03 ルール、知ってます?
仕方がない。
目立たないようにやり過ごそう。
頑張り過ぎても生意気だとからまれるかも知れないし、手を抜いてもバカにされたと思われるかも知れないし、塩梅が難しいところだ。
いや、相手は男子。
どうせかないっこないのだろうし、それなら本気で行くか。きっと、それが一番目立たない。
打順は、わたしからだ。
男子が持ってきていたバットを借りて、靴の爪先で描いたバッターボックスに立った。
先ほども説明したがこの試合にキャッチャーはいない。
すぐ後ろにあるフェンスが、その代わりだ。
ここは首都圏であるとはいえ田舎町であり、フェンスの向こうには果てしなく田んぼが広がっている。
「打てよお。いきなりでっかく、サヨナラホームランぶちかましてやれえ!」
女の子が、両手をメガホン代わりに叫んだ。
え?
とわたしの胸の中に驚きの声が上がっていた。
もしかしてこの子、野球のルールを知らないの? と。
ひょっとして大きく飛ばしてボールがどこか行ってしまうから、だからサヨナラだと思っていないかと。
まさかね。
男子にあれだけの大口を叩いておいて、野球を知らないはずないだろう。
わたしは気を取り直すと、バットを短く持ち、構えた。
初球、ピッチャーは大きく振りかぶり、投げた。
ストレート、ど真ん中だ。
わたしは、ぴくりとも動かなかった。
まずは様子を見たのだ。
「なんで振っとかないんだよ! 三回しか振れないんだぞ! ルール知ってんのか? もったいない!」
やっぱり、野球をまるで知らないんだ。
セオリーを知らないどころかルールすら理解していない。まあこれは正式な試合ではなく少人数での三角ベースだから、それが結果に大きく影響することもないと思うけど。
それより気になるのは、初心者なのにバットを振れるのかどうか。男子の投げるボールを見切ることが出来るのかどうか。
まあルールは知らなくとも、バッティングやキャッチボールは得意なのかも知れないけど。
と、他人を心配している場合じゃない。今は自分の打順なのだから。
ピッチャーが投球のモーションに入ろうとしているのを見て、わたしは慌てて構え直した。
ボールが手から放たれ、ぐんとこちらへ向かって来た。
そこそこの球速。
だけど女子だと思って甘く見ているのか、またはコントロールに自信がないのか、さっきと同じど真ん中だ。
わたしはくっとバットを引いた瞬間、腰のバネとともに振り抜いた。
いい感触が、バットから伝わってわたしの全身の骨を震わせた。
バットを投げ捨て、一塁へと走る。
ボールはピッチャーの頭上を通り越し、一塁二塁のちょうど真ん中に落ちて大きく跳ね上がった。
一塁手が後ろへ走りながら落下してくるボールを受け、その間にピッチャーが一塁ベースへカバーに入った。
次の瞬間、一塁手からのボールがズバとピッチャーのグローブにおさまったが、既にわたしは一塁ベースを踏んで駆け抜けていた。
「ヒットぉ!」
女の子が両腕を振り上げ、元気よく叫んだ。
わたしは息を整えながら、一塁ベースへ戻り、立った。
あえて無表情をよそおいながら。
心の奥からなんだかぞわぞわと込み上げてくるものがあり、それを隠そうと表情を殺していたのである。
もしかしたら、女の子の元気に影響を受けたのかも知れない。
いまのいままで、罰ゲームのような重圧が全身にどろどろ纏わり付いていたというのに、一発のヒットで身体の芯から嬉しさが込み上げてきていたのである。
笑顔を見せる気恥ずかしさを必死に堪え、わたしは無表情をよそおい続けた。
「くそ! 畜生!」
ピッチャーは女子に打たれた悔しさか、何度も地面を踏んだ。
あまりの剣幕に、高揚したわたしの気持ちは一瞬にして再び畏縮。表情を隠すまでもなくおどおどとした感じになって、消えてしまいそうなくらいに肩を縮めた。
そんな弱者故の心の機微になど一生理解無縁そうな、女の子が打席へと向かった。
「次はあたしの番だ」
不敵な笑みを浮かべ指をぽきぽき鳴らそうとしていたがまるで鳴らず、自分の指と悪戦苦闘していたが、やがて諦めてバットを拾った。
「ホームランで一気に試合を決めてやるぜえ!」
指の鳴らなかったのをごまかすように、素振りしながら叫んだ。
「一塁ずつ一塁ずつ。ホームランないから」
わたしは説明してあげたが、聞こえてないのか理解出来ていないのか、女の子は即興らしいホームランの歌を歌いながらバッターボックスに入り、構えた。
バットは幼児向けではないため、小柄な身体となんともアンバランス。バットを構えているというより、バットになにかがくっ付いているような感じだ。
ピッチャーはすっかり舐めきったような笑みを浮かべると、大きく振りかぶり、投げた。
「ド真ん中ッ!」
女の子は叫び、ぶうんとバットを振った。
気持ちいい音が響いた。
ボールがぐんぐん飛んで、遥か向こう、北校舎のある方へと消えて行く。
本当に、ホームラン級の凄いのを打ってしまった。
野手が必死に追い掛けるも届くはずなく。
わたしたちは、歩いたって余裕で一塁二塁だ。
確かに投球はど真ん中だった。
きっと、わたしの打順の時にピッチャーの癖を見抜いていたんだろうな。
しっかりバットの真っ芯で捉えていたし、野球を知らないだなんてちょっと失礼なこと思ってしまったな。
などと心に呟きながら、くすぐったいような気分で二塁へと歩いていたら、
「ちんたらしてんなあ! 走れよおお!」
女の子が一塁を蹴って、回って、なんとこちらへと雄叫びを上げながら暴走機関車のごとき勢いで突っ込んできた。
「ええーーーっ!」
わたしは漫画のような驚き声を発し、飛び上がっていた。
すっかりわけが分からなくなって、追われるがままわたしも走り出していた。
押され押されて二塁を蹴って回って、もうどうにでもなれとばかり三塁へと全力で腕を振ったところ、戻ってきたボールを連続タッチされて二人ともアウトになった。
「最初から本気で走ってりゃ二点だったのに!」
女の子は小さな全身で激しく怒りを爆発させ、わたしを睨みつけた。
「無理ですよお。というより、一塁ずつしか進めないルールだっていってるじゃないですかあ」
泣きそうな声のわたし。
実際泣き出したい気持ちだった。
「野球にそんなルールはないだろ!」
「これ三角ベース。仮に野球だとしても人数少ないんだから、合わせてルールも変わりますよ」
「……透明ランナーとか?」
「そうそう、なんでそんな変なのだけ知ってるんですか」
「てめえ、あたしが全然野球を知らないみたいに!」
小さい身体からぐっと伸びた腕に、わたしは首を掴まれぐいぐいと絞められた。
「だって本当に知らないじゃないですかあ。先攻なのにサヨナラとかあ」
「五分も六分も大昔のことネチネチと! あれはあたしも気付いたんだよ、いった瞬間にさあ。なんだよ、犬の首を取ったみたいに」
「鬼の首! 犬じゃリアル過ぎて想像しちゃうじゃないですか。それよりも、苦しい……」
不本意かつ不毛なやりとりは、男子の大声に掻き消された。
「おっしゃ、チェンジチェンジ!」
いつの間にか海子が三球三振し、わたしたちの攻撃が終わっていたのである。
「無得点じゃねえか。どうしてくれんだよ、おい!」
女の子が、腹立たしげにわたしの胸をどんと突いてきた。
「そんなこといわれても……」
悪いのは百パーセントそっちじゃないか。一塁ずつだって何度もいってるのに。とかいうと、ネチネチうるさいって文句いってくるし。
「こうなりゃあ仕方がねえな。絶対に無失点に抑えて、延長戦に持ち込むぞ。おーっ!」
女の子は、一人元気に腕を突き上げた。
「あの、午後の授業は?」
わたしは、おずおずと尋ねた。
「知るか。気になんなら別に後日再戦でもいいだろ、こまけえことぐちぐちうるせえよ。面倒臭え奴だな」
「ごめんなさい……。それで、ピッチャーは誰が?」
「お前、やったことある?」
わたしは問い掛けに、首をぷるぷる横に振った。
「お前は?」
「ないですないですう」
海子も、凄まじい勢いで首を振る。
「じゃ、あたしだな」
「やったこと、あるんですか?」
「ねえよ。だけど、誰もないなら誰かやるしかねえだろ。お前ら度胸なさそうだもん。あたしが投げるしかない」
確かに、わたしらはともかくというか当然として、この子は反対に度胸の塊で身体も骨格も性格も、存在のすべてが出来上がっている気がする。
「おい、早くしろよ!」
男子がじれったそうな声を上げた。
「うるさいな、もう終ったよ。お前らの鼻から花粉も出なくするような作戦を立ててたんだよ」
それどんな作戦!
もしかしたら、ぎゃふんといわせると、ぐうの音も出なくするを、勘違いしたまま混ぜていないか。
など気にしていても仕方がない。
どのみち作戦などなにも立てていないし。誰がピッチャーかを決めただけだ。
残りのポジションはすぐ決まった。わたしが二塁、海子が一塁だ。
一塁にいる方が常に相手の攻撃を処理しなければならないが、ボールを投げることが二塁より少ないだけまだましだろうという理由だ。
こうして、男子の後攻が始まることになった。
一点でも取られたら、その瞬間にわたしたちの負けだ。
男子が一人、バッターボックスに入り構えた。
「本気でこいよ」
「ザコに本気なんざ出すまでもねえけど、見たいなら見せてやるよ!」
女の子は豆粒のように小さな身体で大袈裟なほどに振りかぶると、おおおりゃああああと大絶叫しながら右腕をぶんと振り下ろした。
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