第1話
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彼女は、この世界の不適合者だったのかもしれない。彼女は、死を恐れていなかった。いや、死を嫌ってはいなかった、という方が近い。だって、一回は僕に殺しを命じたのだから。
彼女は、僕に殺人を要求したとき、こう言っていた。
「死ぬなら、愛された人に首を絞められたい」
だから、お願い。切れ長の睫毛をくねらせて、彼女は自分のベッドで仰向けになり、そう言った。僕は彼女の下肢に乗っかっていた。ここで愛した人、と言わないのがなんとも彼女らしい。
彼女の部屋は酷く散乱していて、そもそも死ぬ人間が部屋を綺麗に保とうが関係ないので、それは気持ちのいいぐらいの荒れ方だった。彼女が大事にしていたであろうクッションも中の綿が出て散っていたし、本棚は倒れ、乱雑に畳まれた洋服は床に雑巾代わりとして利用されていた。
「本当にいいの?」
恐る恐るそう尋ねると、彼女は早くしろと言わんばかりに綿の漏れたクッションを僕に投げつけた。
僕が首に手を添えると、彼女は紅のリップで塗った唇の端を噛んだ。彼女の首は僕の手より遙かに冷たく、死者のそれを思わせた。今思えば、彼女の乱れた洋服の着方が問題だったのかも知れない。フリルショートパンツを履いていた。季節は冬だった。
僕は感じる冷たさに後を引けなくなって、一気に力を込めた。うっ、と息を詰まらせたような耳障りな音がして、背中に冷や汗が伝った。
さらに力を加えると、彼女は必死に耐えていた。健全に死ねる方法なんて、そうあったもんじゃないな。と思った。ぐえっと蛙が潰れたような声を出す。
彼女が力強く噛んだせいで、唇から血が垂れた。その鮮血が僕の両手に触れる。それで初めて、僕は生き物を殺している。という実感を持ってしまった。
一瞬だった。力が緩む。彼女は、最後の力を使って、僕を振り払った。
ゼエゼエと肩で息をする彼女に、僕は少なからず安堵を覚えた。それは、殺人の一線を越えなかったものかもしれないし、彼女の殺人の役目を終えたと思ったものかもしれない。
彼女は、粗方息を整えると、口の周りの血を舐めた。どうやら、それが彼女にとって気色の悪いものだったようで、機嫌の悪い顔にさらに不機嫌の三文字を足していった。
僕をギロリと睨み付けると、さも僕が悪いみたいに顔を近づけて……。
彼女が、言葉を発することはなかった。僕を何秒か睨み付けると、何もなかったかの様に衣服を整え始めた。寒すぎるその格好に厚手のカーディガンで覆った。
居心地の悪い空間だった。僕は、逃げるようにその部屋を飛び出した。
彼女が死んだのは、それから五ヶ月後のことだった。
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