#5:第5日 (6) コンテスタントの候補者

 ミッチェル氏はその後、出版社の重役の無茶なエピソードについてノーラに語り始めた。アンディーとレスリーについて、聞くべきことを聞いてしまったと思ったのだろう。俺もそう思う。さて、ミッチェル氏の横で黙って彼が話すのを聞いている夫人に声をかけてみようか。

「失礼、トーク・ショーの時に聞いたんだが、この汽船シップがずいぶんと気に入られたそうで……」

「え……ああ、はい、とても素晴らしい設備ですので……」

 ミッチェル夫人は俺に話しかけられてぎくりとした様子だったが、例のおどおどした口調で答えてくれた。

「いい部屋なんでしょうな、スイート船室?」

 知っているのだが、話の接ぎ穂として尋ねる。

「いえ、ホワイトホール・デラックスです。このフロアの一番前の……」

「ああ、右舷のデラックス・ルーム。そういえば隣のナイツブリッジ・スイートにオペラ歌手のマルーシャが泊まってるらしいが、ご存じで?」

「ああ! あのとてもお綺麗な姉妹のお客様ですね。ええ、食事の時に少しお話を……ウクライナのご出身で、オペラ歌手とピアニストだそうですね」

「火曜日にラウンジで歌を披露してましたが、聞きましたか」

「いいえ、私、その日はあまり体調が優れなくて、早くやすんでしまいましたので……でも、後で他の方に伺ったら、とても素敵な歌だったらしいですわね。拝聴できなくてとても残念ですわ。ミス・マルーシャにもそう言おうと思っていたんですけど、あの次の日からまだ一度もお会いしていなくて……」

 食事にも出てこないということだろうか。全部部屋に運ばせているのかな。まあ、あれだけたくさん食うのなら、そうした方が遠慮なく食えると思うが。

「オペラに興味がおありで?」

「ええ、私の小説には芸術の世界で活躍する女性を出すことが多いので」

「隣の部屋なんだから、訪問してインタヴューするとか」

「まあ! 無理ですわ、私にはそんな大胆なこと……」

 隣の部屋の呼び鈴ベルを鳴らすのがそんなに大胆な行為かねえ。気の弱い奥さんだ。有名人が有名人を訪問するのに、何の気兼ねがいるんだか。

「でも、お二人とも私のことをご存じでいらして、私の作品の……」

「やあ、これは珍しい、メアリーが男性と二人きりで話をしているとは! アーティーは淑女の扱い方をよく心得ているようですな、さすがに騎士ナイトだ」

 夫人が何か言いかけたところに、ミッチェル氏が割り込んできた。何かまずいことを言おうとしたのだろうか。そこへ船長キャプテンが来て、ウィリアムソン氏がミッチェル夫妻と話をしたがっていると言った。「失礼しますよ、何しろ彼も僕のスポンサーの一人だから」と言ってミッチェル夫妻が去って行く。代わりに船長キャプテンが話しかけてくる。

「ナイトさん、楽しんでおられますかな」

「ああ、有名人と話をするのは楽しいけど、こっちは無名だから肩身が狭いな」

「ははは、ご謙遜ですな。私は船員クルーから聞いたんですが、ナイトさんは何年か前にオレンジ・ボウルで奇跡的な大逆転を演じたマイアミ大のQBだそうで、あなたも有名人のお一人でしょう」

 まずいな、船長キャプテンにまで知られてたのか。

「一部の物好きが知ってるだけじゃないかなあ」

「そうでもありませんよ。例えば、ほら、そこのフォルティーニ教授もあなたのことをご存じだと伺いました。“マジカル・カムバック”を演じたQBを相手に、マジックで挑戦してみたが、タネトリックを見破られるんじゃないかとひやひやした、何しろQBというのは目がいいらしいから、とおっしゃってましたよ」

 フォルティーニ氏が? 待て待て待て、そうすると、彼はあのマジックの夜以前に、俺の素性を知っていたことになる。もしかして、彼も俺のことを競争者コンテスタントだと思って警戒していたのか? それにミッチェル氏だって、ここで会って初めて俺のことを思い出したような素振りだったが、実はもっと前から気付いていたのでは? 要するに、俺が他の競争者コンテスタンツが誰かの見当を付ける前に、他の連中は俺のことに気付いていて……

「アーティーって、そんなに有名だったのね。ごめんなさい、私、全然知らなくて……」

 ノーラが申し訳なさそうな口調で言う。その割に、視線は尊敬に満ちている。とんでもない勘違いなんだがなあ。

「なに、昔の業績なんて大した意味はないさ。問題は今何をやってるかだ」

 しかも今は仮想世界に閉じ込められた泥棒だぜ。こんなこと、ノーラには絶対に知られたくないね。たとえ相手が仮想人格であってもな。

「ノーラもこっちに来て話をしましょうよ。レスリーもあなたと話したがってるわ」

 ちょうどその時、リリーが呼びに来た。よかった、助かった。仮想世界のシナリオのおかげで、いいタイミングで話が転換してくれる。

「あら、そうなの、解ったわ。じゃあ……」

 ノーラがそう言いながら俺の目を見る。いや、一緒に行くけどね。船長キャプテンに断りを入れてからレスリーたちのところへ行く。立ち話が長すぎて疲れたのか、みんな椅子を持ってきてテーブルの周りに座り込んでいる。どうやらヴィヴィが中心になってアンディーを質問責めにしているらしい。ようやく話を聞く機会が巡ってきたか。いや待てよ、どうしてベスがいないんだ? 彼女が持っていたらしいシャンパン・グラスが、テーブルの片隅に取り残されている。洗面所にでも行ったのだろうか。

「じゃあ、次の質問。レスリーの料理の腕前は?」

「ああ、とても上手ですよ。一度、母と妹と一緒に招待してもらったときに食べさせてもらったんですが、二人とも褒めていました。今は、イングランドの料理を憶えてもらってるんです」

「例えば?」

「ミート・パイやシェパーズ・パイ、それにロースト・ビーフにつける色々なソースとか。あとはティー・タイム用のお菓子も。ヨークシャー・プディングとかスコーンとかマフィンとか」

「あら、美味しそう!」

 うん、ヴィヴィの感想ってのはいつもそういう感じだよな。それにしても、ベスのことは気になる。さっき、ノーラの話を聞きながら妙な推理を組み立ててしまったせいかもしれない。まあ、そもそもあの推理は外れているんじゃないかなあという気がする。もし、あれが正しいとして、俺がベスの立場なら、ただで招待されたってこんな汽船シップには乗らない。自分の元恋人が、これから幸せになろうとする姿を冷静に見届けるなんて、できそうにない。しかし……

 シャンパン・グラスを手近なテーブルに置くと、洗面所へ行くかのような素振りを見せながらダイニングを出た。左舷のデッキへ出てみる。夜風だが、暖かい。人の姿はない。そのまま後ろへ向かって歩く。開放甲板に出た。夜空を見上げると、半分になった月が中空に浮いていて、デッキをほの明るく照らしている。一番後ろには、見張りの航海士が一人で立っているだけだった。

 引き返して、リヴィエラ・デッキへ続く階段を上がる。二人組ペアが2組、それぞれデッキの端の方に立って月を眺めている。サン・デッキへ上がる。銀色のドレスの女が一人、デッキの後ろの柵にもたれて、月光に照らされている。寂しげで、しかし美しい。

「アーティーね」

 まるで俺が来ることを知っていたかのような口ぶりだった。だが、その歌うような声の響きも、いつもとは違っていた。

「ここで何を?」

「シャンパンを飲み過ぎたから、酔い覚まし」

 1ヤードほど間をおいて、俺も柵にもたれる。ベスはずっと後ろを見たままだ。

「そんなに飲んでいたようには見えなかった」

「私のこと見ていてくれたのね、嬉しいわ」

 嬉しい? 俺に見られると嬉しいのか?

「君には注目していたんだ」

「ありがとう。でも、あなたにはノーラがお似合いだと思うわ」

「君にはドクター・バーキンがいるから?」

「あら、彼はダメよ」

 そう言ってくすくすと笑う声が聞こえた。

「どうして?」

「だって、嘘つきだもの」

「嘘つき?」

 俺は聞き返したが、ベスはすぐには答えなかった。彼が嘘つきであることを見抜けなかったのか、と試されているようにも思える。

「彼、最初に私とリリーに話しかけてきたときに言ったわ、スタンフォード大学のメディカル・スクールを卒業したって」

「うん」

 それは俺も聞いた。ただ、それにしては話し方が軽くて内容も薄い、と思っただけだったが。

「それで、私はこう訊いてみたの。『あら、そうなの。じゃあ、ライサンダー・スタール博士をご存じ? 私の大叔父で、1970年まで学部長を務めていたのよ』」

「そうしたら彼はこう言った。『もちろん知ってますよ。スタール博士の名前は今も語り継がれています』」

 ベスの微かな笑い声が聞こえただけだった。シャーロック・ホームズのエピソードに出て来る、相手の嘘を見抜いた会話のちょっとしたパロディーだ。彼女には探偵の素質があるらしい。

「それなのに、君は彼と一緒に観光していたじゃないか」

「だって、そうしないと他の人が騙されることになるわ」

 頭をがつんと殴られた気がした。まさか、これがベスの本質……自分の好きなように振る舞っているふりをしながら、常に相手のことを考え、先回りし、相手の気持ちを傷つけないように行動する。誰もが認める美貌と共に、自己を抑える美徳まで兼ね備えた淑女……

 もしかしたら、必要以上にドクターと仲良くしていたのは、彼をリリーから遠ざけたかったからではないか。彼がリリーを狙っているのを判っていて、それを阻止したかったのではないか。

「君のファミリー・ネームは、もしかしてホームズ?」

「いいえ、クイーンよ」

 エラリー・クイーンの“クイーン”、エリザベス女王――ベスはエリザベスのニックネームだ――の“クイーン”、そしておそらくはそうなりたかったクイーン・ビーの“クイーン”を掛けているのだろう。知性とユーモアまで持ち合わせている。

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