第32話 ブーゲンビリアと「         」

 どこまでも曇天が続く空の下。

 色彩を失ったかのような灰色の街並みを歩く、一つの人影があった。

 布切れ同然のコートを肩に引っ掛け、足を引きずって歩く。目線は定まらず、行く当てもないように彷徨う姿はさながら幽鬼のようだ。

 腕には何か黒色の塊を大事そうに抱えている。まるで、自分の命がそこに封じられているかのように。

 足元に気が付かず、虹色の膜が張った水溜まりを踏み抜いてしまった。彼は避けようとして、思わずよろける。


『まったく、ドジなんですから』何処からか、誰かが言う。

「うるさいなぁ」彼は何処かに向かって返答する。その声には共鳴音ハウリングが混ざっていた。

『体調はいかがですか?』

「大丈夫だよ。それ以外を色々と犠牲にしたからね」

『無理は禁物ですよ』

「大丈夫だってば。もう少し歩いたら休憩するよ」

 風が吹いて、コートが後ろにはためいた。過度に強い負荷をかけ続け、フレームが曲がってしまった足が露わになる。自然な歩き方ができないのはそのせいだった。

 彼は立ち止まり、空を見上げた。

 この世界の天井を形作る黒雲は地上に一筋の光芒も通さない。ぼんやりとした薄明の光だけが、地上を霧のように覆っている。

 彼は上を向いたまま歩こうとしない。

 道は地平線の向こうまで途切れることなく続いている。しかし、彼は目の前で全てが絶たれたかのように、その場で立ち尽くしていた。


「僕は何時まで、何処まで、歩き続ければいいんだろう」

 彼は虚空に向かってそう呟いた。

 今度は何処からも返答がない。

「もう、疲れた」

 彼はその場で座り込んでしまった。地面に手を突き、落ちていたガラス片を握り締める。

「これ以上、もう、僕は」

 偶発的に、過去の記憶トラウマが線で結ばれた。この経験もこれまでで何度目だろうか。理由もなく唐突に訪れる絶望は、ただ立つ気力すらも侵食し削り取る。

 これ以上生きていてどうなる? 未来にゴールがあるなんて約束はない、この惨めな人生が報われるという保証もない。

 この道も、この空も、この世界も、誰も僕に見向きなどしない。

 無駄に生まれて無為に生き、無残に死んでゆくのが、僕の人生なのか……。

 彼は地面に頭を擦り付け、声にもならない嘆きを上げた。




『空が……』何処からか、誰かが言う。

 彼は顔を上げた。失意に染まった視界には、灰色の景色しか映らない。

『後ろです。後ろを見てください』

 背中に覚えた、穏やかな『何か』。

 温かい波と、花の香りと、水溜まりに映る青色。


『雲が、晴れます』

 彼の背後で空が裂け、澄んだ色の光が溢れた。その隙に垣間見える、深い青。

 目の当たりにする景色は絶望の最中に咲いた希望のように、世界を順番に照らし始めた。

 太陽は地上のすべての存在に分け隔てなく温度を与える。視界の限りに色が取り戻されてゆく気がした。

 

「         」

 彼の口を突いて言葉が出た。

 その一言だけで、この先待ち受けるどんな困難をも乗り越えて行ける気がした。




 

 大丈夫。

 僕は、まだ生きています。


 空には薄く虹が架かっていた。

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