#6:第7日 (4) アスパラガスとイチゴ
「邪魔しないでって言ってるのに!」
女は言いながらナイフをぶんぶん振り回す。いや、俺、さっきから何もしてないって! ナイフを持っただけで逆上してるのかよ。血を見て逆上するってのならまだ解るが。とにかく、正気じゃないんなら怖すぎる。
相手が一歩ずつ迫ってくるので、こちらも少しずつ下がる。フットボールなら、ここで俺が
ナイフというのは斬りつけると身体の動きが大きくなるので隙が多くなる。だが、隙を見てナイフを奪い取るなんてたぶん無理。ちょっとでも斬られた瞬間、こちらの動きが落ちるし、女がさらに切れる。
なので、目的を切り替える。ドロレスたちから10ヤードほど離れたな。女が右手を振り上げた瞬間、左へ行くふりを見せ、女が反応したらリヴァース・ピヴォットして右へ躱す! フットボーラーの動きを舐めるなよ。女の右を走り抜け、ドロレスのところへ突っ走って……
「危ない、逃げろ!」
「
後ろからナイフ女が追っかけてくるのは織り込み済み。それでドロレスの腕を持ってる女どもがひるむはず。そうしたらドロレスは腕を振りほどいて逃げられ……って、悲鳴上げるだけで、誰も動いてないじゃねえかよ! やっぱり女はこういうときに足がすくむのか。
いや、グレイの女だけが逃げた。一番邪魔になると思っていただけに、好都合だ。ドロレスの右にいた女を引きはがし――転ばせてしまった、悪く思うな――、ドロレスの右手首を掴んで走り出す。ドロレスの足がもつれかかる。転ぶなよ、転ぶなよ、絶対に転ぶなよ!
「
ナイフ女らしき声が聞こえたが、待つわけがない。ドロレスが紐つきのフラット・シューズを履いていてよかった。パンプスなら早く走れないので、違う作戦を考えなきゃならないところだった。
「どうしてアーティーがここに!?」
走りながらドロレスが訊いてくる。今考えるべきなのはそういうことじゃないはずなんだけど。
「いいから走れ!」
振り向いて、誰も追いかけてこないのが見えたが――たぶん靴のせいだ――とにかく遠くまで逃げた方がいい。しかし、4分の1マイルほど走ったところでドロレスが「もう走れない!」と
もう一度後ろを確認したが、誰も追ってくる様子がなさそうだ。しかし、いつ気が変わるかもしれないから、油断できない。まだ立ち去ろうとしてないようだし。ドロレスの息が少し落ち着いたら、せかしながら早足で公園の西出口へ向かう。ドロレスが喉を詰まらせながら呟く。
「ああ、びっくりした……」
「あいつらに見覚えは?」
ドロレスが頭を捻る。ほんとに考えてるのかな。
「……ないわ。誰も」
「グレイのコートの女もか」
「全然知らない」
「しかし、4人とも君の顔を知ってたみたいだぞ」
「でも、私は知らないの!」
確かに、こういうときは相手から一方的に知られてるってこともあるだろうけどな。写真とかで。
「フェデリコってのはそんなに人気があるのか」
「あると思うわよ。手紙はいっぱいもらってるみたいだし、プレゼントも……」
「ああいう熱狂的な女も多いのか」
「知らない」
「今までに同じようにして脅されたことは?」
「……店の前で待ち伏せて、文句言ってきたのが何人か」
いるのか、やっぱり。何人かと言うが、忘れてるだけで、実はもっと多いんじゃないのか。ようやく西出口に着いた。
「ところで、アーティーはどうしてここにいるの?」
ついさっき危ない目に遭ったのに、もう忘れたかのような平気な顔で訊いてくる。強靱な精神力だな。まあ、一応言い訳は用意してきたんだけどね。
「昨日2回、襲われたのは憶えてるな?」
「ええ」
「君は知らないだろうが、夜中に君の部屋に忍び込もうとした奴がいたらしい。俺がチェック・アウトするときにホテルのスタッフが教えてくれた」
「…………」
「それで気になって、アランフエスへ来てみた。朝は見失ったが、王宮やこの庭園を探しているうちに、幸運にも君を見つけた。この町は狭くてよかったな。それだけだ」
「……本当に?」
言い訳が苦しいのは解ってるよ。でも君、細かいことを気にしない性格のはずなんだから、こういうときもさらっと受け流してくれるとありがたいんだがな。
「とにかく、危ないからもうトレドに帰った方がいいんじゃないかと思うが」
「でも、まだ昼食摂ってないし。店を予約してあるのよ」
こんな時でも食欲を優先するのか。剛胆だなあ。
「昼食摂ったら帰るのか?」
「いいえ、トレド行きのバスが4時過ぎにしかないの。それより早く帰るのなら、マドリッド経由になるし」
「じゃあ、昼食へ行ってきな」
「せっかくだから、アーティーも一緒に行く? 二人で予約したのを、まだ一人に変えてないのよ」
他の男が一緒にいたら、そいつを誘ったに違いない、という気がする。そしてそいつに支払わせるのだろう。いつもの、奢ってもらうときの笑顔を見せている。まあ、どうせこの後も付いておいてやらないと、また危ない目に遭いそうな気がするし、一緒に行くことにする。
庭園を出て、王宮の東門のすぐ近くにあるエル・ラナ・ベルデへ行った。アランフエスでは有名なレストランであるらしい。入ると窓際のいい席に案内された。タホ川が見える。ウェイターが飲み物のメニューしか持って来ない。料理は予約した時に頼んであるのだろう。ワインかミネラル・ウォーターかビールか炭酸水。ドロレスがワインを頼む。また今日も昼から飲むのか。
前菜はアスパラガスと海老のサラダ。アスパラガスはアランフエスの名物らしい。他にはイチゴも名物で、これはデザートに出てくるとのこと。
「本当に心当たりはないんだな?」
「何の話? ああ、さっきの4人のこと? うーん、思い出そうにも、私が最近会ったことある女性って、店の仲間と、バルのウェイトレスと、後はバレリアとアナベルくらいだわ。店番をしてるときに女性のお客は何人も来るけど、憶えてられないし」
「TVや雑誌のインタヴュアーが来たんじゃないのか」
「女性の
「男が多い世界で女が働いてたら、女の記者が興味を持って訊きに来そうなものだが」
「バレリアのところへはたくさん来たのよ。トレドでは彼女が最初の
「二人目以降は人気がなくなるのかな」
「さあ、そうじゃないの? アナベルのところに来たのも聞いたことがないし」
「取材の申し込みがあっても、あそこの親方が受けないんじゃないのか」
「ああ、それはそうかもね。女性だからどうした、その見方は間違ってる、って言いそうだもん。でも、そういうのでも話題にした方がダマスキナードの振興にはいいと思うけど」
魚料理は
「さっきの直前に、男が二人いたが、あれも知らないのか」
「ああ、チキトレンを待ってるときに話しかけてきたのよ。バレンシアから遊びに来て、昨日はトレドへ行ったって言ってたわ。私がトレドのダマスキナード職人をしてるって言ったら、話を聞かせてくれって言われて。でも、チキトレンに乗ってる間だけで、博物館や農夫の家では話しかけないでって言っておいたの」
「農夫の家から歩いて行こうと誘われたのか」
「ええ、チキトレンに乗ってる途中で案内のあった、噴水を見に行こうって。私も、昼食にはちょっと遅れてもいいかと思ったから、行くことにしたの。でも、どうして彼らは急に走って行っちゃったのかしら」
囮だったということにも気付いてないのか。言っても信じないかもしれないな。
「怪しい女たちがいたのに気付いたんだろうよ」
「言ってくれれば私も逃げたのに」
どうかなあ。「何のこと?」とか言いながら立ち止まったままでいたんじゃないかと思うけど。
肉料理は子羊の腿肉の炙り。もちろん、赤ワインが出てくる。俺はさりげなく周りを注意しているが、ドロレスは機嫌よく飲み食いするばかりだ。またあの、グレイの女がどこかで見張っていそうな気がするのに。
「この後はどうするんだ。バスの出発までまだ時間があるが」
「そうね、
「こんな小さな町にも闘牛場があるのか」
「スペインに現存する最も古い闘牛場として有名よ。でも、今日はたぶん閉まってると思うけど」
闘牛の開催期間でもそれほど人は集まらないが、5月30日のサン・フェルナンド祭の日だけは大賑わいするらしい。どうしてそんなこと知ってるんだ。
「アランフエスには知り合いが何人かいるのよ」
「学校の時の同級生? それとも……」
「色々ね。同級生もいるし、作業体験に来て、その後、何度か遊びに来てくれた人もいるし」
「もしかして、今日も何人か会ったんじゃないのか」
「ああ、一人だけね。列車を降りたところで話しかけられたけど、その時、別の男の人と一緒にいたから面倒なことになって、二人とも置いて来ちゃった」
自由に行動してるなあ。彼女に関わる男は大変だ。いや、俺もそうなんだが。
デザートが出てきた。イチゴのクリーム添え。この季節に生のはずはないと思っていたら、やっぱり冷凍だった。シャーベット感覚で食べる。最後はコーヒー。勘定はもちろん俺が払う。この1週間、彼女のためにどれくらいの食事代を使ったのかな。
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