#3:第5日 (4) 雨に濡れても
ゴッドストウ
さて、この近くでもう一つ、調べたいところがある。まずは西へ。ボーモント
駐輪場に自転車を置き、駅舎の中へ入る……って、入れないのかよ。こんなところに“壁”が? もちろん、他の奴は自由に出入りしている。列車に仕掛けをするんじゃなくて、駅に仕掛けをするとは畏れ入った。しかし、バスやタクシーに乗って“壁”を突破しようとしたらどうなるだろう? 試す価値はあるだろう。後で考えよう。
東へ戻って、ブロード
持ち手に当たる四角い板状の部分――角が取れているので実際は八角形だが――から幅が半インチほどもある太い棒が伸びていて、先の方に鍵山のような突起がついている。持ち手のところには細かい細工が施されていて、棒と突起にはおそらくエナメルと思われる青紫色の粒が大量にちりばめられている。もちろん、本物の鍵としては使い物にならないが、おそらくは何かの権力か地位の象徴に使われたと思われる、らしい。そういう説明までリーフレットに書いてある。
ついでに、テムズ川の遊覧フェリーについても調べたが、フォリー橋から下流の方へ行くツアーはあるものの、上流へはなかった。
「これ、みんなゴッドストウ・キーを見に来たのかな」
列を整理している警備員に話しかけてみた。
「もちろん、そうでしょう。朝はもっと短い列だったんですが、昼前からずっとこんな感じです。今日は閉館を6時まで延長することにしてるんですが、新たに列に並ぶのはもうお断りしてまして」
「ゴッドストウ・キーは見ないから、並ばずに中へ入れてもらうってのはできないのかな」
「ダメですね。中で列の整理ができなくなるんで。それに、朝、ちょっとしたトラブルがあって、警備員も
「トラブルって?」
「ああ、それはそのう……ここじゃちょっと言えないんですがね。失礼、列の整理があるんで」
じゃあ、どこだったら言えるんだよ、と訊く前に、警備員は行ってしまった。もしかして、また泥棒が現れた? 例のフランス人? 明日になれば新聞に載るだろうが、それまでは待ってられないな。
さて、この状態を見に来た奴が、俺の他にもいるんじゃないだろうか。道路を渡り、ザ・ランドルフの方へ行く。中には入らず、レストランの窓の前を歩きながら中を覗いたら、やはり、いた。アンナだ。また食事中だ。窓を軽くノックすると、こちらを見た。特に何の表情も示さず、じっと俺の方を見上げている。この麗しい視線に何人の男が吸い込まれただろうか。声を出さずに“ハロー”と口真似だけしてみたが、返事はなかった。しかし、無視はされていない。リーフレットの裏にペンで“30分後、プレイハウス前”と書いて見せた。アンナは少し首をかしげた後で、小さく頷き、テーブルの方に視線を戻した。断られなかったのはありがたい。しかし、夕食の時間はまだだと思うが、どうしてステーキ・アンド・フライなんて重たい料理食ってんだ。そんなに腹減ってるのか?
プレイハウスの前へ行き、新聞を読みながら待つ。30分待ってもアンナは来なかったが、45分待ったら来た。ゆっくり食事をしてたんだろう。2時間も待たせるような奴がいるくらいだから、これくらいはどうってことはない。
「博物館は見に行った?」
アンナが来るなり訊いてみた。
「ええ」
「まさか、開館前から並んだとか?」
「いいえ、開館時間に行ったわ。入るのに少し待ったけど」
「ほう。それで、感想は?」
「ご自分で見てきて下さらない?」
アンナはにこりともせずに言う。当然すぎて返す言葉もない。
「朝、トラブルがあったらしいが、何が起こったか知ってる?」
「ええ」
「もしかして、その時に君もいたのかな」
「いいえ、列の先頭に並んでた人たちが起こしたの。私が入る前のこと。そのせいで、入るのが少し遅れたわ」
「で、何が起こった?」
「きっと夕刊紙に載るわ」
教えてくれないか。まあ、俺はライヴァルなんだから、教えなくても当然だよな。
「臨時休館にならなくて良かったな」
「そうね」
「いつ決行する?」
「難しい問題ね」
「まだ情報が足りないのか」
「十分ではないと思うわ」
「俺が先を越すかもしれんよ」
「
自信がありそうだな。俺よりもこの世界に長くいるんだろうか。それとも、プロのスパイだから表情に出さないだけか。
「他のことを訊いてもいいか」
「どうぞ」
「昨日、植物園の待ち人は、結局どうなった?」
「来なかった」
「そいつの目的について、その後何か思い付いたことは」
「いいえ、何も。忘れることにしたから」
本当かなあ。イタリア人がその前の夜に失敗してるんだから、フランス人が呼び出したんじゃないかと思うだろうし、そいつのことを調べたりもしてるんじゃないのかな。俺もフランス人のことをもっと調べた方がいいかもしれないな。
「クライスト・チャーチ
「とても聡明な
「名前はもちろん知ってるよな」
「ミス・サラ・ウェルチ」
「その友人のミス・ルイーザ・スタントンのことは?」
「挨拶をしたことがある程度には」
「さらにその友人のミスター・アラン・グリーナウェイは?」
「一度しか会ったことがないわ」
「彼が何の研究してるか知ってる?」
「いいえ」
「今夜はどこで食事するつもり?」
「まだ決めてないわ」
ランダムに質問を浴びせてみたが、どれにも即座に簡潔な答えが返ってきた。俺の質問は事前に見抜かれている感じだ。
「あの上の――」
お決まりの「もういいかしら?」が出る直前に、博物館の上を指差しながら言う。アンナは俺の指差す方は見ずに、俺の方に顔を向けたままだ。視線を外したら何かされると疑われてるのかな。
「――
「今日の昼に」
「ほう。何か変わったことはなかったか?」
「特に何も」
ガラスに穴が空いていることには気付かなかったかな? 彼女ほどの観察眼があれば気付きそうだが、あるいは俺に言いたくないだけなのかもしれない。
「
アンナは少し目を細めるようにして俺を見た。こういう表情は初めて見たが、なかなかセクシーだな。そして何も言わず振り返ってザ・ランドルフの方へ去って行った。
雨が降り始めた。傘を買いに行かないといけないな。それから、今夜忍び込むときに使う道具。そして、夕刊紙。ザ・ランドルフの南にあるデベンハムズへ行く。何でも揃うデパートメント・ストア。傘以外は望みのものが手に入った。傘は気に入ったのがなかったので東隣にあるボズウェルズへ行く。
大学寮への帰りに新聞スタンドへ寄る。夕刊紙はまだ置いていなかったので、いったん寮に戻って荷物を整理する。夕刊紙が出た頃を見計らって新聞スタンドへ行き、あるだけ全紙を買って寮で読む。最初に読んだ新聞の、特別展示開催の記事の下に、“ギャラリーで一時的アクシデント”とある。最初に入った客たちがゴッドストウ・キーの展示ケースの周りを囲んで見ていたとき、そのうちの一人が後ろから来た客に押されてケースに触れ、非常ベルが鳴ったとのこと。すぐ横に待機していた警備員が対処したが、ケースに触れた客はその後行方が判らなくなってしまったらしい。
記事を読む限りでは、接触がアクシデントなのか、意図的なものかはよく解らない。意図的なものなら、泥棒――もしかしたらあのフランス人
その他の新聞も全部読む。タブロイド紙はブランケット紙と違って扇情的な記事も載っているので、不謹慎だが面白い。
6時頃になると、本格的に雨が降ってきた。寮を出る前にポーターズ・ロッジで聞いたら、こんな強い降り方は久しぶりだそうだ。いつもは霧雨のように降るだけらしい。傘を差して出掛け、ブラックウェルズの店の前の軒下に立って、ルイーザが出てくるのを待つ。道行く人を見ていると、傘を差しているのは少ない。フード付きの上着か、薄いコートで雨を凌いでいる方が多い。オックスフォードは6月の後半でも涼しい日が多く、特に今日のように朝からはっきりしない天気の時は、長袖シャツに上着を引っ掛けて出歩いている人が多いようだ。
ブラックウェルズの閉店は6時30分だが、パート・タイマーといえどすぐに仕事が終わるわけではないようだ。後片付けなどがあるのだろう。7時ちょうどにルイーザが出てきた。俺の方を見て満面の笑みを浮かべる。俺に会うのがそんなに嬉しいか? その魅力的な笑顔は、もっと別の方向に振り向けてもよさそうなものだが。
「
ルイーザはライト・グレーの薄い長袖ニット・シャツを着ているが、傘は持っていない。他の人同様、雨の中を濡れて歩くのは気にしていないようだ。傘を開きながらルイーザに言う。
「入って行かないか?」
「ありがとうございます!」
ルイーザがますます嬉しそうな顔をして答える。彼女に傘を差し掛け、雨の中を二人並んで歩き出す。
「この傘は新しく買ったんですか?」
「そうだ。イングランドは傘を差さない人が多いな。そのせいか、傘の値段が高い」
「そうですね、私も持ってませんよ。どこで買ったんです?」
「ボズウェルズ。他の店も回ったが、結局同じような傘しかなかった」
「そうでしょうね。ブランドもフルトンばっかりでしょうし」
「うん、これもそうだ」
「ところで、昨日一緒に読んでいただいた論文ですけど、今日もう一度じっくり読み直しておおむね納得がいきました。そもそも、変換した式のことばかり書いてあって、説明が少な過ぎますよね」
こんな状況でもこの娘の話すことはこんな感じだ。デートなんかに誘ったら、一日中研究の話を聞かされるのに違いない。
「式の変換もそうだが、最後の方に書いてあった、計算機シミュレーションの方法が詳しく書かれていなかったのも同じだな。あの程度の説明ではシミュレーションの再現ができない」
「ええ、それもありますね。それに、他にもいくつか疑問点が……ああ、でも今日はサラが話をする日ですよね。最後の方に、ちょっとだけでも時間がもらえればいいのに……」
いやはや、彼女たちがなぜそんなにまでして俺に研究の相談をしたがるのかが解らない。俺は彼女たちに何かを教えているわけでもなく、ただ彼女たちの研究の話を聞いて質問をしたり、論文の解らないところ――しかもそれは数式ではなくて言語的な解釈の場合がほとんど――を一緒に考えたりしているだけなのだ。そういう行為の、何が彼女たちの役に立っているのか? 全く、とんでもないキー・パーソンを押しつけられたものだ。
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