#2:第5日 (3) 朝の礼拝

 夜が明けた。5時20分。泥棒前と泥棒後、2度仮眠を取ったがやはりまだ眠い。静かな木立の中の一本道で、単車モトを停めて待つ。ジェシーは約束どおり来てくれるかな。来てくれなかったら、俺があんなことをした意味は半分くらいなくなるわけだが。農村というのは朝が早いものだから、こんな時間でも車の1台くらいは通るかと思っていたが、誰も来ない。家の近くの畑にしか用がないのだろうか。

 5時25分前。森の奥から、鳥の啼き声が聞こえている。今日もいい天気でよかった。雨が降っていたら、単車モトの二人乗りは特に危ないからな。幸いなことに、俺が借りているこの単車モトには小さな荷台が付いている。そのままでは座りにくそうだったから、バスタオルを細いロープでくくりつけてきた。しかし、ジェシーは荷台に座るのを怖がるかもしれないから、その時はどうするか。車の荷台は慣れているだろうが、単車モトの荷台は全く違うからな。

 5時半。木立の向こうから、ジェシーが早足で歩いて来るのが見えた。黒い長袖のニットシャツに、グレーのアンクル・パンツ。この前の日曜日に来ていたのと同じ服装だった。聖堂へ行くときにはこの服に決めているのかもしれない。ジェシーは頬を少し上気させながら、俺のすぐ近くまで来ると、小さな声で言った。

「あの……ごめんなさい、遅くなって……」

「いや、時間どおりだ。謝る必要はない。一緒に行ってくれるんだな?」

 俺がそう訊くと、ジェシーは静かに頷いた。

「よし。じゃあ、出発だ。後ろに乗ってくれ。単車モトの後ろに乗るのは初めてか?」

 ジェシーはまた頷いた。足をかける位置から指示して、荷台に座らせる。ジェシーも不安そうな表情を隠さない。

「スピードはあまり出さないつもりだが、しっかり掴まっていないと振り落とされる。だからこの紐を握っててくれ」

 腰の辺りにくくりつけた紐を指しながらジェシーに言った。荷台にバスタオルをくくりつけたときの余りだ。ジェシーのことだから、俺みたいなおっさんの身体に抱きつくなんてことはできないだろうと思って用意してきた。

「これ? ……どこを持てばいいの?」

「後ろか、横だ。運転中に怖くなったら引っ張ってくれ。スピードを下げる」

「解った」

 単車モトのエンジンをかけると、ジェシーがいきなり紐を引っ張ったが、すぐに緩んだ。音に驚いただけだろう。俺だってガソリン車はうるさいと思う。そのままスタートして、亭主メートルが運転する車と同じくらいのスピードで走らせたが、港の駐車場に着くまで、彼女が紐を引っ張ることはなかった。単車モトは風を直接受ける分だけ体感速度が速く感じるものだが、彼女は車の荷台に乗っていることが多かったからかもしれない。

 駐車場から聖堂まで二人で黙って歩いた。そして聖堂の前に着くと、ジェシーの方を振り返って言った。

「これからミサが始まる。だが、ミサが終わるまでいると君は学校に間に合わなくなる。だから、マリアの王冠を見たら、すぐ戻ってきてくれ。俺は聖堂には入らずにここで待っている。いいか?」

 ジェシーは無言で頷いた。既に顔が紅潮している。そして俺を残して聖堂に入っていく。他にもミサに出席する人が、三々五々集まってきている。聖堂の入口で挨拶をしている数人の女性の中に、ダニエルはいなかった。中にいるのだろうか? もしかしたら、まだ立ち直れずに寝込んでいるのかもしれない。ジェシーはなかなか出てこなかった。5分ほど待ち、もうミサが始まるという頃になってようやく戻ってきた。興奮を抑えきれないといった表情だった。

王冠ラ・クローネが! 王冠ラ・クローネが……」

 俺の前に戻ってくるなりジェシーはそう口走ったが、俺が口の前に人差し指を当てると、すぐに言葉を止めた。

「聖堂の前ではお静かに。歩きながら話そう」

 俺が小声でそう言うと、ジェシーは少し驚いた表情だったが、すぐに小さく頷き、俺の後ろについて歩き始めた。聖堂の前の道を通り抜け、港の横の通りに出て、人影がまばらになったところでジェシーがもう我慢できないといった感じで話しかけてきた。

王冠ラ・クローネが……去年のと同じだったわ!」

「そりゃよかった。聖堂から出てきたときの、君の表情を見ただけで判ったよ」

「あ……ごめんなさい、興奮して大きな声出して……それに、戻るのが遅くなって。王冠が、あのルビーが、元に戻ったのが嬉しくて……ずっと、見ていたの」

「そうか。しっかり目に焼き付けておいてくれたか?」

「ええ……どうしたの?」

 俺が急に立ち止まったので、ジェシーが不思議そうに問いかけてくる。俺が暗い表情をしているので、怪訝に思ったことだろう。

「申し訳ないが、俺は後であの王冠のルビーを盗みに行くんだ。だから、君があのルビーを見られるのは、さっきの機会が最後だったということになる」

「…………」

 ジェシーは黙ってしまった。まあ、気持ちは解る。以前、あれを盗みに来たと言っておいたんだから、それで少しは覚悟してきてくれるかと思っていたのだが、甘かったようだな。

「盗むと言っても、王冠ごと盗むんじゃない。ルビーだけを取り替える。昨日まであの王冠に付いていたものとね。他の人には本物のルビーと見分けが付かないだろう。もう一度あのルビーを見たいのなら、今から戻ってもいいが……」

 ジェシーは黙って首を振った。俺を見る眼差しが真剣だ。こんな近くで真正面から彼女に見られたのは初めてだ。

「今は見なくてもいい……でも、やっぱり盗まないで!」

 そう言うと思った。当然だろうな。ジェシーでなくても、今から泥棒に行くが、見逃してくれなんていう都合のいい話が通じるわけがない。俺だってそんな状態で盗みをやる気にならない。さて、どうするか。

「少し、考える時間をくれ。それに、君は学校に行かなきゃならない。ひとまずゲストハウスまで戻ろう」

 ジェシーが頷く。俺が歩き始めると、ジェシーも黙って付いてくる。港の駐車場からまた二人乗りをし、ゲストハウスの近くまで戻る。6時半。今朝、ジェシーと待ち合わせた場所で単車モトを停め、エンジンを切る。森の小道に、静寂が戻ってくる。途中で何かいい考えが浮かぶかと思っていたが、何一つ思いつかなかった。ジェシーは俺の腰にしがみついたままだ。最初は紐を持っていたのだが、途中から腕を前に回してきた。まあ、何を意味しているのかは解る。

「一つ知っておいて欲しいことがある。俺以外にも、あのルビーを盗もうとしている奴がいる」

 ジェシーの手の力が、少し緩んだ。

「だから、俺が盗まなくても、あのルビーは近いうちに盗まれる。そいつはルビーが元の場所に戻ったことに気付いたら、すぐに盗もうとするだろう。あるいはもう気付いていて、ミサが終わるのを見計らって盗みに行くかもしれない。それだけは、俺にはどうにもならない」

「……解ったわダコール

 呟くようなジェシーの声が聞こえた。そうしてようやく俺の身体から腕を離す。

「君の父さんは君がまた岬に行っていると思ってるかもしれないから、早く帰った方がいい。俺と出かけていたことは、もちろん言わないでくれ。俺は30分くらい後に戻る。そして荷物をまとめて、ゲストハウスから出ていく。その後はもう戻らない」

 ジェシーは何も言わずに単車モトを降り、俺の方をじっと見つめてから、振り返ってゲストハウスの方へ向かって歩き始めた。途中で一瞬だけ立ち止まってこちらを見たが、そこからは小走りになって木立の向こうへ行ってしまった。全く、やりきれないな。こんなことなら、ジェシーにあのルビーを見せるんじゃなかった。しかし、彼女に何も知らせないまま、ルビーを盗んでしまうのも気が進まないしなあ。本当に、俺はこの世界には向いていない性格だ。

 30分ほど待ってから、ゲストハウスに戻った。7時を少し回っていた。中に入ると、亭主メートルが朝食をテーブルに運んでいるところだった。

「やあ、客人オート、出掛けてたのかね。朝のミサにでも行ってたのか」

 なかなか鋭いな。さすがは“元警察官”。だが、本当に出て行った時間を気付いているかもしれないので、ここは正直に言う。

「いや、実は夜中から出掛けていたんだ。黙って出て行って済まなかった」

「そうか。まあ、月夜に海を見に行く客もいるくらいだから、別に気にせんがね。朝食の時間までに帰ってきてくれりゃいいのさ」

「ああ、間に合ってよかった。しかし、申し訳ないが、朝食を摂ったらチェック・アウトしたい」

「ほう」

 亭主メートルはそう言って腕を組みながら俺の方を見た。目を少し細めている。どうも色々と見透かされているような気がしないでもない。

「そりゃまた急だな。他に用でもできたかね」

「ああ、まあ、そんなところだ」

「なあに、構わんよ。では、料金を2泊分だけ割り戻そう」

「いや、そんなことしてくれる必要はないよ。こっちの都合で勝手に出て行くんだから。それにサン・トロペまで送ってもらったこともあるし」

「いいんだよ、あんたは手がかからん客だったからな。それに……ああ、いや、何でもない。出発は7時半頃まで待ってくれるかね? こっちも朝は取り込んでてね」

「問題ない。ゆっくり朝食を摂らせてもらうよ」

「そうしてくれ。じゃ、また後で」

 亭主メートルはそう言って奥へ引っ込んだ。俺の方はテーブルについて朝食を平らげにかかる。ビスコットを食べるのも今日で最後だな。ミルクまで全部飲んでから部屋に戻った。荷物は昨日の夜のうちにまとめてあるからすぐに出られる。が、急ぐわけでもないので7時半まで待つ。時々、下の階から亭主メートルの声が聞こえる。時間どおりに下へ降りていくと、扉のところに亭主メートルが立っていた。

客人オート、これは割り戻し金だ」

 亭主メートルが差し出してくれた金を素直に受け取る。

「ありがとう。いい部屋と食事だった。奥さんにもよろしく」

 結局、ロビー夫人の顔は一度も見なかった。

「さてと、あー……済まんがもう少し待ってくれんか」

 亭主メートルが呟くように言う。おやおや、これから泥棒に行くのを察知されて、警察でも呼んだかな。亭主メートルは開いた玄関を背にしているので、逆光になって表情が読みにくい。まあ、それならそれでしょうがない。黙って出て行きゃよかったってだけで、俺の失敗だ。逮捕されるところをジェシーに見られるのは困るがね。そういえばジェシーはどうしたんだろう。そろそろ学校へ行く時間のはずだが。

 5分経っても、警察は来ないしジェシーも出てこない。亭主メートルも時計を気にしているから、何かを待ってるのは間違いないが。さらに5分待っても何事も起こらないので、亭主メートルが待ちくたびれたようにため息をついてから言った。

客人オート、時々、娘の話相手になってくれたらしいな。礼を言うよ」

 話相手? 泥棒のための調査がか? ジェシーは亭主メートルに一体何を話したんだ。訳が解からん。

「なに、岬で会った時に、こっちから一方的に話しかけただけさ。却って嫌がられてたんじゃないかね」

「ところが、そうでもないらしい。娘が客のことで俺に何か訊いてきたってのが初めてのことでね。しかもそれが、あんたがどんな男に見えるかってのさ。いやはや、飛び上がりそうなほど驚いたね。娘がとうとう男に興味を持つようになったか、さてはあんたに口説かれて駆け落ちフーグでも誘われたかってね」

 フランス人というのはすぐに駆け落ちのことを考えるのか?

ご冗談をキディング。そんな男に見えたかね」

「いや全く。そもそも、そんなことしそうな男は泊めないことにしてるからな」

 年頃の娘を持つ男親ってのは大変だな。しかも亭主メートルはそれを顔に出さないことにしてるんだろう。元警察官らしい堅苦しさってところか。

「それでだな、あれこれ聞いて駆け落ちフーグの話じゃないって解ったんで、俺は答えたのさ。おそらく、フラン・ジュな男だろうってな」

 待て待て待て、今、“フラン・ジュ”のところが適切に同時通訳されなかったぞ。どんな意味なんだ? まあ、悪い評価じゃないということだけは何となく解るが。

「その他にも何やかやと説明したが、ま、それで娘は納得だか安心だかしてくれたらしい。で、さっきあんたが今日で出て行くと教えてやったら、少しだけ待って欲しいと……」

 その時、ばたばたと廊下を走る音がして、ジェシーが出てきた。興奮しているのか、頬が赤い。聖堂へ行った時の黒い服から、カジュアルな服に着替えている。手には学校へ行く時の鞄を提げていた。よかった、駆け落ちの用意をしてきたらどうしようかと思ったぜ。ルビーを盗まれるくらいなら、盗んだ男に付いて行くっていう突飛な考えに至る可能性がなきにしもあらずだからな。ジェシーは亭主メートルと俺の方を、交互に見つめてた後で、俺の方を向いて言った。

「あの……ごめんなさい。手紙を書こうとしたけど、時間がなくて……だから、午後まで……午後まで待っててほしいの」

 いや、その言葉はまずいぞ。聞きようによっては、誤解を生む可能性があるんだが。誰に宛てた手紙を書いてたのか、ってところが。亭主メートルの顔を横目でちらりと盗み見たが、あちらもどう解釈したものかと迷っているようなところがあった。

客人オート、今日の午後はどこにいる予定なんだ?」

 亭主メートルが静かな声でそう訊いてきたが、昔の職業柄か凄みが利いている。まずいな、本当に誤解したんじゃないのか。

「サン・トロペのどこか」

「では、午後にサン・トロペのどこかで待ち合わせできるか? 今日は学校リセは昼までだから、12時半頃ならどこへでも行けるだろう」

「問題ない。場所はそっちで決めてくれ」

「では、港の駐車場にしよう。ジェシー、それでいいな?」

 亭主メートルの言葉にジェシーが小さく頷いた。いや、港で待ち合わせって、本当に駆け落ちみたいじゃないか。もっとも、ジェシーからそれほど慕われているとは思わないのだが。

「さて、ジェシー、急ごう。学校リセに遅れるぞ」

 ジェシーはまた頷くと、亭主メートルの後に付いて外へ出た。俺もその後に続く。そして数日前と同じように、亭主メートルの運転する車の後ろに付いて単車モトを走らせる。ジェシーはいつものように荷台に乗っていた。そしてすぐ後ろを走る俺の方をじっと見ている。分かれ道のところで片手を挙げて挨拶したが、ジェシーから応答はなかった。やっぱり信頼度が低いんだろうな。駆け落ちはせずに済みそうだ。

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