#4:第3日 (5) 水槽の脳
「やあ、今着いたところですか? ちょうどよかったですね。ここのバスはほとんど遅れないから優秀だ」
相変わらず爽やかな笑顔だ。カフェは昨日と同じ席が空いていたので、二人で座ってウェイトレスを呼び、コーヒーを注文する。ハーレイ氏は小さな紙製の鞄を持っている。どこかの宝石店で買い物をしてきたのだろう。宝石の鑑別法を習ったかどうかは判らない。彼は
「どうでしたか、今日は」
海の方をぼんやり見ながら黙っていると、ハーレイ氏が聞いてきた。先ほど乗ってきた船が出航していくのが見える。
「可動範囲が狭くて時間が余って困ったな」
俺が言うとハーレイ氏は苦笑した。彼が昨日同じ感想を持ったかどうかまでは判らない。ウェイトレスが来て、テーブルにコーヒーを二つ置いていった。若い娘だ。マリーと同じくらいの歳だろう。この町の子供はみんな18歳くらいから働いているのかもしれない。大学には行かない方が多いのだろうか。ラエティアには大学があるというようなことがリーフレット書いてあったと思うが、行くのはよほど優秀か金持ちの生まれか。
「一つ訊いてみたいことがあるんだが」
「何です?」
「可動範囲の“壁”はどういう仕掛けになっていると思う?」
「“壁”? ああ」
聞き返してきたということは、彼の中では“壁”という表現にはなっていないのかもしれない。しかしまあ、同じような概念を持っていることは間違いないだろう。
「どうなってるんですかね、何しろ見えないから、あっはは。しかし、僕なりの解釈をするとですね」
ハーレイ氏は実に楽しそうに話し始めた。そういうことにはやはり興味があるものと見える。
「“壁”に向かって近付こうとすると、押し返されてしまう。近付けば近付くほど、強い力で押し返される……そういう感じというのは、例えばボウルの底から壁を這い上がろうとするときに似ていると思いますね。底の辺りは傾斜が緩やかだけれど、上へ行くほど傾斜がきつくなる。だから上へ行くほど落っこちやすくなる。上には境界はないけれども、どこかの時点から壁がほとんど垂直になるようなら、どんなに頑張っても上がりきることはできない。もちろん、これは重力の話だから下向きの力なんですけれども、どうにかしてそれを横方向の力にすることができれば……」
なるほど、俺が今日、
「つまり、空間の構造を歪める方法があれば」
「そうそう、そういうことです。ただ、その空間の歪みが、我々にしか適用されないというところがまた解釈不能なところでね。光だって空間が歪んでいれば曲がるはずですが、そうなってはいないようだし」
「すると、空間は実際には歪んでいなくて、我々の感覚だけが歪まされているということになる」
「そうなんでしょうね。しかし、そうすると、我々の感覚だけを歪めるにはどうするかということになる」
ハーレイ氏の話は至って論理的かつ演繹的で、非常に判りやすい。
「脳の信号を直接操作するしかないだろうな」
「そうでしょう。そうすると、我々は“水槽の脳”の実験対象になっているだけなんじゃないか、ということになります。“水槽の脳”はご存じですか?」
「ああ、まあ、概略だけはね」
どこかの哲学者が唱えた仮説で、人間から脳を取り出して培養液を満たした水槽に入れ、神経細胞をコンピューターにつなぎ、現実と同じ感覚を生じるような信号を送ったら、それを現実と区別することは可能か、というものだ。悪趣味な思考実験だ。現実と同じ信号を送れるのなら、それはコンピューターの中に“現実”を構成しているのと同じじゃないか。コンピューターが膨大な能力を持っているのならできるし、そうでないのならできない。それだけだろう。
「そういう実験かどうかを確かめるには、我々はこの世界を外から眺めることができなくてはならない。しかし、“壁”がある限り、我々はこの世界の外に出ることはできない。であれば、我々がどんな想像をしようが、それを検証する術はない、ということになります。宇宙の“外”はどうなっているかを想像するのと同じことですよね。どんなに興味深い理論を打ち立てようとも、検証できないのでは無駄なことです」
「反証不可能な理論は科学的ではないってのと同じわけだ」
「まさにそのとおり。まあ、だからといって、この世界がどうなってるかに興味がないわけじゃないですがね。時間があるときに、色々と考えてますよ。それについてあなたと議論するのも面白そうだけれども、結論が出ないのでは……」
「時間の無駄だな。俺たちの時間は限られてるし、ターゲットや他の
「そうです。あなたは話が早くて助かります」
「
「ほう、そんな人が。昨日はそんな人はいませんでしたよ。話しかけてみましたか?」
「いや。そんな隙は全くなかったね。仕事に集中している感じだった」
女の人相や容姿について説明する。
「ふうん、僕も王宮の庭園でたくさん写真を撮っている女性を見かけましてね。さりげなく話かけてみましたが、ドイツの新聞記者でした。しかし、蝶を撮るのは新聞とは関係なさそうですね」
「かといって、ターゲットを探している風でもなかったんでね」
「それで、もう一人は?」
一人で旅をしている観光客に見えたが、なぜかこちらを気にしていたということを説明した。美人であることも。
「その女性も何かを探している様子はなかったんですね」
「そう。次に会ったら声をかけようと思ったんだが、もう会えなかった。声をかけておけばよかったかな」
「いや、無理にかける必要はないと思いますよ。かけたくなる雰囲気ならかける。怪しいならかけない。僕はそうしてます。あなたにもそうしてくれとお願いするつもりはないですがね」
「俺はそんなに声をかけやすかったのか」
「アスリートに見える人はたいてい声をかけやすいです。仮想世界に限らずね。一番声をかけにくいのは医者タイプですよ」
「医者タイプの見分け方を教えてくれ。俺には君が医者に見えなかった」
「あっはは、それは僕の性格が歪んでるからでしょう」
「精神科の医者にでも診てもらうかね」
「あっはは、是非そうしたいですね。自分のことは自分で診られませんからねえ」
ハーレイ氏も俺と同じでかなり性格が歪んでいるようだ。改めて親近感を得るが、頭の良さでは敵わないだろうと思う。
その後、また寄り道するというハーレイ氏と別れて、
「
「ああ、頼む」
「解った。すぐに持って行くから、部屋で待ってて」
階段を上がって部屋に行こうとすると、すぐ後ろからバタバタと足音が追いかけてくる。いくら何でも早過ぎるだろ。既に作ってあったとしか思えない。部屋に入って、ドアを閉める間もなく、マリーがトレイを持ってやって来た。
「アーティー、夕食だよ」
「ああ、ありがとう」
マリーはそのまま部屋の中まで入ってきて、トレイをテーブルの上に置く。トレイは部屋の外の小テーブルに置く、と言われたはずなのだが、まだ一度もそうなっていない。しかもマリーは椅子をテーブルのそばへ持って行ったり、勝手にワインの栓を開けてグラスに注いだりしている。まあ、それが余計なお世話だというわけではないのだが。
「それじゃ、
「ありがとう」
マリーがようやく出て行った。トレイの中を覗く。ポテトのサラダの中身が少し違っているくらいで、昨日とほとんど同じだ。とりあえずそのサラダを食べてみた。何と言うべきか、微妙な味付けだ。オープン・サンドウィッチの方は同じだった。腹は減っていないが、あっという間に食べ終わる。地図への書き込みは夕方に入ったレストランで済ませてきた。中途半端な時間なのにやけに混んでいたのは、夕食がこんな軽いものだからかもしれない。それとも、この国は食事の回数が多いのかな。
トレイを外に出そうとドアを開けると、ノッカーが鳴った。ハーレイ氏のお帰りのようだ。彼は俺と別れた後、何を調べているのだろう。まあ、いいか。人にはそれぞれやり方があるんだから。
その後、廊下をいろんな足音が行き交っていたが、マリーらしき元気のいい足音が上っていた。ちょっと言っておくことがあるのでドアを開けると、マリーがちょうどノックをしようしているところだった。
「ワォ、びっくりした! アーティー、夕食おいしかった?」
マリーは急にドアが開いたので驚いていたが、すぐに笑顔になってそう訊いてきた。昨日はそんなこと訊かなかったので、何か理由があるのだろう。まあ、すぐに解るが。
「ああ、サラダがうまかったな」
「よかった! 私が作るの手伝ったんだ。久しぶりに料理したから、ちょっと心配だったの」
うん、そうだと思ったよ。まあ、サラダなんて誰が料理してもそれほど味は変わらないはずなのに、昨日と味付けが違うと判ったんで、俺自身が驚いてるくらいだ。
「それはそうとマリー、俺は明日朝早く出て、夜遅く帰ってくる」
「早くって、いつ? 6時前に出るの?」
「いや、6時過ぎだ。帰りはバスの最終便だから9時半頃だろう」
「解った。じゃあ、朝食はブロートビュクセに入れてあげるから持って行って」
「ブロートビュクセ?」
「あ、そうか、アーティーの国にはないのかな。10時頃に食べる、2回目の朝食を入れておく箱だよ」
そういうのがあるのは知らなかった。この国の食生活は変わってるな。1日に何回食事してるんだ。4回? 5回?
「帰りも、9時半までなら夕食出せるよ。バスは、運転手に言えば坂道の途中で降ろしてもらえるから、ちょっとだけ早く帰れるよ」
「坂道の途中? トンネルの上の辺りか」
「そう。夜の遅い便だけ停めてくれるの。たぶん、他にもあそこで降りる人がいるんじゃないかなあ」
なるほど、あそこは町の入口と言っていい場所だし、あそこで降りた方が便利な住民がたくさんいるのだろう。坂道の途中だからバス停はないが、運転手が気を利かせてくれるのに違いない。
「わかった。色々ありがとう、助かる」
「ブロートビュクセは6時頃にこのテーブルに置いておくからね。それじゃあ、
「おっと、もう一つ忘れてた」
「えっ、何?」
さて、これは言うべきかどうか。まあ、
「今日、港でルドルフを見かけた。一昨日、階段のところで会った少年だが」
「ああ、彼はあそこで働いてるから」
ルドルフの名前を出したらマリーがどういう反応をするかを見ていたのだが、“気のないふりをしようとしている”のがよく判った。
「君の怪我を気にしてるようだったから、もうすぐ治りそうだと言っておいたよ」
「ふーん」
あくまでもマリーは気のないふりをしようとしている。ルドルフといい、どうしてこうも判りやすいのか。
「友達なんだろう?」
「そうだけど……でも、彼が私のこと心配するはずないもん」
「どうして?」
「だって、彼はゾフィーに興味があるんだから。私に話しかける時は、いつもゾフィーのこと訊いてくるし」
うん、それは男が興味のある女に話しかける時の常套手段だよ。共通の身近な人を話題にするってのはね。君ら、本当に
「そうか、じゃあ余計なことをしたかな。ところで、足はどうだ?」
「うん、坂道を登る時にほんのちょっと痛むくらい。でも、今日も帰ってきてからちゃんと冷やしたんだよ」
「それでいい。痛みが引いても、しばらくは走ったりしない方がいいぞ」
「判った、心配してくれてありがとう。じゃあ、
ルドルフのことを話したら少し複雑な表情をしていたマリーが、また笑顔に戻ってお休みの挨拶をし、トレイを持って降りていった。本当に余計なことをした、という気がしないでもない。
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