ステージ#4:第4日

#4:第4日 (1) 湖一周の旅へ

  第4日-2039年6月9日(木)


 5時半に起きた。早めに寝たので眠くはない。だが、夜中のうちに階下の足音を何度か聞いたような気がする。ハーレイ氏が外に出て行ったのかもしれないし、夢だったのかもしれない。下のバス・ルームで顔を洗って部屋へ戻り、身支度を済ませると、階段をこっそり上がってくる足音がする。なぜ忍び足なのかはよく判らないが、マリーに違いない。ドアを開けて廊下を覗くと、マリーが笑顔でやってくるのが見えた。頭には寝癖が付いている。

おはようグーテン・モルゲン、アーティー。ブロートビュクセ持ってきたよ」

 マリーが囁くような声で言い、小さなバッグを差し出した。俺がいつも手ぶらで出て行くことを知っているので、バッグまで用意してくれたのだろう。おそらく手製と思われる、赤い布製のバッグだ。マリーが学校に行く時に使っていたものと察せられる。つまり女物なのだが。

おはようグッド・モーニング、マリー。ありがとう。ところでどうして囁き声なんだ?」

「ドクトルが今日は8時に出るって言ってたらしいの。だから、まだ寝てるかもしれないって思って」

 ハーレイ氏は今日はイーデルシュタインへ行く。そこへ行くバスは頻繁に走っているので、朝が多少遅くても問題ない。俺は今日はザンクト・マルティンとモントフォールへ行くのだが、朝一番の船が都合がいいのだ。明日は俺とハーレイ氏の行き先は逆になる予定だ。

「アーティー、もう出掛ける?」

「ああ、ついでだからそうしようか」

「じゃあ、錠を開けてあげる」

 マリーの後について階段を降り、ドアの錠を開けてもらって外に出る。おそらく、この後錠を掛け直すのだろう。女に見送ってもらいながら出掛けるというのは悪い気分ではない。

「アーティーが帰ってくる頃には錠を掛けてるかもしれないから、もしそうなってたらノッカーで知らせてね。それじゃあ、よい一日をシェーネン・ターク!」

 マリーと挨拶を交わし、港へ向かう。急ぐ必要はなくて、今から行けばちょうどいい時間に着くはずだ。乗る便は昨日より3時間早い、6時35分の出発だ。周回便は日に5便出ているから、1便目に乗ってザンクト・マルティンへ行き、そこで調査をした後、3便目に乗ってモントフォールへ行き、また調査をして最終の5便目に乗れば帰ってくることができる。最終便はホーエンブルク止まりだが、ウーファーブルクへの最終バスに乗り継ぐことができる。それぞれの町での滞在は6時間ずつ。ただし、どちらもあまり見所はないので、6時間もあると持て余すかもしれないが、3時間だと慌ただしくなりそうだから仕方ない。

 港に着いて、チケット売り場で一周便のチケットを買う。ほどなく船がやって来た。ルドルフ少年を探す。いた。船を係留する手伝いをしている。余計なことかもしれないが、また声をかける。

おはようモーニン、ルドルフ」

おはようございますグーテン・モルゲンお客様マイン・ヘル

 昨日声をかけただけに、今朝はさすがに知らないふりはされなかった。それだけでなく、客に対する言葉遣いになっている。もしかしたら昨日の会話を誰かが聞いていて、注意されたのかもしれない。ただし、笑顔ではなかった。

「マリーに、君が怪我のことを心配していると言ったら、喜んでたぞ」

 もちろんマリーは喜びを言葉で表したわけではなかったが、態度で判った。しかし、俺はどうしてこんな余計なことをしてるんだろうな。

「……そうなんですか? でも、僕は彼女の怪我の心配なんかしてませんよ」

 そんな動揺した目付きで言われても、全く信じられない。まあ、そうやって格好を付けたがる気持ちも解らないではない。というか、男はそうあるべきだな。

「そうか。まあ、そのうち彼女と会うこともあるだろうから、その時は仲良くしてやってくれ」

「いや、だから、僕は……」

 何か言おうとするルドルフ少年をその場に残して、船に乗り込んだ。さすがに朝一番だけあって、客は少ない。すぐに出発し、15分でラエティアに着く。その間にマリーからもらったブロートビュクセ――英訳するとブレッド・ボックスだな――を開けてサンドウィッチを平らげる。飲み物がないので、上のデッキのレストランへ行ってコーヒーを飲む。

 ラエティアで10分停泊し、そこから30分でザンクト・マルティンに着いた。まだ7時半だ。俺以外に降りたのは十数人。たぶん全員観光客だろう。船着き場の辺りでは特に“壁”の感じはしない。どうやらラエティアとは違って行き先は限定されていないらしい。まずは南へ行って“壁”を探し、そこから時計回りに町を巡ることにする。もっとも、まずは南か北へ行かないと街中にも出られない。港と街の間に駅があるのだが、港の側からは出入りできず、南北どちらかへ4分の1マイルほど歩いて踏切を渡らなければならないのだ。

 それで南へ半マイル歩く。細い川があって、短い橋が架かっているのだが、予想どおりその橋は渡れなかった。少し北へ戻り、踏切を渡って、ハーフナー通りシュトラーセを川沿いに西へ歩く。4分の1マイルほどでアルボナー通りシュトラーセという広い道に出たが、これは渡れなかった。オックスフォードでも思ったのだが、道路のセンター・ラインに“壁”を建てるのはやめてほしい。渡ろうとしたのに引き返さねばならないのは決まりが悪いし、第一、片方の車線しか通れないようにしたら車で移動するのが不便だろう。

 アルボナー通りシュトラーセを北北西へ歩く。4分の3マイルほど行って、駅から真西へ延びているバーンホフ通りシュトラーセと交差すると、アルボナー通りシュトラーセは北北東へ進路を変える。ここで念のためにバーンホフ通りシュトラーセを西へ行けないことを確かめる。

 またアルボナー通りシュトラーセを半マイルほど行くと、道は左へ直角に曲がっていくが、俺の方はそれに沿っては行けなくなった。仕方なく“壁”を探ると、北東へ向かうオプストガルテン通りシュトラーセへ入れたので、そちらへ行く。線路を渡ったところで湖に突き当たった。湖岸に沿って南東へ歩くと、小さな岬まで来て、湖岸線は南へ折れた。このまま行くと、元の港へ戻るはずだ。

 つまり、可動範囲は平べったく押しつぶした五角形を、横倒しにしたような形だ。そしてその周囲は3マイル半ほどしかない。かなり狭い。しかし、広ければ広いで調査はそれだけ面倒になるから、狭い方がいいだろう。大事なところを見逃すこともない。駅前に戻り、駅へ入れないことを確かめてから、観光地の調査に移る。

 この町の見所は男女二つの修道院と織物博物館。男子修道院は町の名前の由来にもなった聖マルティンが8世紀に創設したもので、大聖堂や図書館、ワイナリーや薬草園などを併設している。これが五角形のちょうど真ん中辺りにある。織物博物館もその近くにあるが、元はといえば修道院の副業として発展し、繊維産業が盛んになったということだそうだ。そして可動範囲の南の端には、ずっと後になって建てられた女子修道院がある。他には東南の端に鉄道博物館と自動車博物館があるのだが、これはターゲットにはたぶん関係ない。時間が余れば見る。

 まずは男子修道院へ行く。バーンホフ通りシュトラーセを西へ半マイル歩き、そこから少し北へ入ったところの一角で、町並みがそこだけ古い建築様式になっている。リーフレットに依ればバロック様式。オックスフォードを思い出す。修道院だけあって朝早くから開いているが、もちろん修道士たちがいる領域には入れない。その他の施設は全て見学できる。修道院の母体ができたのは7世紀で、8世紀に学校が作られ、それが図書館の元になったとのこと。世界遺産に認定されているそうだ。

 まず、大聖堂。こんな小さい街なのに、ホーエンブルクの大聖堂よりもこちらの方が大きい。ヨーロッパというのはある程度の規模の町へ行くと、たいがい大聖堂がある。みんな信心深くていいことだ。建造は18世紀で、時計塔が2本あるのが特徴。内部の天井画も有名とのことだが、中に入ると柱が青白いのに対し、天井画は暗いトーンだ。その対比が素晴らしい、とリーフレットに書いてあるのだが、暗い絵は見づらいのでやはり明るくして欲しかった。聖マルティンの伝説や旧約聖書を題材になっているらしいが、何の場面かも判りにくい。柱や壁の細工も豪華で素晴らしいのだが、王女に関係がありそうなものはなさそうだし、彫刻がネックレスをしているということもなかった。

 図書館とワイナリーはツアーを申し込む必要がある。9時からというちょうどいい時間のものがあったのでしばらく待つ。その間に他の観光客を観察する。いずれも二人組か3人組に見える。なぜか若い女が多い。もっとも、無名美人のように他の客を誘ってやってくるという手も考えられるから、そういう手合いを見抜けないかと思って観察するのだが、難しい。しかし、ツアーに出発する直前、最後に入ってきた一人が、昨日ラエティアの旧市街で見た女のような気がする。髪をアップにしていて、違う形のサングラスをしているが、顔の形やプロポーションはよく似ている。もう一度会ったら声をかけようと思っていたのだが、ツアーの最中に話しかけると邪魔になりそうなので、終わった後にするか。

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