4     朝陽の射す居間

 翌朝。眩しい陽射しが顔に当たって、ダリアは目を覚ました。


(あれ……? なんで、いつもより明るい……)


 寝ぼけている所為で、一瞬、自分が今いる場所が分からなかった。ここが我が家の自分のベッドではないことを思い出し、飛び起きた。


(魔法使いの……!)


 窓の外の陽はまだ低く、さほど寝過ごした訳ではないらしい。けれど農村の朝はいつももっと早いのだ。焦って身支度を整え、廊下へと飛び出した。階段を駆け下り、踊り場から居間へと顔を出す。


 居間はまだ静まり返っていた。


「あれ……」


 思わず声に出して呟いた。室内を照らしているのは天窓から射す陽の光だけで、暖炉の火も入れられていない。夜明け前と変わらない、しんと冷たい空気が漂っていた。奥の台所からも物音はなく、とても静かな空間だけがそこにあった。


 意外に思いながら、なんとなく暖炉へと向かう。秋の朝は空気が冷えているし、暖炉に火をいれるくらいなら自分がやっても構わないだろうと思ったのだ。


 暖炉前の敷物の上には、またあの大きな犬がいる。きっとこの場所がお気に入りなのだろう。彼のためにも部屋を暖めてあげようと歩み寄ると、伏せていた犬がふと顔を上げた。その目と視線が合ったような気がして、ダリアは何気なく犬に声をかけた。


「おはようございます、ソホ……でしたっけ」


「ああ。お前、朝早いな。あいつら朝苦手だからまだ暫くは起きてこないぞ。きちんと眠れたか?」


 あまりにごく自然に返ってきた声に、ダリアは目を丸くした。自分の耳を疑う。


「どうした? ……ああ、そうか、驚いたのか。お前らのような人間は、口をきく犬なんか初めて見ただろうからな」


 くっくっと喉を鳴らして笑う、低い男性のような声が、確かに目の前の犬から聞こえた。


 ソホと呼ばれた彼は、立ち上がってその綺麗な茶色の毛並みに覆われた鼻面をすっとダリアにすり寄せる。ふさふさの長い尻尾をひとつ振って、トパーズのような瞳を楽しそうに煌めかせて、ぽかんとして座り込むダリアを眺めていた。


 ダリアはやっと絞り出すように、尋ねた。


「あなたが、ソホ……?」


「そうだ」


「あなたは……何、なんですか?」


「何に見える」


 口を閉じてさえいれば、どこからどう見ても、ただの茶色い長毛で垂れ耳の大型犬にしか見えない。強いて言えば、普通よりひとまわり大きいだけ。けれど、これが普通の犬であるはずはなかった。


「俺は確かに犬じゃない。といって、人間でもない。お前ら人間の言う「精霊」ってやつだ」


「精霊……」


 魔法使いならともかく、農村で普通に暮らしている「普通の人間」にとって、精霊を見る機会などない。精霊たちは普通肉体を持たず、人とは関わりもなく暮らしているのだから。


「ある物好きにこの《うつわ》を作ってもらってな。そいつも俺と同じく所謂「精霊」なんだが、まあ、なんだ、かなり変わり者だな。気儘な風でありながら、人間のように暮らしてみたくて人間の体を作っちまった奴だ。……そんな奴が、モナルダの魔法の師匠でもある」


「魔法使いさんの?」


 ということは、その「師匠」も精霊でありながら魔法使いということなのだろうか。


 いや、そもそも魔法使いとは何なのだろう。


 ダリアを含め、普通に暮らす人々にはあまり魔法使いとの関わりはない。魔法使いは森や人里離れた所に住んでいて、病のときに薬を買ったり、何かあったときにまじないや占いを頼んだりするくらいだ。魔法使いのことを、彼女は何も知らない。魔法使いがどんな暮らしをしているのかも、人間であるのかどうかすら……


「モナルダは人の子だぞ」


 少し不安になって恐る恐る尋ねたダリアに、ソホはあっさりと答えた。


「あいつは俺らとは違う、単に奴が拾って育てただけだ。昨夜お前にあんな偉そうな口を叩いていたあいつにも、お前より貧相なガキだった時代もあったんだぞ」


 そう言うソホはどことなく楽しそうで、そして優しい表情をしているように見えた。


「魔法使いさんは、ソホさんにとってどんな人なんですか?」


「月並みな表現になるが、人間の言う兄弟のようなものだな。あいつが俺にしてくれることもあれば、いつまでも俺が面倒を見てやらなきゃならないような、放っておけないところもある。例の奴……モナルダの師匠は、俺にとっても世話になった奴だし、そういう意味でも兄弟、いや妹みたいなものだな」


 ソホはふんと鼻を鳴らした。そして、お前はどう思うんだ、と目でダリアに問いかける。


「……私には、魔法使いさんは私のお姉ちゃんに似ているように思えます。でも、同じくらい、お兄ちゃんにも似ている気がするんです。不思議ですね」


「なんだ、それは。男だか女だか分からないってやつか」


「それも少しありますけど……お兄ちゃんみたいに力強くて頼もしいところと、お姉ちゃんみたいに明るくてあったかくて優しいところと、魔法使いさんは両方持っている気がするんです」


 兄と姉の顔を思い出して、ダリアは思わず目を伏せた。ろくに相談もせずに森に飛び込んでしまった。母の弔いで大変な時だから、手を煩わせたくなくて、黙ってここまで来てしまったけど、きっと却って余計な心配をかけてしまっただろう。そう思うと、申し訳ない。


「お前には兄弟がいるのか」


「はい、兄と姉が一人ずついます。二人とも私とは年が離れていて、私にとっては親代わりでもありました。何年か前に、お兄ちゃんは隣村からお嫁さんをもらって、お姉ちゃんは幼馴染みだった人のところにお嫁に行って……私も、いつかあんな風に家庭を持つのかなってふと思うんです。まだ、何も実感はないですけど」


 ぼそりと呟いたダリアに、ソホはふっと鼻で笑った。


「それを実感するのは、ガキには難しいさ。人間じゃない俺にはお前らの年齢はよく分からんが、お前、いくつだ」


「一六です」


「モナルダの半分以下か。そりゃあガキだな。所帯を持つだの子供を持つだのって話はまだ先だろ」


「もう、そんなに先でもないですよ」


 女の子なら、早ければ十代のうちに嫁ぐことも少なくはない。縁談は二十過ぎにはまとまることが普通だろう。ダリアも、遅くともあと五年も経てばそういう話が出来ていても何もおかしくはなかった。


「お姉ちゃんとお義兄さんはずっと前から好き合った同士だったし、お兄ちゃんとお義姉さんも仲が良いし……私は、誰かとそういう仲になることが、想像できなくて。いつか私も、ちゃんと大人になれるんでしょうか」


 その前に、今の危機を乗り越えて生きられるかどうかも分からないのだけれど。


「……さてな。俺には「ちゃんと」が分からんからな」


 ソホはふんと笑ってひとつ尾を振ると、何かに気付いて立ち上がった。その視線の示す先、廊下の奥から、魔法使いが姿を現した。


「おはよう、ふたりとも。早速だが朝御飯にしよう。今日は大仕事だからね、よろしく頼むよ」


「大仕事?」


 首をかしげるダリアに、モナルダは穏やかな赤い瞳を煌めかせて頷いた。


「あんたの石を探しに行くよ、この世ならざる世界へ」

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