#2:第5日 (3) 朝の礼拝
夜が明けた。5時20分。泥棒前と泥棒後、2度仮眠を取ったがやはりまだ眠い。静かな木立の中の一本道で、
5時25分前。森の奥から、鳥の啼き声が聞こえている。今日もいい天気でよかった。雨が降っていたら、
5時半。木立の向こうから、ジェシーが早足で歩いて来るのが見えた。黒い長袖のニットシャツに、グレーのアンクル・パンツ。この前の日曜日に来ていたのと同じ服装だった。聖堂へ行くときにはこの服に決めているのかもしれない。ジェシーは頬を少し上気させながら、俺のすぐ近くまで来ると、小さな声で言った。
「あの……ごめんなさい、遅くなって……」
「いや、時間どおりだ。謝る必要はない。一緒に行ってくれるんだな?」
俺がそう訊くと、ジェシーは静かに頷いた。
「よし。じゃあ、出発だ。後ろに乗ってくれ。
ジェシーはまた頷いた。足をかける位置から指示して、荷台に座らせる。ジェシーも不安そうな表情を隠さない。
「スピードはあまり出さないつもりだが、しっかり掴まっていないと振り落とされる。だからこの紐を握っててくれ」
腰の辺りにくくりつけた紐を指しながらジェシーに言った。荷台にバスタオルをくくりつけたときの余りだ。ジェシーのことだから、俺みたいなおっさんの身体に抱きつくなんてことはできないだろうと思って用意してきた。
「これ? ……どこを持てばいいの?」
「後ろか、横だ。運転中に怖くなったら引っ張ってくれ。スピードを下げる」
「解った」
駐車場から聖堂まで二人で黙って歩いた。そして聖堂の前に着くと、ジェシーの方を振り返って言った。
「これからミサが始まる。だが、ミサが終わるまでいると君は学校に間に合わなくなる。だから、マリアの王冠を見たら、すぐ戻ってきてくれ。俺は聖堂には入らずにここで待っている。いいか?」
ジェシーは無言で頷いた。既に顔が紅潮している。そして俺を残して聖堂に入っていく。他にもミサに出席する人が、三々五々集まってきている。聖堂の入口で挨拶をしている数人の女性の中に、ダニエルはいなかった。中にいるのだろうか? もしかしたら、まだ立ち直れずに寝込んでいるのかもしれない。ジェシーはなかなか出てこなかった。5分ほど待ち、もうミサが始まるという頃になってようやく戻ってきた。興奮を抑えきれないといった表情だった。
「
俺の前に戻ってくるなりジェシーはそう口走ったが、俺が口の前に人差し指を当てると、すぐに言葉を止めた。
「聖堂の前ではお静かに。歩きながら話そう」
俺が小声でそう言うと、ジェシーは少し驚いた表情だったが、すぐに小さく頷き、俺の後ろについて歩き始めた。聖堂の前の道を通り抜け、港の横の通りに出て、人影がまばらになったところでジェシーがもう我慢できないといった感じで話しかけてきた。
「
「そりゃよかった。聖堂から出てきたときの、君の表情を見ただけで判ったよ」
「あ……ごめんなさい、興奮して大きな声出して……それに、戻るのが遅くなって。王冠が、あのルビーが、元に戻ったのが嬉しくて……ずっと、見ていたの」
「そうか。しっかり目に焼き付けておいてくれたか?」
「ええ……どうしたの?」
俺が急に立ち止まったので、ジェシーが不思議そうに問いかけてくる。俺が暗い表情をしているので、怪訝に思ったことだろう。
「申し訳ないが、俺は後であの王冠のルビーを盗みに行くんだ。だから、君があのルビーを見られるのは、さっきの機会が最後だったということになる」
「…………」
ジェシーは黙ってしまった。まあ、気持ちは解る。以前、あれを盗みに来たと言っておいたんだから、それで少しは覚悟してきてくれるかと思っていたのだが、甘かったようだな。
「盗むと言っても、王冠ごと盗むんじゃない。ルビーだけを取り替える。昨日まであの王冠に付いていたものとね。他の人には本物のルビーと見分けが付かないだろう。もう一度あのルビーを見たいのなら、今から戻ってもいいが……」
ジェシーは黙って首を振った。俺を見る眼差しが真剣だ。こんな近くで真正面から彼女に見られたのは初めてだ。
「今は見なくてもいい……でも、やっぱり盗まないで!」
そう言うと思った。当然だろうな。ジェシーでなくても、今から泥棒に行くが、見逃してくれなんていう都合のいい話が通じるわけがない。俺だってそんな状態で盗みをやる気にならない。さて、どうするか。
「少し、考える時間をくれ。それに、君は学校に行かなきゃならない。ひとまずゲストハウスまで戻ろう」
ジェシーが頷く。俺が歩き始めると、ジェシーも黙って付いてくる。港の駐車場からまた二人乗りをし、ゲストハウスの近くまで戻る。6時半。今朝、ジェシーと待ち合わせた場所で
「一つ知っておいて欲しいことがある。俺以外にも、あのルビーを盗もうとしている奴がいる」
ジェシーの手の力が、少し緩んだ。
「だから、俺が盗まなくても、あのルビーは近いうちに盗まれる。そいつはルビーが元の場所に戻ったことに気付いたら、すぐに盗もうとするだろう。あるいはもう気付いていて、ミサが終わるのを見計らって盗みに行くかもしれない。それだけは、俺にはどうにもならない」
「……
呟くようなジェシーの声が聞こえた。そうしてようやく俺の身体から腕を離す。
「君の父さんは君がまた岬に行っていると思ってるかもしれないから、早く帰った方がいい。俺と出かけていたことは、もちろん言わないでくれ。俺は30分くらい後に戻る。そして荷物をまとめて、ゲストハウスから出ていく。その後はもう戻らない」
ジェシーは何も言わずに
30分ほど待ってから、ゲストハウスに戻った。7時を少し回っていた。中に入ると、
「やあ、
なかなか鋭いな。さすがは“元警察官”。だが、本当に出て行った時間を気付いているかもしれないので、ここは正直に言う。
「いや、実は夜中から出掛けていたんだ。黙って出て行って済まなかった」
「そうか。まあ、月夜に海を見に行く客もいるくらいだから、別に気にせんがね。朝食の時間までに帰ってきてくれりゃいいのさ」
「ああ、間に合ってよかった。しかし、申し訳ないが、朝食を摂ったらチェック・アウトしたい」
「ほう」
「そりゃまた急だな。他に用でもできたかね」
「ああ、まあ、そんなところだ」
「なあに、構わんよ。では、料金を2泊分だけ割り戻そう」
「いや、そんなことしてくれる必要はないよ。こっちの都合で勝手に出て行くんだから。それにサン・トロペまで送ってもらったこともあるし」
「いいんだよ、あんたは手がかからん客だったからな。それに……ああ、いや、何でもない。出発は7時半頃まで待ってくれるかね? こっちも朝は取り込んでてね」
「問題ない。ゆっくり朝食を摂らせてもらうよ」
「そうしてくれ。じゃ、また後で」
「
「ありがとう。いい部屋と食事だった。奥さんにもよろしく」
結局、ロビー夫人の顔は一度も見なかった。
「さてと、あー……済まんがもう少し待ってくれんか」
5分経っても、警察は来ないしジェシーも出てこない。
「
話相手? 泥棒のための調査がか? ジェシーは
「なに、岬で会った時に、こっちから一方的に話しかけただけさ。却って嫌がられてたんじゃないかね」
「ところが、そうでもないらしい。娘が客のことで俺に何か訊いてきたってのが初めてのことでね。しかもそれが、あんたがどんな男に見えるかってのさ。いやはや、飛び上がりそうなほど驚いたね。娘がとうとう男に興味を持つようになったか、さてはあんたに口説かれて
フランス人というのはすぐに駆け落ちのことを考えるのか?
「
「いや全く。そもそも、そんなことしそうな男は泊めないことにしてるからな」
年頃の娘を持つ男親ってのは大変だな。しかも
「それでだな、あれこれ聞いて
待て待て待て、今、“フラン・ジュ”のところが適切に同時通訳されなかったぞ。どんな意味なんだ? まあ、悪い評価じゃないということだけは何となく解るが。
「その他にも何やかやと説明したが、ま、それで娘は納得だか安心だかしてくれたらしい。で、さっきあんたが今日で出て行くと教えてやったら、少しだけ待って欲しいと……」
その時、ばたばたと廊下を走る音がして、ジェシーが出てきた。興奮しているのか、頬が赤い。聖堂へ行った時の黒い服から、カジュアルな服に着替えている。手には学校へ行く時の鞄を提げていた。よかった、駆け落ちの用意をしてきたらどうしようかと思ったぜ。ルビーを盗まれるくらいなら、盗んだ男に付いて行くっていう突飛な考えに至る可能性がなきにしもあらずだからな。ジェシーは
「あの……ごめんなさい。手紙を書こうとしたけど、時間がなくて……だから、午後まで……午後まで待っててほしいの」
いや、その言葉はまずいぞ。聞きようによっては、誤解を生む可能性があるんだが。誰に宛てた手紙を書いてたのか、ってところが。
「
「サン・トロペのどこか」
「では、午後にサン・トロペのどこかで待ち合わせできるか? 今日は
「問題ない。場所はそっちで決めてくれ」
「では、港の駐車場にしよう。ジェシー、それでいいな?」
「さて、ジェシー、急ごう。
ジェシーはまた頷くと、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます