05 アキレス

 教室内には十人ほどの男女がまだ残っており、二、三のグループを作って楽しそうにはしゃいでいる。


「アサダ」


 先生の呼び掛けに、一人の女子が、


「うえーーーーい」


 とふざけた返事をしながら、ぴょこんと頭を上げた。

 背丈はボスより少し高いくらい。いや、もっともっと高いかな。比較対照がボスだからであって、四年生の中ではからり小柄な方だろう。くりっとした釣り目と、への字口が印象的な女の子だ。


「五年生なんだけど、お前に話があるんだってさ」


 と、先生がわたしたちを指差した瞬間、アサダと呼ばれた子の顔色が変わった。


「五年生?」


 ひっくり返った声を出しながら立ち上がった、と見えた瞬間には踵を返し教室の後方へと走り出し、ずららああっとヘッドスライディングで机や椅子でこちらから見えにくい中へと姿を消してしまった。


「さすがアキレス。素早いな。つうかほんと気が小さいな」


 先生が感心したものかバカにしたものか決めかねているうちに、


「アキレス?」


 わたしは尋ねていた。


「あいつ、とにかく足が速いんだ。速く走れるぞってのが売りの靴あるだろ、去年の大運動会のリレーで、そういうのを履いてる男子たちを裸足でごぼう抜きしちゃったんだよ。それから、そう呼ばれているらしい」


 と説明されても、何故アキレスなのかよく分からないのだが。

 あだ名の由来はともかくとして、確かにもの凄い素早さだったけど。


「気に入ったあ。おい、アキレス! ちょっとこっち来い!」


 ボスはにっと笑うと、早速あだ名を大声で呼び付けた。


 教室後ろで、ひいっという声が聞こえた。

 アキレスが怯えているのだろう。


 クラスの他の子たちが、ぽかんとこっちを見ている。

 その気まずさというか気恥ずかしさの中、わたしはボスの態度を優しくフォローしてやった。


「別になんにもしないから、上級生ってだけでそんな隠れないでよ。ちょっとお話があって来ただけ」

「むしろ隠れると、火をガンガン焚いて煙でいぶり出すぞお! でもあたし優しいからな、燻製になるか大人しく出てくるか、お前に選ばせてやる!」


 ああもう、すぐそういうこというんだから。

 せっかくフォローしてあげたのに台無しだよ。


「野球やらない? って、誘いに来たんだ」


 わたしの裏で大きな身体をじっとさせていたドンであったが、進まぬやりとりに痺れを切らしたようだった。


「野球?」


 教室後方の草藪(?)から、落ち武者のいぶかしげな声だけが聞こえてきた。

 警戒心はそのままながらも、少しこっちに興味を持ってくれたようだ。


 最初から野球といっておけばよかっんだな。ダメだな、ボスもわたしも。


「林先生から、四年生だけどいい子がいるよって紹介されてね、それで会いに来たんだよ」


 わたしは、ドンの後に続けた。

 しかし、落ち武者の隠れているはずの藪に集団で矢を乱れ放った後のように、しーんとした静寂。

 息遣いどころか心臓の鼓動すら聞こえそうな。


「野球っスか?」


 静寂の中で音も立てず姿も見せずにいつ藪を抜けてきたのか、アキレスがいきなりわたしたちの前にすうっと立ち上がった。


「わ」


 と、わたしは驚いてびくり肩を震わせたが、


「どわああああっ!」


 ボスの驚き具合に比べれば可愛いものだった。


「わあああ!」


 その驚き声に驚いて、またアキレスが踵を返して逃げ出そうとする。


「もう、逃がさねえんだよお!」


 ボスは怒鳴り、背中からがっと肩を掴んでアキレスを床に押し倒した。腕を取り、足をからめてぐいーっと引っ張った。いわゆる腕ひしぎ逆十字だ。


「痛い痛い痛い!」


 アキレスは苦痛に顔を歪め、必死にばんばん床を叩いた。

 二人とも小柄だから小学低学年の喧嘩にしか見えないけど、低学年はこんな高度な技で喧嘩しないよな。


「驚かせやがって! おとなしくチームに入りゃいいんだよ!」

「分かりました! だから助けてえ!」


 交渉成立したからか、人を哀れむ気持ちがボスにも芽生えたのか、アキレスの言葉にようやく締め付けを緩め、技を解いた。


「さっきの、どういう、ことっスか?」


 はあはあと息を切らせながら、アキレスは尋ねた。どんな俊足であろうとも、取っ組み合った時の体力は別だからな。


「さっきの? ああ、寝技に入るモーションのことか?」

「違いますよ! 野球のことっス」

「てめえ、入るっていったじゃねえかよ! まだぐだぐだいう気か! 今度はどんな技がお望みだあ!」

「ごご、ごめんなさいすみませえん! ……でも、でも、うちまだなんにも話を聞いてないからっ!」


 確かに、この子のいう通りだ。

 いきなりささっと隠れてしまったこの子にも原因があるとはいえ、まだなにも話をしていないようなものだし、明らかにこっちが悪い。こっちというより、ボス一人がだけど。


「わたしたち、野球やりたい女の子を集めてチームを作ることになったんだけど、選手が全然足りなくてね。林先生から、いい子がいると紹介されて、どんな子なんだろうと会いに来たんだ」


 わたしは説明した。

 アキレスはボスに胸倉掴まれたままぽかんと口を開いていたが、やがてきゅっと口元を結び、しばらくするとゆっくりとその唇を動かした。


「試合は、やってみたいっスけど……」

「お前、やったことないのかよ!」


 ボスが、掴んでいるアキレスの襟をさらにぐいっと締め上げた。


「草野球なら、お兄ちゃんたちに混ざって、よく、やってましたけど……ぐるじい」

「上等! あたしなんか草野球すらやったことない!」


 ボスは叫びながら、さらにぐいーっとアキレスの襟を締め上げた。批判でないならその襟の締め上げはなんなんだ? アキレスが可愛そうだろう。

 でもそれは、いまのわたしにはどうでもいいことだった。


「えーーーっ! そうだったんですか、ボス!」


 どうりで野球のこと知らなかったわけだ。

 と、そっちのことにこそびっくりしていたから。


「ひょっとしてこの前やった三角ベースが……」

「初めてやった、試合っぽいものだ。それまで、川に小石を投げたことくらいしかない」

「はあ」


 よくそれで、チームを作ろうなんて思ったものだ。

 凄いな。ある意味。


「いま、凄いなある意味って思ったろ!」


 いきなり超能力に目覚めたか、ボスがわたしの首をぎゅーっと締めて来た。


「思うのが、当たり前だと、思いますう。……苦しい」


 解放された後も、げほげほ咳き込むわたし。

 ああ、死ぬかと思った。


「それで、どうする? 来て、もらえないかな?」


 少し苦しさがおさまったところで、またわたしはアキレスに尋ねた。


「興味はありますけど……」


 おどおどした表情を、ちらと一瞬ボスへと向ける。


「なんだその面はあ! 釜で煮るぞお!」

「ごめんなさああい」


 すっかりボスにおびえちゃっているよ。もう、余計なことばかりいうから。


「足がとても速いんでしょ? センター向きの子がまだいないから、来てくれると助かるんだけどな。ちょっと練習参加してみて、合わなかったら辞めても構わないから」

「それだったら……」


 と、アキレスのおどおど顔がちょっとだけ緩んだ。


「甘いんだよ! 軟弱者のおままごとの場を作るんじゃねえんだぞ! つうかコオロギ、お前が仕切るなあ! 何様だあああ!」


 ボスは、わたしへとジャンプして身体を巻き付かせた。飛び付き腕ひしぎ逆十字だ。


「痛いっ! ボス痛いっ!」


 飛び付かれたまま床に倒れ、わたしはそのままぐいぐいと腕を締め付けられた。


「仮にも野球チームを作ろうと志す者が、選手にいちいち関節技をかけないで下さあい!」

「やかましい。これが正しい腕の筋肉の鍛え方だあ!」

「いたたたたた!」


 暴君の乱心ぶりに、見下ろすアキレスの顔に無数の縦線が走っている。こんな連中の仲間になって大丈夫なのだろうか、と。そんな感じの。


 なるべくわたしたちがクッションとして間に入って、直接的被害が出ないように守ってあげるしかないな。ボスの横暴から。


 俊足というだけで充分な武器だから、その上で草野球の経験があるのならぜひ仲間に入れたいから。

 この子がどんな守備をし、どんな走塁をするのか、見てみたいから。


 とにかくこのようにして、七番目の入団者が決まったのである。

 あさ、四年生。

 通称アキレス。

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