真夏の思い出

相原みー

第1話

 妹を誘拐した。

 この日のために私が中学の頃からためてきた十万円。父親の財布からくすねてきた十万円。計二十万円。これが私と明日香の逃避行の軍資金だ。

「お姉ちゃん見て! 海!」

「おおー。そうだな、明日香」

 現状を理解しているのかそうでないのか、妹の明日香は歩道から砂浜へと続く階段を駆け下り、砂の上に飛び降りた。きっとスニーカーの中に砂が入り込んでいるだろうにお構いなしだ。

 歩き通しでコンクリから照り返す日光にもいい加減耐えかねていた。売り切ればかり自販機があったバス停ベンチで休んだのが、およそ二時間前だったっけ。妹の無尽蔵な体力に、姉ながら感心する。

 明日香が波打ち際で自分に向かってくる輝く波にきゃっきゃと賑わいでいるのを見ると、その瞬間だけは私も今後のことを忘れられる。その光景は「真夏の思い出」というタイトルで額に飾っておきたいくらいだった。もし明日香が今疲れて眠ってしまっても、あと数十キロくらいは背負って歩けるだろう。

 私たちは家出をした。

 家は私たち姉妹二人と、父親の三人暮らし。でも、あの男を家族と思ったことは一度もない。

 仕事はせずに一日中テレビを見てる置物。そんな置物のくせにお母さんの遺産を酒で飲み潰して、酔っ払えばいつも私に手をあげる。酔っているなら、顔でも殴ってくれたら学校も黙ってはいないだろうに、小賢しくもあいつが傷つけるのは私の衣服に隠れて他人には気づかないようなとこばかり。

 何回こいつを警察に突き出そうと思ったか知れない。中年体型の肉ダルマは豚箱に行くのがお似合いだろうと思いつつ、私を殴る時にいつも言う脅し文句がそれをギリギリのところで思いとどまらせた。

 要は「もし余計なこと言ったら、お前の妹タダじゃおかない」と脅されていたんだ。

 脅し文句に決まってる、なんて思えるはずがない。あの肉まんは今は私に暴力を振るうだけだけど、いつその矛先が妹に回るか分かったものじゃないんだから。それが、私がこの世で一番恐れている事態だった。

 だから、それが私が殴られている間だけ免れるなら、仕方ない。これは暴力に屈したんじゃない。ただの取引だ。

 そう思い込むことでしか、私は自尊心を保てなくなっていた。

 仕方ない。私と妹は非力で、相手は大人だ。いつか私が妹を連れて家を出て行けるまでの辛抱。今はまだ耐えるんだ。

 私が殴られているだけで、全部が大丈夫なんだから。

 だけど、そう思っていたのは私だけ。豚に人間的な交渉を求めた私が馬鹿だった。

「どうしたの、お姉ちゃん?」

「明日香が可愛くて見惚れてた」

「もー、何言ってるのよお姉ちゃんってば」

 何を言っているのかと問われれば、ただの真実だと言うより他ない。この海だって可愛いの象徴の妹がやってきたから、こんなに光を輝かせて歓迎しているんでしょう?

 砂浜を駆け回る妹を私は歩いて追いかけた。まだ中学に入学したばかりの明日香は、同じ年の子よりも若干精神年齢が低いように思う。私がその歳の頃は、妹を守ることばかりでもう色んなことに興味をなくしていたから。

 私にとっての唯一の家族は明日香だけ。彼女を守るためだったらなんだって出来る。もし明日香を「普通」な生活に戻せるのだったら、私は自分の命を差し出したって構わない。

 だから、豚の命なんて失われたところでなんの罪悪感も覚えなかった。

 あれは人間じゃない。

 あの豚は私がサンドバックになっている間は手を出さないと誓った約束を、いとも簡単に破った。

 いつの間にか砂浜にしゃがみこんでいた明日香は、そこらの砂をかき集めて山を作っていた。私も手伝おうかなと前かがみになったけど、その時にワンピースの袖口から覗く白い腕の根元に、一瞬思考が停止する。

 雪のように白いきめ細かな肌。そこに不自然に浮かんだ赤黒い痣。嫌という程に見慣れた、それは人に殴られた跡だった。

 家に帰ってきたら、泣きじゃくる明日香。虚ろな目でテレビを観てタバコを吹かす豚。記憶に残っているのはそこまでで。

 その次の記憶は、手中の台所用包丁。蹲った肉まん。部屋の隅で、私を見て怯えている妹。しばらくその光景をぼーっと眺めて「ああ。もっと早くこうしておくべきだったんだ」と、驚くほど心は凪いでいた。

 私は妹を連れて、いつか必要になると用意していた家出貯金と父親の財布から札をあるだけ取り出して、家を出た。あの豚が死んでいるか確信がなかったし、今思えばトドメを刺しておくべきだったと若干後悔している。けどこの家出生活ももう五日目。概ね及第点といったところだろう。

 私は明日香を後ろから抱きしめた。力を込めたら、彼女の手元の砂山よりも脆く崩れそうで、ほとんど身体に腕を乗せるくらいの力加減だった。

「……お姉ちゃん?」

「んー。どしたー」

「どうしたの? 暑苦しいよ」

「そうだなー。お姉ちゃんも暑いぞ」

「むー」

 不満そうな声を上げながらも、明日香は腕を窮屈そうに動かして砂山の周りから砂をかき集める。私は目を瞑り、彼女の首筋に額を当てた。

 こんな時間が永遠に続くなんて思ってない。私たちはいつか軍資金が尽きるか、それとも善良な市民の通報によって公的な機関に身柄を押さえられるだろう。そんなことくらいはわかる。その後は、父親を刺して妹を連れ回した私は、タダじゃ済まない。

 だけどこれは、私達が「普通」の姉妹でいられる。最後の時間なんだ。

「なあ、明日香」

「なーに?」

「大好きだ」

「……うん? うん、私もお姉ちゃん大好きっ!」

 ジリジリと、少しずつ身を焼くような日差しを背に感じながら。もう少しだけこの時間が続きますようにと、いるはずもない神様に願った。

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真夏の思い出 相原みー @miiaihara

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