#6:第1日 (3) 小柄な職人

 エル・グレコ美術館へ行く。トレドでグレコが過ごした家を改装したとのことだが、残念ながら休館日だった。道の反対側からやって来た女二人組が、何か呟いている。英語でもスペイン語でもないようなので聞き取れない。だがたぶん、休館なんて残念だわとかそんなことを言ったのだろう。俺みたいに突然ここにやって来たのならともかく、そっちは観光で計画的に来てるんだろうから、あらかじめ休館日くらい調べてくればいいのに。

 仕方ないので次へ行くことにするが、ここは川縁に近いはずなので、近くの公園へ川を見に行く。公園といっても子供の遊具があるようなところなのだが、一応観光客も来ている。柵のところに立って眺めると、川はかなり下の方を流れている。まるで峡谷のようだ。落ちたら上がってこられないんじゃないかと思うくらいの険しい崖になっている。

 川の向こうにもぽつぽつと民家が見えているが、あちらには行けるんだろうか。もしかしたら、この川が可動範囲の境になっているかもしれない。ところでこの川の名前は"RIO TAJO"。"j"は"h"の発音になるから、リオ・タホ、つまりタホ川だ。カリフォルニアのスコー・ヴァレーの近くにタホ湖というのがあるが、同じ語源かどうかは判らない。綴りが違っている気もするが、忘れた。さて、次はサンタ・マリア・ラ・ブランカ教会に行くが、その前によさそうなカフェがあれば寄っていくことにしよう。

 かなり高級そうなホテルで宿泊を丁寧に断られてから、その隣のレストランでコーヒーを飲み、サンタ・マリア・ラ・ブランカ教会に着いた。ここは大聖堂でも見た“白いマリア”が名前の由来になっている。この辺りはユダヤ人街で、ここも元はシナゴーグだったのだが、15世紀にキリスト教会に変えられたとのこと。白く塗られたアーチや、それを支える柱の飾りの形が独特だ。

 ところで、この辺りは観光客が少ない。ソコドベール広場から一番遠い西の端だからかもしれないが、半マイルと少ししかないのに人が来なくなるのか。団体客は東の方の有名なところしか行かないからかな。もっとも、団体客にこんなところで自由行動を取らせたら、迷子が続出するだろうな、とは思う。

 次はサン・フアン・デ・ロス・レージェス修道院。正面は北側にあるのだが、東側のレージェス・カトリコス通りに面した裏口のようなところから入る。カスティーリャの王フェルナンド2世と女王イサベルの命で建てられたそうだ。入るとすぐに修道院の回廊に出る。1階と2階の様式が違うらしいが、違うということ以外は何も判らない。燭台のような形の飾りが柱に施されている。礼拝堂の方は白を基調としたイサベル様式。カスティーリャ王が関連している建物だから少し期待したが、剣に関係があるものは何もなかった。

 さて、これで市街を半周したわけだが、近くにサン・マルティン橋がある。これを渡るとタホ川の対岸へ行けるのだが、可動範囲の確認のために行ってみようと思う。

 家の間の路地にしか見えない細い道を通り抜け、石畳の坂を下る。途中から川の近くに出るが、対岸は見えているのに川は見えない。それだけ川面が崖の下に落ち込んでいるということだ。

 壁から張り出したように建つ小さな門を通り抜けるとサン・マルティン橋。3本の橋脚に支えられた石造りのアーチ橋で、橋脚の上だけが少し広くなっていて、そこから観光客が川面を見下ろしている。さて、何本目まで行けるか。

 1本目、2本目はこちらの川岸に建っているので余裕で行けた。次の3本目との間が怪しい。“壁”にぶつかったら困るので、川を眺めているふりをしながらゆっくりと歩く。ちょうど中間辺りに来たが、“壁”の気配はない。思い切って普通のペースで歩いてみたが、3本目どころか対岸の門まで通り抜けることができた。あっけない。意外に可動範囲が広いのだろうか。

 だが、どこまでが可動範囲かをこのまま調べ続けていると日が暮れてしまう。先に旧市街地の中の探索を済ませることにする。

 橋を戻り、学校の横を通ってカンブロン門へ。最初に見たビサグラ新門に比べるとかなり地味な造りだが、真ん中に天井のない小さな空間がある。これくらい狭くても中庭パティオというのかどうか。いったん外へ出て門を眺める。例のトレドの紋章が掘られていたり、その下にバルコニーがあるのが見えたりするが、あのバルコニーにはどうやって入るのだろうと思う。

 中に戻って東へ向かい、小さなホテルを巡って連敗記録を更新しながら、サント・ドミンゴ・エル・アンティグオ修道院を目指す。トレドで一番古い修道院で、エル・グレコの墓所だそうだが、開いていなくて入れなかった。

 最後にクリスト・デ・ラ・ルス聖堂へ行こうと思うが、この辺りでまた工房か土産物屋にも入ろうと思う。キー・パーソンを探すためでもあるが、さっきから――いつからかはよく判らないのだが――誰かに跡をけられている気がするので、それを確かめたいというのもある。

 なるべく遠回りに歩きながら、古ぼけた小さな土産物屋に入ってみた。人目を惹くようなディスプレイもなく、店の奥にダマスキナードがちらりと見えただけだで、普通の観光客なら見逃してしまいそうな店だ。あるいは土産物屋ではなく単なる工房かもしれない。年季が入った感じの痩せた老職人が店の片隅で作業していた。入ってきた俺をちらりと見たが、声をかけるでもなく、また作業を続けている。

 周りの棚にダマスキナードが並べられているが、さほどの数はない。やはり工房だったか。しかし、勝手に入って来ているのに文句も言われないのはどういうことだろうか。勝手に見ていいと解釈するので遠慮なく周りを眺めるが、店の奥の死角になったようなスペースにもう一人職人がいた。小柄な職人……子供?

 いや、この仮想世界で作業服姿の子供を見かけたときは、それは女じゃないかと疑ってみる必要があるというのを以前学習したのだが、それに従ってもう一度よく見てみると、やっぱり女だった。

 可愛らしい顔立ちをしている。若いな、17歳か18歳くらい? 背は低そうだし、華奢な体つきで、胸も……いや、そんなところを見る必要はないのだが、まあ、力はそれほど必要のない仕事だから、彼女のような小柄な女性でもできるだろうとは思う。

 そして、その彼女を後ろから見つめている一人の男。スーツを着ているのでこの工房の職人ではないと思うが、買い付けの商人か? いや、こんなところにいる正体不明の男なんて、競争者コンテスタントである可能性の方が高いじゃないか。とりあえず男の方も観察してみよう。

 ゲルマン系の顔立ちで、身体はがっしりしていて、俺より背が高い。6フィート6インチくらいか。彼女とは1フィート半くらい違いそうだ。そのうちに、向こうも俺の方をちらりと見る。俺は目を逸らし、老職人の方へ戻る。愛想は悪そうだが、話しかけてみることする。

「ここは工房?」

「ああ」

 老職人は手を止めて振り返り、眼鏡の奥から鋭い目つきで俺のことを睨みながら言った。

工房タリェルだ」

「品物は売ってくれないのか?」

「欲しけりゃ売ってやるが、こっちの棚のはダメだ。注文品だからな。そっちの棚ので買いたい物があれば言いな」

 乱暴な物言いだが、不親切ではない。ただ、少し不機嫌に見える。ずっと昔ながらのやり方でやって来た職人が、現代は作るだけではダメだということを悟ってしまったがための諦めの境地みたいなものか。

 とりあえず、買ってもいいと言われた棚の方を見る。素人目に見ても繊細で職人芸の光る作品が多い。が、中にいくつか仕上げの幾分雑なものがあるように思う。何だ、これは。ほぼ同じ絵柄の作品が近くにあるが、細部を比べると違いがよく判る。単純に考えると、出来の悪い作品の方が奥の小柄な職人が作ったものであるという気がするが、いかがであるか。それを老職人に直接確かめるのも何なので、少し策略を使うことにする。

「値段はどこかに書いてある?」

「持ってくりゃあ付けてやるよ」

「じゃあ、これは?」

 使う予定は特にないが、女物のブローチを選んで老職人に見せる。これはたぶん、彼の作品だろう。

10ディエス

 老職人はちらりと見ただけで無造作にそう言ったが、自分が作った物の価値は全部憶えているということだろう。そこで、今見せたものと、同じ模様で出来が今一つのものと、二つを一緒に老職人のところへ持って行き、20ユーロを差し出した。ただし、10ユーロ紙幣1枚、5ユーロ紙幣1枚、2ユーロ硬貨2枚、1ユーロ硬貨1枚という組み合わせだ。つまり、釣り銭を出しやすくしたのだが……果たして老職人は黙って3ユーロを返してきた。理由は言うまでもないだろうという顔をしている。

 出来の悪い方が7ユーロねえ、もう少しいい値段を付けてやってもいいと思うが。そこで、黙って1ユーロを差し出す。老人は黙って首を横に振る。こんなものは7割の出来映えでしかない、お前も解っとらんな、という感じだ。俺の方も黙って1ユーロをポケットへ戻す。無言で解り合えるというのはいいものだ。が、訊かなければ判らないこともある。

「例えばここでは……」

 老職人はまた作業に戻りかけたが、俺が話しかけたので首だけをこちらに向けてきた。

「作業体験のようなことはやってないのか?」

「やっておるよ。月に1回だがな」

 そう言ってまた作業台の方を向いた。そしてそのままの姿勢で言葉を続ける。

「今月は次の金曜日だ」

「予約制か?」

「ああ」

「まだ空いてるか?」

「既に一人超過しとるよ」

 なるほど。たぶん、そこに立って小柄な職人を熱心に眺めている男が無理矢理申し込んだのだろう。さすがにそううまくはいかないか。

「だが、どうしてもと言うなら、もう一人くらい多くても別に構わん」

 老職人が独り言のように呟いた。おやおや、さっきの無言の会話が効いたかな。それとも、キャンセルがあるのを見越してのことか。

「それはありがたいな」

「11時からだ」

 それだけ言うと老職人は作業に戻った。もう話しかけるなというようにも見える。後ろの男はまだ熱心に小柄な職人を見つめ続けている。黙って工房を出た。

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