魔法を使えば私の人生は神ゲーになりますか?

コショー

自己実現の彼方

 人生はクソゲーだと揶揄されることがある。

 例えば、初期リスポーン地点が違うとか、配られる手札が違うとか、制限時間が違うとか。

 やりたくない事をやらされた挙句上の誰かと比べられ、よしんばやりたい事をやったところで必ず誰かの足跡をなぞる。

 どれだけ努力しても頂にはたどり着けず、かと思えば自分以外の誰かにいつの間にか踏み抜かれ。

 後退は許されず、交代もできず、後悔したら置いていかれ、勾配を転げて老いて逝く。

 鳴かず飛ばずの不平不満が集まって、曰くクソゲー。


 では、そのクソゲーを神ゲーとして生きるには、何が必要なのだろうか。

 例えば、バラまいて偽善に耽れるほどの資産があり、天に賄賂を渡したような才能があり、表向きやるべき義務もない自由な人生がつくられたとして。

 そこに神ゲーのダウンロードページは存在しているのか。


 否である。


 火のない所に煙は立たぬと言う。

 革命は圧政への不満があって初めて起こるように。

 空腹は食事の必要があって初めて自覚するように。


 欲求は、手に入らなくて初めて覚えるものだ。


 全てを持つが故に、全てが要らない。

 マズローの欲求5段階説風にいえば、これは自己超越に当たるが、私は決して自己超越者と呼ばれる存在ではないのだろう。

 言うなれば、限界であり、上限であり、頂であり、成れの果てである。


 真っ白な部屋の中、白衣を着た大人たちが、ベッドに横たわる私を取り囲み、今までの人生について問いただしてくる。

 このヒトたちが聞きたいのは、私の人生におけるハイライトなどではなく、ただ純粋に楽しかったかどうかだ。

 そこに私への配慮や気遣いなんてモノはあろうはずもなく、内に秘めるのは、期待と興奮。

 自分たちの長年における研究成果が今、最後の結論を述べようとしているのだ。当然の感情だろう。

 だから私も、人生におけるごく一般的な当然の感想を投げるとしよう。


「クソゲーでした。とっても。」


 研究者たちの顔を一瞥することもなく、瞼を閉じる。

 結局人生なんて最初からクソゲーで、これを神ゲーにするには環境ではなく各々の心持ちが重要なんだ、と。

 月並みな結論を胸に抱いた自分に少し嬉しくなりながら。

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