緋哀~昼夜編

三好和也

第1話 ゼノンのパラドックス

講義室はお世辞にも綺麗とは言えなかった。消しゴムのかすは机の上に残ったままだし、その汚い机にはアリストテレスやらプラトンといった尊敬すべき偉人の顔の落書きがされていたりもした。それでもこうして集中して講義を受けていられるのはここの教授が優秀であるからだな、と川村新(かわむらあらた)は思った。縁に黒いインクが少しついたホワイトボードを見ながら新は教授、水野春樹(みずのはるき)の話を静かに聞いていた。

「ゼノンのパラドックスとはエレア派のゼノンの議論で、パルメニデスを擁護してなされたいくらかの論駁の事だ。と堅苦しい言葉で言っても伝わりにくいだろう。というわけで例を挙げて説明していく。ではまず有名な亀とアキレスについてだ。スタートからまず亀が走り出す。そして亀が10m先についた時に、スタートのアキレスが走り出す。ピクニックにいくかのようにウキウキしながらな。そしてアキレスが亀のいる10m地点についたときには亀はいなかった。なぜか。既に亀はその先にいるからだ。これが永遠と繰り返されていき、アキレスは亀には追いつけないわけだ。」教授はそう言う。

しばらくして講義が終わり、新は身体を伸ばしながら講義室を出た。猫や犬といった動物がそうするようにゆっくりと固まった身体をほぐした。そうしながら歩いていると、後ろから声をかけられた。振り向くとそこには水野教授がいた。

「君は確か、二年の川村君だったかな?」と教授は聞く。そうですと僕は答える。

「少し話したいことがあるんだ。君に興味がある。少しでいいんだよ、少しで。」教授は笑顔でそう言った。何だかとても暖かい笑顔だ。

「構いませんよ。僕も暇だったので丁度よかったです。」僕は少し怪訝に思いながらも、相手に合わせるように笑顔でそう言った。

「よかった、なら私の私室へ行こう。ついてきたまえ。」教授は楽しそうに言って私室へ向かった。

私室の樫のドアを開け、ごく当たり前であるかのようにコーヒーを淹れ、ソファーに座る。僕も同じようにする。教授の部屋はいささか散らかってはいたが、話すには大して問題ではなかった。

さて、と教授は切り出す。ハリのある声だ。

「君に質問だが、『正義』という言葉について君はどう思う。」

不思議なことを聞く教授だ…正義?考えたことも無い。「正義ですか…」僕は少し考えた。「僕はそんな言葉が大嫌いですね」間を置いてからはっきりと言った。

「ほう、どうして?」教授は笑いながら、しかし真面目な雰囲気で聞く。

「正義という言葉ほど万人に愛される言葉はないでしょう。しかしそれでも僕はそれが万能ではっきりとしない言葉なので嫌いです。血だまりのような臭いがする。」少しぶっきらぼうに僕は言う。これは本心だ。それは変わりない。

「血だまりのような臭い…」教授はその言葉の意味を考える。「君はそんな臭いを嗅いだことはあるのかい?」教授は目を細め、コーヒーを飲みながらそのままの雰囲気で聞いた。

「ものの例えですよ。もちろんそんな臭いは嗅いだことはありません。ただ…魚を捌いた時の生臭い臭いに近い感じなんでしょうね。詳しくは知りませんが。」笑いながら僕は答える。脳裏には捌かれ、こちらをじっと睨む魚がいる。裁かれた腹からは鮮やかな色をした内臓が吐出し、朱い血が滲んでいた。そんな様は誰が見ても心地の良いものでは無いだろう。

それでも人間は魚を食べたいのでやはり捌く。手際よく頭をとり、腹を切り、内臓を出す。しかしその間に魚に痛みはあるのだろうか。あるいは無かったとして彼ら(彼女らかもしれない)には、憎悪や恐怖といったものはあるのだろうか。あるとしたら、我々に向けられるそれはとても恐ろしく意味のある眼差しに思える。こちらが魚をのぞいているとき、魚もまた、こちらをのぞいている。

教授は興味深そうにこちらを見つめ「だとしたら君は独特なもののたとえ、表情をしたことになる。私はそんな独特な表情は嫌いじゃない。むしろ評価に値すべきだと思うよ」僕がコーヒーを飲み干している間にそう言う。

「点数をつけるなら?」

「七十点」ぶっきらぼうに先生は言う。

「満足とはいきませんね。そんな点数では。」僕は素っ気なく言う。本当に率直な言葉だ。

教授は笑いながら「残りの三十点については、君なりに考えてみたまえ。」コーヒーを飲み干し、そう言う。頬には微かな笑みが感じられた。

それからしばらく別な話をする。アリストテレスの話、パスカルやマルクスの話。本当に色々な話だ。一時間程経過した頃だろうか。時計の鐘が鳴った。

「さて、そろそろ時間だね。君も私もそろそろ戻らねばならないようだ。いくら優秀な君も講義に遅れてはたまったものではないだろうし、私も仕事を残してしまっているんだ、すまないね。」笑いながら教授は言う。

「はい、そうさせていただきます。実に有意義で楽しい時間でした。」そう言って僕は私室を出る。

教授の話は面白かったし、話していて苦になるものではなかった。少なくとも現段階では。でもなにか引っかかるところがあるのも事実だ。どこか普通ではない所…。神は我々を人間にするために欠点を生む。そうウィリアム・シェイクスピアは言う。だとするとそんな引っかかりという欠点を持つ教授もまた人間なのだろう。

完璧などない。あるとしたらそれは完璧であるが故の矛盾による綻びを生み、それを完璧でないものとする。

全能者のパラドックス…

人という概念であるうちはその考えでいるしかない。完璧というものはそういったものなのだろう。人には到底理解ができない。

それでも僕たちは考える。

そして長い夜が始まる。

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