四年草

武州人也

四年蘭

 信州の山深い土地にある方丈村ほうじょうむらという所には、ヨネンランと呼ばれる奇妙な植物が自生している。姿かたちは里山で見られるキンランをそのまま二倍程に大きくしたように見えるのだが、この草本は四年に一度、それも初夏に咲くキンランとは違って啓蟄けいちつの前後ぐらいに黄色い花を咲かせるのである。四年に一度花を咲かせる蘭なので、ヨネンラン、と呼ばれる。

 この村は所謂「徐福じょふく伝説」のある土地で、この植物は、秦の時代、始皇帝の命令で東海へ仙薬を求めにやって来た徐福がこの地に流れ着き、そこで発見したという言い伝えが存在している。四年に一度、ヨネンランが花を咲かせると、村人たちはそれを摘み取って村の神社にある徐福像の前に供えるのだ。


 昭和の初めの頃の話。

 村に住む前野吉郎まえのよしおという少年は、川に釣り糸を垂らしていた。東京に出稼ぎに出ている父が正月に帰って来るのに備えて、そばの出汁にする川魚を釣っているのである。

 もう、年末ということで、吉郎は寒風に吹かれ、震えながら釣りをしている。もう紅葉の時期も終わり、山は寂しげな姿を晒しながら眠っている。吹き寄せる風に枯草が揺られる様は、寂寥せきりょうの念を禁じえない。

 陽が傾きかけ、紅の光が山の稜線より放射状に発せられている。こんなものでいいかと、吉郎は釣りをやめて、帰路に就こうとした。その時である。

 後ろの砂利道に、自分とそう変わらない背格好の少年が立っている。少年、とは言ったものの、その顔立ちは何処か中性的で少女めいたものを感じさせる。つやのある黒髪が後頭部で結い上げられ垂らされている様は、何ともなまめかしい。今では廃れてしまったが、昔は総髪そうはつと言って、男子の一般的な髪型であったらしい。

「君は誰?」

 この辺りでは、見ない子どもである。吉郎は興味深いと言った風に、目の前の少年をまじまじと眺めてみた。夕陽に照らされた少年の顔は、この世に並び立つものなどないかのように美麗なものであった。その眉目秀麗な目鼻立ちを見て、惚れずにいられる者など存在し得ようか。

 少年は、吉郎の問いには答えなかった。相変らず、無言のままじっと立っている。突然風が吹き、道の両脇に生えている開花前のヨネンランが揺れた。その風によって、少年の前髪も、さらりと風になびいている。

 少年は、吉郎に向かって、その右手を差し出してきた。なよやかでほっそりとした、しなだれかかるような白い腕が、陽光に照らされて輝いている。吉郎は、いざなわれるように、その手を取った。その肌は、まるで薄絹のような手触りであった。

 少年は、踵を返すと、砂利道の向こう側へ歩き始めた。手を引かれるままに、吉郎も後をついていく。

 その少年は、茂みを前にして立ち止まった。そこには、花開く時を待つヨネンランが群生している。少年は握った手を離した。自由にされた吉郎の左手は、滲んだ汗が冷気に晒されて冷え始めた。

 来年は、ヨネンランの咲く年だ。あと二月ふたつきもすれば、黄色い花が咲き誇る華やかな光景が見られるであろう。群生するヨネンランは、今か今かと開花の時を待ちわびているかのように見えた。

 途端に、甘い香りが吉郎の鼻孔をくすぐった。香りの元は、まさしく目の前の少年である。吉郎は、頭の中がぼうっとするのを感じた。鼻孔から取り込まれた香りが、頭をとろかしていくかのような……

 少年は真っ直ぐと吉郎を見つめながら、その背に腕を回してきた。前に、手に持った青大将あおだいしょうが腕に絡みついてきたことがあったが、その感触に似たものを吉郎は感じた。鼻を包む甘い香りは、より一層強まっている。

 吉郎は、少年に応えて、その細い体を抱き返した。



 前野吉郎の母と祖父母は、いつまで経っても息子が帰ってこないことに業を煮やして、駐在の警察に通報した。吉郎の捜索は、人員を増やしながら続けられたが、年が明けても、その行方は全く分からなかった。見つかったものと言えば、小川の川岸にあった、釣り竿と魚籠びくぐらいなものである。

 帰省した父は、息子の姿のないまま、悲嘆に暮れる正月を過ごした。その心中は察するに余りあるものがある。結局、陰鬱な面持ちのまま、汽車に乗って東京の職場へ戻っていった。


 年が明けてから二月ふたつきして、ヨネンランは開花の時を迎えた。里のあちらこちらで、見事な黄色い花が咲き誇っている。

 例の群生地の前で、一人の老人が佇んでいる。老人の容姿は、村に建っている徐福の像にそっくりであった。老人は、絢爛けんらんな花々をじっと見つめながら、ぼそりと一言、呟いた。

「肥やしを得たか」

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四年草 武州人也 @hagachi-hm

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