5 はざまの森
まだ朝の空気が残る森はどこか湿っぽくひんやりとしていて、静かだった。
杖を手にしたモナルダの背中を追って、ダリアは木々の間へと飛び込んだ。地面を覆う落ち葉が足の下で鳴る。見渡す限り緑、そして茶色。その二色の中に揺れる、魔法使いの鮮やかな赤い髪は、そこだけぽっかりと光が当たっているようにさえ見えた。
かさり、かさり、かさり、かさり。黙って歩く三人と一匹の足音だけが響いていた。
「……さてと、この辺りだね」
どのくらい歩いた頃だろう、モナルダが呟いて足を止めた。
見回すと、少し木立が途切れて木漏れ日が射し込んでいた。よく見れば少し先の地面が盛り上がり、落ち葉がない部分にごつごつとした黒い岩場が剥き出しになっているのが見えた。
「ここは……?」
「この世ならざる世界……魂の世界への入り口だよ」
「魂の、世界……」
息を呑むダリアに、モナルダは振り向いて微笑んだ。
「そう。魂だけのものたちの世界、命と《うつわ》を持つ人間たちのものではない世界だよ。もちろん、この入り口は誰にでも通れるようなものじゃあない。森で迷ったとしても、あんたたちのような人間があちらへ迷い込んでしまうことなんて、まずない。だから安心していいよ。……この森は、人間の世界と人間ではないものの世界との「はざまの森」。そして、そのふたつの世界を繋ぐ「はざまの住人」が、私たち魔法使いなのさ」
ざわ、と風が鳴った。梢が揺れ、木漏れ日が揺れ、岩場の上を陽光が踊る。モナルダは自らの後頭部に片手をやると、髪を束ねていた紐を無造作に解いた。赤い長い髪がマントの上にばさりと広がり、風に流れて揺れる。
「……来たね」
モナルダが呟いた時、小さな羽音が聞こえてダリアは空を見上げた。木漏れ日と一緒に降るように、小さな影が一直線にこちらへ飛んでくる。
差し伸べた魔法使いの指に舞い降りたのは、小さな青い小鳥だった。
「紹介しよう。この子はアイ、私の相棒だ」
青い小鳥は宝石のような瞳をくるんと輝かせてダリアを見た。……いや、「宝石のような」などではなく、その瞳は紛れもなく宝石そのものだった。透き通って輝く空色の石が嵌め込まれた小鳥の身体は、ぱっと見ただけでは本物の鳥と見紛うほど繊細な、木彫りの細工だった。
「これも、魔法……?」
「そう。精霊の力を貸してもらうために、こちらの世界にいられる《うつわ》を作って協力関係を結ぶんだ。ソホが精霊だという話は聞いたかい? このアイも同じようなものさ。尤もソホは作り手が違うから……アイの体は昔私が作ったものだから、出来に差はあるけれどね」
モナルダの言葉に応えるように、アイはちょんと可愛らしく小首を傾げてみせる。木彫りとは思えない滑らかな動きでぱたぱたと羽ばたき、モナルダの持つ杖の先に止まった。
「あちらの世界は彼らの領分だ。彼らが道を開き、案内してくれる。さあ、ダリア、心の準備はいいかい?」
「……はい」
魔法使いの赤い目と、しっかりと頷き返したダリアの鳶色の目と、ふたりの視線が交差する。モナルダは微笑んで頷いた。
「よし、いい返事だ。チィ、ダリアと手を繋いで。ソホからも手を離すんじゃないよ。気を付けて、しっかりとついておいで」
「うんっ!」
力強く頷いて、チコリはダリアの手をぎゅっと握る。小さな手だけれどなんだか心強い。チコリのもう一方の手は、隣にすり寄る大きな犬の背に添えられていた。
魔法使いが杖を掲げる。さっきまでは長い木の棒にしか見えなかった杖が、ぼんやりと赤い光を帯びた。その杖で岩をとんと突くと、今度は岩がカッと光った。アイが杖の上でその小さな翼を広げる。赤いような、青いような、いや、黄色も白も黒までも混ざっているような、不思議な光が辺りに満ちる。風がダリアの頬を撫でて、髪を揺らして吹き抜けていく。木々がざわざわと音を立てて揺れ、枝や葉が擦れる音が降ってくる。魔法使いの長い髪も、強い風にわあっと巻き上げられる。まるで炎のような赤が煌めいた。
気が付けば、そこにはぽっかりと口を開けた、大きな穴があった。
穴の中は真っ暗で、森の中以上にしんと静まり返って、微かに乾いた冷たい風が吹いてくる。そこはまるで、命あるものたちが足を踏み入れることを拒んでいるような……そんな空気に、ダリアは背中がすうっと寒くなるのを感じた。
私はここに入ってはいけないのではないか。
魔法使いが、先を照らすように杖を掲げたままその中へと歩き出す。まるで、何も感じていないかのように、家の中を歩いているのと全く変わらない足取りで。ソホもそれについて足を踏み出す。そして、足を竦ませるダリアの方を一度振り向いた。
その鋭いトパーズの目は、大丈夫だと力強く言っているように見えた。
小さな手に引っ張られて、ダリアも覚悟を決めた。
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