#3:第5日 (3) ゴッドストウの鍵

 早速、朝刊紙を買う。なるべくページ数が多いものにする。大学寮へ戻って着替え、ベッドの上で新聞のページをめくる。まさにその記事があった。見出しは“ゴッドストウ・キーの帰還”。その概要は……

 約1世紀前、アマチュア考古学者によって発見され、長らく古美術コレクターの間で秘蔵されていたアングロ・サクソン時代の金細工“ゴッドストウ・キー”が、オックスフォードへの帰還を果たした。スコットランドのマクドーナルド氏よりアッシュモレアン博物館へ昨日寄贈された。

 オックスフォード北部のゴッドストウやウルヴァーコート付近は、多数の遺跡や遺物が発見されることで有名である。大規模な公式発掘調査は1世紀以上も前に行われたが、その周辺で個人的な発掘も多数行われた。そしていくつかの遺物が発見されており、それらは発見者の所有物となった。“ゴッドストウ・キー”はそのうちの一つで、特に大型の金細工であると評判だったが、その詳細は長らく不明であった。不定期に古美術市場に出ては、コレクターの間で取り引きされ、“謎の鍵”とも呼ばれていた。

 先月、最終所有者であったスコットランド在住のアマチュア古美術研究家ドノヴァン・マクドーナルド氏よりアッシュモレアン博物館へ寄贈したいとの打診があり、博物館側がこれを快諾。昨日式典を開催して寄贈された。博物館では本日より1ヶ月間、“ゴッドストウ・キー”他、アングロ・サクソン時代の遺物に関する特別展示を開催する。

 以下、“ゴッドストウ・キー”の発見場所、大きさ、推定年代、評価額などが記載されていた。カラーの写真も載っていたが、粒子が粗くて不鮮明だった。だが、写真が公にされること自体が初めてらしい。観光案内所ヴィジター・センターにも特別展示の案内があったはずだが、写真がなかったので見逃してしまったのだと思う。金細工が大写しになっていれば、真っ先に手に取ったに違いない。もっとも、この情報自体が“ステージの途中から開示される”ことになっていたのだろうが。

 朝から博物館へ行って実物を拝覧してもいいのだが、きっと大混雑だろうし、並んでまで見るのは俺の好みではないので、あえて無視する。どこかにもっと鮮明な写真があるだろうから――おそらく写真入りのリーフレットが新たに作られたに違いないから――それを入手するくらいでいいだろう。代わりに、北側の行動範囲を調べに行こう。ゴッドストウまでは行けるに違いないから、それを確認する意味もある。いざ出発だ。持って行くのはハンド・タオルくらいでいいだろう。

 ブロードストリートで自転車を借りて、いざ北へ、と思ったのだが、地図をよく見返すと、東側には“抜け道”がいくつかあるように思える。これまでに、南はフォリー橋、東はモードリン橋、西はオスニー橋に“壁”があることを調べた。南と西は、その二つしか橋がないことは地図からも明らかだ。だが東は、町の中心部の近郊で車が通れるのはモードリン橋だけだが、その周辺にいくつか歩行者用の橋がある。例えばクライスト・チャーチ・メドウの中や、大学公園パークスの中など。これらも念のために調べておいた方がよくはないか? 今日は、そのための時間は十分ある。

 なので、方向転換して南のクライスト・チャーチ・メドウへ向かう。ハイストリートへ行き、昨日訪れた植物園の西にあるローズ・レーンに入る。しばらく行くと遊歩道ウォークになるが、自転車でもゆっくり走るなら乗り入れたって構わないだろう。川沿いに出て、二つに分かれていたチャーウェル川が合流するところに、細いアーチ橋が架かっていた。自転車を降りて、押して渡ってみたが、橋のちょうど真ん中辺り、一番高くなったところに“壁”があった。橋の外へ手を伸ばしてみたが、そこにもちゃんと“壁”がある。どうやらこの壁は橋の上だけでなく、川の上に設置されているらしい。たぶん、水の中にもあるだろう。川に入って確かめる気はないが。

 北へ戻り、ハイストリートからロングウェルストリートへ入る。モードリン大学の西側を走り、チャントリー図書館のところで東へ折れる。小道が続き、その先のチャーウェル川に古い石橋が架かっているが、ここは通ることができた。しかし、渡った先は実は中州で、アディソンズ・ウォークという遊歩道がある。その先にもう一つ、向こう岸へ渡るための橋が架かっているのだが、そこに“壁”があった。どうやら川の中州は可動範囲に含まれるようだ。

 ロングウェルストリートまで戻って、北へ。セント・クロス通りロードに名前が変わるが、しばらく行くとサウス・パーク通りロードにぶち当たる。大学公園パークスの、東南の門のところだ。そこから東に、マーストン自転車道サイクル・パスがあるのだが、その道の橋にもまた“壁”が存在した。渡ると、向こう岸には“牧師の楽しみパーソンズ・プレジャー”という小さな緑地があり、オックスフォードの隠れた名所らしいのだが、どうやら行くことはできないようだ。

 大学公園パークス内にも橋があったはずで、この前来たときには、門の錠が下りていて渡れなかった。そこへ行ってみる。公園パークスに自転車で乗り入れて、4分の1マイルほど走る。橋があったが、やはり門は閉まっていた。この前は早朝だからと思っていたのだが、今閉まっているようでは、いつ開いているのだろうか。門が低いので、錠を開けるよりも乗り越えた方が早そうだ。自転車を降りて門を乗り越え、橋の真ん中まで行くと、やはり“壁”だ。ここより北には歩行者用の橋はなく、次に架かっているのはマーストン・フェリー通りロードの橋、その次がA40幹線道の橋だ。そこよりさらに北は、キドリントンの町までない。

 大学公園パークス内の道を西へ走り、北西の角の門から出て、バンベリー通りロードを北へ向かう。この辺りは各種の学校が多い。1マイルほど走って東へ折れ、マーストン・フェリー通りロードを半マイル行くと、名前の判らない橋がチャーウェル川に架かっているが、そこもまたちょうど真ん中に“壁”があった。橋の向こうにヴィクトリア・アームズという有名なパブがあり、かつて店の前は浅瀬になっていて歩いて渡れたらしい。だが、今でも浅かったとしても俺は渡れないのだろう。

 バンベリー通りロードへ戻り、サマータウンを抜け、サニーミードを抜け、A40幹線道の交差点、カッテスロウ・ラウンドアバウトに到達する。ここまでで、大学寮から直線距離にして2マイルほど。東西は1マイルと4分の1もなかったくらいなのに、北側だけがやけに広い。

 A40を東へ向かう。イングランドは左側通行で、本来ならラウンドアバウトをぐるっと回らなければならないが、自転車なので歩道を逆走したって構わないだろう。事実、歩道には“自転車は両方向通行可”であることを示す標識が立っている。道は緩やかに右へ曲がり、東南東方向へ向かって行くが、ラウンドアバウトから4分の3マイルほど行ったところに橋があり、やはりここも真ん中で渡れなくなった。つまり、可動範囲の東の端はチャーウェル川ということになりそうだ。町の境界線を川の上に設定するというのはよくあることだと思うが、どうやって俺だけそこを通れないようにするかはいまだに判らない。そういえば、デクスターの小説の中ではこの川が事件に関わってくるのだが、この世界では果たしてどうか。

 A40を西へ戻る。ラウンドアバウトを回って北へ行こうとしたが、横断歩道を渡りかけたところに何と“壁”が立っていた! 車に撥ねられなくて幸いだったが、渡ろうとしたのにバックしたのだから、車を運転していた奴はなぜ出たり引っ込んだりしてやがると思ったことだろう。俺だって、なぜこんなところに“壁”を設置してやがると思ったくらいだから。

 それはともかく、このA40から北へは行けないのだろうか。それを確認する必要がある。8分の3マイルほど西にウルヴァーコート・ラウンドアバウトがあり、そこは6本の道が合流する。そこから北へ行けるかを調べることにする。その他の場所に、横断歩道はない。

 西へ走り、すぐにラウンドアバウトに到着。南から合流するウッドストック通りロードを渡り、南西へ向かうゴッドストウ通りロードを渡り……いや、渡れなかった。今度は道路の真ん中に“壁”だ。また渡りかけてバックする羽目になってしまった。車が通ってなかったからいいようなものの、これでは俺が単なる迷惑者に見えてしまう。車道の手前に“壁”を設置するのか、真ん中に設置するのか、基準を決めてほしいものだ。あと、できれば“壁”を目に見えるようにしてくれないかな。薄く色を付けるとか、向こう側の景色を陽炎みたいに揺らめかせるとか、方法は色々考えられると思う。実用新案を提出してやろうか。

 それはともかく、A40を越えて北へ行ける可能性はないように思われる。つまりここが北限だ。そしてA40はここから西へも行けない。ただし、南西へのゴッドストウ通りロードは通れそうだ。“ゴッドストウ・キー”が発見されたという集落を見ることができるだろう。小説に出てきたウルヴァーコートの集落はその手前にある。

 ゴッドストウ通りロードを走り出し、細い川と線路の上を橋で越え、ウルヴァーコートの集落に入る。まず、ここを調査してみよう。小さな緑地の脇に自転車を止め、村の中を歩く。小説の中ではここで“ウルヴァーコートの留め具タン”が発見されたことになっているが、詳しい場所までは書かれていない。もちろん、書いたら小説を読んだ物好きがそこへやってくるに違いないので、敢えて書かないのだろう。塀で囲まれた、発掘現場のようなところがある。塀の中は見えない。実は単なる工事現場かもしれないので覗くのはやめる。小さな境界があるくらいで、全ての道を歩いても30分ほどしかかからなかった。傍目には目的もなく歩き回っている不審者のようにも見えただろうが、人が誰もいなかったので警察に通報される心配はないと思う。

 再び自転車に乗ってさらに西、ゴッドストウ集落へ向かう。テムズ川の支流に架かる3連の古い石橋を渡る。もちろん、“壁”に激突しないようにスピードを落とす。まあ、そんなことをしなくても、スピードを出しているときはだんだんと抵抗を受けるので“壁”の気配が判るのだが。集落として家が固まっているのはこの橋までで、ここから先は道沿いにぽつんぽつんと家が点在するだけになる。

 テムズ川の本流に架かるゴッドストウ橋の手前、左側に“トラウト・イン”というパブ兼ホテルがある。これも有名なパプで、小説の中にも出てくる。小説がヒントになったからといって、その中の仕掛けギミックがこの仮想世界にも出てくるとは思わないが、気にしておくことは損にならないだろう。橋のたもとでしばらく自転車を止めて観察する。

 右手には広い駐車場。何台か車が停まっている。川にはボートが何艘か浮いているのが見える。どうやらこの辺りは行楽地のようだ。オックスフォードの人が、ピクニックにでも来るのだろうか。そして目の前のゴッドストウ橋。小さな中州を挟んで二つの部分から成っており、手前の橋の下はウィアになっている。奥は2連の古い石橋だ。再び、ゆっくりと走り出す。しかし、橋のちょうど真ん中に“壁”がそそり立っていることが判った。2連の橋が、二つに分割されたかのようだ。

 進むのは諦めて、そこから川を見る。下流の方に、もう一つのウィアが見える。右手の川岸――俺が行けないエリア――には、木間このま隠れに廃墟があるのが判る。ゴッドストウ修道院遺跡という。あれが、今日からアッシュモレアン博物館で展示される“ゴッドストウ・キー”が発見された場所だ。“遺跡の周辺”という曖昧な書き方しかされていなかったが、一応見ておきたかった。しかし、近寄れないというのは予想外だった。

 西側の“壁”はテムズ川の上にあることは予想できたし、あの遺跡はテムズ側の向こう岸にあるのも判っていたが、そこすらも例外でないということだ。それとも、船に乗れば上陸できるのだろうか。川の真ん中より向こうは航行できないという不思議な目に遭わされるような気もするが。

 ブロードストリートからここまでは大した距離ではないのだが、途中で右往左往したし、自転車に乗ったり下りたりしたし、道路を渡るフェイクをして渡らなかったりしたので、ずいぶんと時間がかかってしまった。もう11時半だ。自転車を押して橋を戻り、トラウト・インに入る。昼食の時間にしたい。

 平日にも関わらず、意外にたくさんの客がいる。昼間からビールを飲んでいる奴もいる。川縁のテラスからは、下の川が眺められるようだ。堰から落ちる泡立ち濁った水の中に、魚が群れている。トラウト・インだからますかと思ったが、こいのようだ。まあ、鱒も何匹かいるのかもしれないが。

 店から中州に小さなアーチ型の木の橋が架かっていているのだが、渡れない。古くなったから渡れないのか、季節限定だから閉鎖しているのか、その辺りのことはよく判らない。中州に渡れたら、その向こう岸にある遺跡がもっとよく見えたかもしれないので、残念だ。混んでいたせいか、料理が出てくるのがとても遅かった。味も今一つ。イングランドのパブは、食べるところではなく飲むところだからかもしれない。

 トラウト・インを出てゴッドストウ通りロードを東へ戻る。途中で、北の方へ分岐する道を調べていくが、ことごとく行き止まりになっている。川の横の砂利道さえも。住宅地の袋小路はともかく、草原の中で果てている道は、その先へ無理矢理行けば進めそうな気もするが、たぶんどこかで――たぶん、少し先に見えているA34主要道のあたりで――“壁”に阻まれることになるだろう。

 ウルヴァーコート・ラウンドアバウトまで戻ったが、思い直してもう一度西へ行く。線路の上を越えた先から、南側に向かってポート・メドウという大草原が広がっている。西をテムズ川、東を線路に挟まれていて、その幅は最大で4分の3マイルほど。南北の長さは1マイル半ほどで、オックスフォード駅の少し北の辺りまで続いている。一面の草地の中に、ところどころ土の道があり、オックスフォード市民の散歩の聖地のようなところになっているらしい。一部は耕作地になっていたりもする。

 その土の道に乗り入れて、少し走ってみる。この中を突っ切っていけば町の中心部に戻ることも可能なのだが、どうしたものか。砂利は少ないが、どこかに尖った小石が転がっていないとも限らないし、パンクしたらやっかいだ。それに、さっきから空がどんどん暗くなってきている。雨が降ってきたら悲惨なことになるだろう。だが、テムズ川の岸まで出ればゴッドストウ修道院遺跡が見えるかと思い、行ってみた。結果として、中州に生えた背の高い樹木に阻まれて、全く見えなかった。

 この辺りで調べることはもうなくなったので、町の方へ帰ることにする。

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