装飾が施されていたり、金箔が貼り巡らされたりしている。一番豪華なのはフェリペ5世の黄金のゴンドラだ。その手のものに興味を持つドロレスは、その凝った装飾をじっくりと観察している。例によって、男たちが話しかけても聞き流している。紐で柵が張られているが、膝に手を突き、前屈みになって見ている。相変わらず形のいい尻をしている。
それにしても、舟の方は贅を極めたという喩えが相応しいような装飾だ。ただし、これにはもちろん必要性があって、他の国と比べてみすぼらしかったら、王家だけでなく国民の自尊心が満たされない。そういう観点から贅沢にしてあるわけだ。もっともそれは王家だからであって、民主主義の為政者がこんな贅沢をしていたら、あっという間に支持を失うだろう。時代によっても評価が異なるというだけだ。
シンプルな装飾の舟はドロレスの興味の対象ではないらしく、立派な舟を二つばかり見て、次のチキトレンが来る時間になったら、男たちと外へ出た。さっき入った全ての客が出たように思う。
チキトレンの客が入れ替わって出発する。その後をまた小走りで追う。チキトレンは方向を変えて東側へ走り出す。いったん川から離れたが、また川沿いへ出て、今度はなかなかのスピードで快走する。俺のランニングの時よりも少し遅いくらいだ。こんなところで走るのなら、朝にレティーロ公園に行かなくてもよかったな、などと余計なことを考える。
チキトレンはまた内陸へと入り、小さな噴水の前で停車した。誰も降りる者はないが、地図で見ると近くに小さな池があるので、その説明でもしているのだろう。しばらくして再び走り出す。
半マイルほど行って、立派な屋敷の前で停まった。リーフレットを見ると、“
もちろん俺も中へ入る。巨大な時計だとか、豪勢なビリヤード・ルームなどがあるが、ドロレスはそういうところにはあまり興味がないようで、すいすいと通り抜けていく。しかしある部屋で立ち止まると、なぜか壁をじっと見始めた。壁紙のデザインが参考になると思ったのか? よく解らない。二人の男も戸惑っているようだ。やがてドロレスが壁を見終わると、男たちが熱心に話しかけた。今度はドロレスも聞いているようだ。そして外へ出ていった。
次のチキトレンがやって来た。客が入れ替わったが、ドロレスたちはなぜか乗らなかった。そしてチキトレンが行った後で、ゆっくりと歩き出す。男たちから、公園の中を少し散策しよう、とでも言われたのだろうか。もちろん、後を追う。
屋敷の正面の道を南へ歩く。そのまま行くと公園の外に出られるのだが、外へは出ず、東へ折れた。そこは公園の南端の道で、ずっと歩くと最初に入ってきた西門まで行ける。一直線の道だけに、隠れて付いていくのが難しい。40ヤードほど間を開けることにする。
時々、落ち葉が舞い落ちてくる道を、二人の男に挟まれながら、ドロレスは歩く。300ヤードほど行くと、少し広い道との交差点に出る。ここにも左手に、外へ出るための門がある。3人が立ち止まる。リーフレットを見ているようだが、右手の方の、噴水のある池にでも行くのだろうか。
突如として男たちが二手に分かれて走り出した。ドロレスがうろたえているのが解るが、どちらも追えずその場にとどまっている。そこへ、公園の外から、あるいは木陰から、人が進み出てきてドロレスを取り囲んだ。女が4人。そのうちの一人はあのグレイの女だ! そして一番手前にいるのは、顔は見えないが、服装からしてアランフエスまで俺の横に座っていた陰気な女じゃないか?
するとあの二人の男は、ドロレスをここへ置き去りにするための囮だったってことか。で、女4人でドロレスを取り囲んで、何をするかというと……まあ、話し合いじゃないだろうな。とにかく、助けに行かないと。5秒以内に襲いかかってくれるなよ。俺は40ヤード走が5秒ぴったりなんだ。
俺の足音に気付いたのか、4人がこちらを見た。手前にいた女が振り返った。ナイフを持っている。物騒だな。陰気な表情と相まって怖い。
「引っ込んでなさい。あんたには関係ないわ」
声も怖い。少し震えてるところとか。ドロレスによほどの恨みでもあるのか。
「そうはいかないな。二人での話し合いならともかく、4対1はよろしくない。どういう事情があるにせよだ」
ようやくドロレスが気付いてこちらを見た。ただし、首だけだが。
「アーティー!?」
「この女さえいなければ、
陰気な女の目が、陶酔に変わったり、憎悪になったりする。他の女も目が怪しい……サングラスをしているグレイの女を除いて。えーっと、君らもしかして、フェデリコの
「それで、彼女をどうしようって?」
「解りきったことよ! この女に誓わせるの、私たちのフェデリコ様にもう二度と近付かないと!」
「どうして私がそんなこと誓わなきゃならないのよ!」
ドロレスが振り返って言った。余計なこと言うなって。陰気な女もドロレスの方へ振り返った。たぶん、狂気の目をしているのだろう。ドロレスがおびえの表情を見せた。ドロレスを横から取り囲んでいた二人が、素早く駆け寄り、両腕を掴んだ。
「
「さあ、誓うのよ! 私たちのフェデリコ様にもう二度と近付かないと!」
ナイフの女がドロレスに歩み寄る。後ろから追いかけて、昨日のナイフ女みたいに羽交い締めにしようとしたが、女が気付いて振り返り、ナイフを持った腕を振り回した。危ないって! 思わず飛び退く。ヘルメットとプロテクターを着けてりゃタックルくらいはできるが、生身では無理だ。俺は
「邪魔しないで! あっちへ行って!」
女がナイフを振り回しながら迫ってきた。思わず飛びしざる。昨日のナイフ女よりかなり危険だな。何か対抗手段は? ポケットに入ってるのは財布とペン・ライトくらい。靴にはピックが入ってるが、今さら取り出せないし、どうせ役に立たないだろうし。ボールでも持ってりゃぶつけてやれたのに。
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