#4:第3日 (3) 蝶の温室

 カフェでコーヒーを飲みながら、観光案内所ヴィジター・センターが開くのを待つ。9時になり、開いたら一番に入って、マリーのメモの英訳を頼む。若い男の係員が快く引き受けてくれた。ゾフィーはカウンターにいなかった。やはり中で仕事をしているのだろう。10分ほどで英訳をしてもらい、礼を言って案内所を出る。

 隣の、船のチケット売り場へ行ってラエティアまでの往復を買う。パスポートの提示が必要なのだが、偽造とはとても思えないほどよくできている。

 船が来るまで乗り場の前まで待っていたら、どこからか視線を感じた。さりげなく辺りを振り返ったが、競争者コンテスタントらしき人物はいない。俺と同じように船を待つ客か、港の係員がいるだけだ。隠れるのが得意な奴かもしれない。

 ホーエンブルク行きが先に来て、客を入れ替えて出て行った。10分後、9時30分にラエティア行きが到着。もちろんラエティアが終点ではなくて、ザンクト・マルティン、モントフォール方面へ周回していく。意外に多くの客が乗り込んで、5分後に出航。舷側から港の方を見ながら、ふと思い付いて船着き場の一角に目をやる。視線の主が判った。何だ、そういうことか。戻ってきたら確認してみよう。

 船は初日に見たのと同じで、3段デッキの一番上がレストランになっている。早起きして朝食抜きで来ても、ここで食事にありつけるというわけだ。ただし、朝一の船は6時35分出航で、約15分でラエティアに着くから、そんな早い時間に着いても観光できるところはない。つまり今乗っているこの便が一番便利な時間帯なのだ。それだけに船の中も団体客などで混雑していてかなり賑やかだ。定刻どおりラエティア着。

 さて、着いたのはいいが、タラップから降りた途端に妙な気配が身体にまとわりつく。例の“壁”の感じだ。だが前にあるのではなく、左右から迫ってくるような感じがする。道を踏み外そうとすると緩やかに押し返されてしまうようで、ちょうど巨大なパイプの中を歩いている時に似ている。その見えないパイプの中を歩いて行くと、バス乗り場の一つにたどり着いた。リッツェル島行き、とある。隣には別の乗り場があるのだが、そこへはどうやっても行けない。

 こんなに人目があるところで“壁”と格闘していると、おかしな奴だと思われてしまうので、ゆっくりと戻りながら、他に移動できるところがあるかを探る。途中で一つ、分かれ道があった。バス・ターミナルの左側へと続いている。緩やかに曲がっていて、フィッシャー通りシュトラーセへ入っていけるようだ。通り沿いに、ホテルとレストラン、それにいくつかの店があった。どうやらそのどれにも入れるらしい。だが、そのまま通りを歩くと、100ヤードも行かないうちに“壁”に当たって進めなくなってしまった。

 仕方なく船着き場へ引き返し、チケット売り場へ行く。右回り航路、左回り航路とホーエンブルク直行便の他に、リッツェル島行きの遊覧船のチケットがある。もしかしたら、ラエティアで行けるところはリッツェル島だけではないのか、という気がしてきた。バスに乗っていくか、船に乗っていくか、どちらでも好きなように、ということだろうか。そうだとしたら、今日は時間を持て余してしまうだろう。もう一度同じ手順で可動範囲を調べたが、船着き場以外には、リッツェル島行きバス乗り場と、フィッシャー通りシュトラーセの一部しか行きようがなかった。

 ちょうどリッツェル島行き遊覧船が出る時間だったので、チケットを買って乗り込む。先程の船よりも小さく、速度もゆっくりだったが、10分もかからなかった。帰りはバスにしようと思う。船を下りると目の前に大きな屋敷がある。王女がいる小島の屋敷よりもずっと立派だ。もちろん、こちらの島の方が圧倒的に広いというのもある。

 リッツェル島はこの湖の中で一番大きな島で、広さが約100エーカーあり、ヴィルヘルム・フォン・リッツェル大公の所領だったものだ。大公は花と蝶、そして絵画を愛する風流エレガントな人物で、この島に広大な花の庭園と蝶の温室、そして美術館を建て、一般に公開していた。大公は既に亡くなっているが、現在もその一族により公開されていて、毎日たくさんの観光客が訪れる、ということだそうだ。

 だが、これらの公開物の中にターゲットのヒントになるようなものがあるかというと、かなり疑わしい。蝶の温室以外は、昨日ホーエンブルクで見てきたのと似たようなものだからだ。それでもここは可動範囲なのだから、一通り見て回る必要はあるだろう。

 団体の観光客に紛れ込みながら屋敷の正面へ回る。U字型をした3階建てで、色使いは小島の屋敷に似ている。ただし、こちらの方が手入れは行き届いていて、壁も屋根も色が綺麗だ。横には小さな礼拝堂が建っていて、屋敷の2階と渡り廊下でつながっている。1階のほとんどが公開されて、豪勢な食堂や応接間を見ることができる。ただし、廊下から見るだけの部屋が多い。大公には子供がたくさんいて、いわゆる“王女”もいたはずなのだが、さすがにその部屋を見ることはできなかった。

 屋敷の外へ出る。正面は大きな芝生の広場だ。周囲にアクセントのように花壇が作られている。ここでは時々、野外コンサートが開催されることもあるそうだ。その広場の右手の道に沿って進む。すぐに赤茶けた建物が見えてくるが、これがなんと銀行だ。地方銀行だが、私有地に建っているというところが面白い。この島には銀行だけでなく、レストランが2軒とカフェが1軒、それに郵便局もある。観光客が多い島だからだろうが、銀行は本当に必要なのかどうか。まあ、俺が気を回すようなことじゃないか。

 銀行の前を通り過ぎると、次に見えてくるのがレストラン。まだ11時過ぎだが、既にたくさんの客で席が埋まっている。今日はこの島しか調べるところがなさそうだが、昼食にありつけるのか心配だ。

 道の先に、ガラス張りの建物が見えてきた。温室だ。あの中で蝶を飼っている。以前、蝶の博物館に行ったことがあるが、あそこの蝶は標本で、ここのはもちろん生きている。ゾフィーのメモでは、この島の中でここが一番のお薦めであるらしい。

 入場料を払って温室へ入る。蒸し暑い。室温は華氏で78度、摂氏で25度だが、湿度が90%もある。熱帯植物園のようだ。小さな滝が作ってあったりする。蝶はさほど多いわけではない。上の方を飛び回っているのはほとんどなくて、たいていは花の上や木の葉の陰に止まっている。

 黒い羽に、青い斑が弧状に連なっていて、ネックレスのように見える蝶がいる。実物のネックレスがターゲットなのは裁定者アービターに確認したのだが、どうにも疑心暗鬼ダウツ・ビゲット・ダウツになってしまう。

 さりげなく辺りを見回す。子供連れが多い。新婚旅行と思われる二人組もいる。俺のように一人で見に来ているのはいない。ただ、一人でひたすら写真を撮りまくっている若い女がいる。キャップを被って、野暮ったい服装をしているから、観光ではなく取材に来たジャーナリストかもしれない。彼女が実は競争者コンテスタントで、そう見えないようにジャーナリストのふりをしている、というのであればなかなかの演技だ。一応憶えておくことにする。

 温室を出て、さらに道なりに歩く。もう1軒のレストランが見えてきた。その先には橋があるはずだ。車道用と人道用の2本架かっていて、バスに乗るには人道用を渡って本土側にあるバス・ターミナルまで行く必要がある。もちろん、まだ乗らないので引き返す。

 先ほどは島の北側の道を歩いてきたので、今度は南側を行く。馬が放牧されている小さな牧場がある。その先は道の両側が花畑になっている。立ち止まって見入っている観光客がたくさんいる。座って見られるようにベンチも置いてある。島の中心は小高い山になっているが、その斜面を利用して、階段状のカスケードを流している。

 道の突き当たりに美術館がある。大公の収集していた絵画は、以前は屋敷の1階に展示してあったのだが、亡くなる直前に美術館を建てて、そこに展示するようになった。だからこの美術館だけが他の建物と比べて少し新しい。とはいえ、建てられたのは40年ほど前なので、多少は古びている。展示してあるのは全て絵画とのことだが、一応入ってみる。

 大公は19世紀から20世紀のドイツの画家がお好みらしく、アドルフ・メンツェル、フランツ・フォン・シュトゥック、マックス・リーバーマンなどの作品が多い。残念ながら俺は近現代のドイツの画家について全く知識がないのだが、シュトゥックの『サロメ』という作品が気になった。別に上半身裸の女が描いてあるからではなく、その女がネックレスを着けていたからだ。サロメはパレスチナの領主の娘であって王女ではないし、絵画のネックレスはターゲットと関係ないのも解っているのだが、どうも気になる。過剰反応だな。

 美術館に併設のカフェが空いていたので、軽い昼食を摂った。昨日の朝からずっと軽い物しか摂っていないので、夕方にも何か食べたくなるに違いない。

 美術館から北へ行くと屋敷を経て船着き場に戻るのだが、途中のローズ・ガーデンの中を左に折れ、島の中央の小山の方へ向かう。この小山の中にも散策道がある。雑木林の間の道で、特に見所があるわけでもないのだが、散策している人はいる。二人連れが多い。二人きりになりたい、という類の連中かもしれないが、みんな同じことを考えているようで、二人きりになるのは不可能に近い。ご愁傷様マイ・コンドールセンスだ。

 緑の木々の隙間から、時々下の庭園が見える。湖も見える。程なく小山の反対側に降り、蝶の温室の前に出た。めいっぱいゆっくり歩いたのだが、まだ2時過ぎだ。時間が有り余ってるし、情報が得られた気が全くしない。近くにあったベンチに座って、島をもう一回りするかどうか考える。何か見落としをしていないか……というか、何か重要と思えるような物が一つでもあっただろうか。確かに美しい島には違いなく、一見の価値があるのは解るのだが。火星人マーシアンのハーレイ氏は昨日ここで何かヒントをつかめたのか? それとも、当てが外れたと言っていたのはこの島だけしか見られなかったという意味だろうか。

 考えてみたが、ここはいったんこれで終了することにする。橋を渡って本土へ行く。バス・ターミナルに近付くと、あのパイプの中を行く時の感じがしてきた。ラエティアの港までなら、道路を歩けるかもしれない。たぶん歩けるだろう。でも、面倒なのでやらない。バスに乗ると、5分で港に着いた。

 念のため、バス・ターミナルの“壁”の位置をもう一度確かめる。島に行ったことで、可動範囲が変わっているかもしれないと思ったからだ。すると、何と新しい“道”ができていた! それをたどっていくと、ラエティア駅行きのバス乗り場だった。折りもよく、バスが発車しようとしているので、それに飛び乗る。朝は、このバスには確かに乗れなかった。リッツェル島へ行ったことで乗れるようになったのだ。やはり、可動範囲は変わるものだ。もしかしたらフィッシャー通りシュトラーセの方の“壁”も変わっているかもしれない。戻ってきたら確かめよう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る