第2話 魔獣の王の目覚め
どれほど山の中を歩いただろうか。
既にドレスはボロボロになり、ディアナの体にはそこかしこに小さな傷が出来ていた。
一応屋敷の裏口に置いてあった歩きやすそうな靴に履き替えてきたディアナであったが、それでも所詮は町中を歩くための靴で登山靴ではない。
本当はドレスも動きやすい服に着替えたかったのだが、服は使用人にいつも着替えさせてもらっていたため何処にあるのかもわからなかった。
それに下手に屋敷をうろついて、家を出る事を気がつかれるわけにもいかず。
「はあっ。はぁっ」
息が切れる。
使用人の目を盗んで、嘘の置き手紙をしてまで飛び出してきたが、いつ追っ手が掛かるともわからない。
できるだけ奥へ、奥へ。
その気持ちだけが私の体を動かしていた。
「もう真っ暗……まだ主様の洞窟にはつかないのかしら。どこかで眠ってまた明日日が昇ってから動いた方が良いかな」
登り始めてどれくらい時間が経っただろう。
主様の住むという洞窟まで続いていると聞く一本道を、私はひたすら登っていた。
山登りなど今まで一度もしたことがない足は、既に棒のようになって久しい。
それにお腹もかなり空いてきた。
日も暮れかけて暗くなってきて、早くどこか場所を見つけて休みたい。そう思っていた時だった。
進む先、少し明るくなっている場所が目に入る。
私は疲れ切った体に鞭打って、その場所に向かって歩みを進めた。
そこは中心に大きな岩があり、その周りだけ不思議と木は生えておらず草が一面に広がって広場のようになっていた。
そして開けた空から満月の光が降り注いでいる不思議な場所。
ディアナはゆっくりとその大岩に近づくと、そっと表面を撫でる。
その岩は昼間日の光にでも晒されていたせいか少し暖かさを残していて。
「痛っ」
突然岩をなでていた指先に、針で刺されたような痛みが走る。
どうやら岩の表面にトゲのように尖った場所があったらしく、指先から少し血がにじみ出していた。
ディアナは痛めた指先を口にくわえると、他に怪我をしそうな突起がないかを確かめつつ岩を背にして座り込む。
岩肌から背中全体に温かさが伝わってきて、体中の痛みも疲れがゆっくりと溶けていくように感じた。
ふと上を見上げると、ぽっかりと開いた木々の間から眩い月と星空が見える。
「これが最後に見る星空になるかもしれないわね」
綺麗な星空を見上げ、そう呟きながらディアナは横に下ろした鞄の口を開く。
中には部屋を抜け出す時に、高級なお菓子を色々詰め込んできたのだ。
それは卒業式で友人からもらった物で、王都の有名店から取り寄せたと自慢げに語っていたのを思い出す。
「これから死のうってのにお腹は空いちゃうのよね。でも山の主様に丸呑みしてもらうより餓死するほうがつらそうだし」
適当に数個ほどお菓子を口にした後、ディアナは疲れ切ってパンパンに張ったふくらはぎをマッサージする。
通常ふにふにと柔らかなふくらはぎは、慣れない登山のせいでカチカチに硬くなっている。
それだけではなく、足をむき出しのまま山道を歩いてきたせいで細かい傷が沢山付いているではないか。
「お嬢様の足じゃないわよね、これ」
ディアナはそうぼやいて空を仰ぐ。
先ほどより月の位置が変化しているおかげで、星空がよく見えるようになっていて――。
やがて疲れ切っていた彼女はそのまま眠りに落ちていったのだった。
◆◆◆◆◆◆
『――きろ――』
暖かい日差しが、深い眠りに落ちていたディアナの体を温めている。
『――さっさと――きぬか』
誰かの声がする。
たしか私は昨日山奥で一人で眠ったはず。
ディアナは深い眠りからゆっくりと浮上しつつ思う。
『起きろと言っておる!』
「きゃあっ! 私、絶対家には帰りませんわっ!」
強めの語気で放たれたその声に一瞬で目を覚ましたディアナだったが、まだ少し寝ぼけているようだ。
その上、寝起きにあまりに勢いよく立ち上がったせいでふらついてしまう。
『むぅ。やっと起きたか』
ぽすん。
急に立ち上がり貧血をおこしたせいでディアナは体をふらつかせ背中から倒れ込む。
そしてそのまま背後にあるはずの大岩に頭をぶつけると思ったのだが。
予想外に体に伝わってきたのはまるで羽毛ベッドに倒れ込んだかのような柔らかな感触で――。
「えっ、なにこれ」
『何とは失敬な。我の尻尾をずっと布団代わりに掴んだまま離さなかったのはお前だぞ』
「尻尾? 尻尾って何のこと?」
私は混乱しながら声の方に顔を向けた。
そこには巨大で凶悪な獣の顔がディアナに鋭い牙を見せつけるようにして睥睨していた。
「ッッッ!!!」
『どうした?』
「ば、化け物っ」
その言葉を受けて、一瞬魔獣はとても微妙な表情を浮かべたがディアナはそんなことを気にする余裕もなく。
「た、食べないでくださいっ」
必死に逃げようとするが、腰が抜けたのか立つことも出来ずじりじり後ろに這って逃げることしか出来なかった。
だが、その先にあったのは白銀の毛で覆われた魔獣の尻尾。
ディアナはその時初めて自分が魔獣の長い体でぐるりと囲まれていることに気がついた。
「あああっ、神様っ」
完全に逃げ道を塞がれたディアナは、恐怖のあまり目をぎゅっと瞑って両手を握りしめ天に祈りを捧げた。
苦しい時の神頼み。
別段熱心な国教信徒でもないディアナが、生まれて初めて本気で神に祈りを捧げた瞬間であった。
『まったく。お主は一体何なのだ。そもそも我を封印から解き放ったのはお主ではないか』
「へ?」
『もしや我を目覚めさせたのはお主ではないのか?』
「私しらない」
『ふむ、少し調べさせて貰うぞ』
魔獣はそう言うと、その鼻先をディアナのおでこに付くくらいまで顔を寄せると、なにやら『くん、くん』と匂いを嗅ぎ始めた。
昨日着の身着のままで山登りし、汗と汚れを洗うことも無いまま眠ったことを思い出した彼女は、こんな状況なのに体臭を気にして頬を少し染める。
『臭う。臭うぞ』
「ええっ。やっぱり臭います?」
ディアナは恐怖も忘れて、慌てて自分の腕の臭いを嗅いでみる。
確かに少し汗の匂いはするものの、思ったほどではない。
目の前の魔獣はもしかしてかなり臭いに敏感な種族なのだろうか。
「そんなに汗臭くはないと思うのですけど」
『本当に何を言っておるのだ貴様は』
魔獣は凶悪な顔に呆れたような表情を浮かべて顔を引くと、ディアナの目を見つめ返し、その凶悪な口を開く。
『お主からはあのクソ忌々しい王族と同じ血の臭いがすると言っておるのだ』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます