第8話 その真っ赤な唇の呼んでいた名前
その夜は、海辺で休もう、とミルが言った。
私は車が止められるところならどこでも良かったので、彼女の言う通りにした。実際、私も海は初めてだったので、その近くまで寄ってみたい、という気持ちも多かったのだ。
ずっと走ってきた道路は結構な高さがあったから、下へ降りる道を苦労して探し、ようやく砂浜までたどりついた時には既に陽が暮れていた。
夜走るのは好きではなかった。
延々続く闇を、ライトの灯りだけでまっすぐ走ると、次第に自分がその闇の中に引き込まれて行きそうな気がする。
闇はそのまま、自分達の未来を思わせる。行き止まりの世界。外へ逃げることもかなわず、閉じこめられたまま、いつか必ず死んでいく。
引き込まれていく。闇の中へ。自分の力ではどうにもならない、暗い、深い闇の中へ。
それが今まで人間が地球に対してしてきたことの代償というなら、それはそれで構わないと思う自分もいる。
だがその一方、ただそれを怖い怖いと思い、逃げ出したい自分もいるのだ。
ラジオの音が、微かに聞こえる。だが今は、波の音の方が大きい。ただ延々と、同じくらいの高さの音が私の耳には鳴り響いている。
くりかえし、くりかえし。……眠くなりそうなほどに。
私はいつの間にか、眠ってしまったらしい。
*
目を覚ました時は、それでもまだ朝ではなかった。ただ、開いた扉から入り込む風と、潮の香りが首筋をよぎったのだ。月の光が、まぶしかったのだ。
空はまだ暗かった。腕時計を見ると、まだ二時だった。
晴れた夜空には、半分の月と、満点の星。降り注ぐような、というのはこういうことを言うのだろうか。きらきらと輝く星々は、目をこらすと、どんどんその数を増やしていき、空いっぱいを埋めていることに気付く。
このどこかに、星間歴を成立させた、遠い場所もあるのだ。ここは取り残され、どこかの宗教で決められた暦を未だに守り続けている。
あの向こう側に行けたら。
そう思ったことが無い訳ではない。いや、今でも心の片隅では思っているのだ。確実に。
ただそれがどうしても無理なことが判っているから、せめてもの思いで、遺伝子だけでも残そうと、こうやって走っているのだが。
遺伝子だけで、満足なのか?
私は首を横に振る。そんな訳がない。そんなものは、言い訳にすぎない。
できることなら、この惑星を飛び出して、妻と二人、生きていきたいのだ。こんな、どんなものが生まれ出てくるか判らない「遺伝子」に頼るより。
そんなことを思いながら、私はふらふらと砂浜に足を伸ばした。
二人はどこへ行ったのだろう。いつの間にか、私は彼らを置いて行こうという気が失せていることに気付いた。目が探していた。砂浜を、テトラポッドを―――
「あ」
ふと、そんな声が自分の中から漏れた。通ってきた、上の道路の橋桁が、そこには大きく、柱の様に砂浜に突き刺さっていた。
その陰で、人の動く気配がした。
「ナ……」
ガサキ、と呼ぼうとして、私は言葉を止めた。
コンクリートの橋桁に背をつけて、彼は座っている。
月の明かりが、まだ少年ぽさを残した彼の顔を照らし出す。その顔が、時々苦しそうにゆがむ。腕が、何かを―――
彼女の身体を、かき抱いている。
砂浜に腰を下ろした彼の上に、彼女は大きく足を広げて、乗りかかっている。何をしているのかはすぐに判った。
むき出しになった腕が、足が、相手の身体に巻き付いている。
月明かりに、それはただ白い。
彼女が昼間は隠すように袖の下にしていた火傷のあとも、月明かりには、かき消えてただ白い。
その腕が相手の首に回る。その身体を、彼は腰のあたりで抱え込むと、時にはゆっくり、時には激しく、上下に左右に揺さぶっている。
そのたびに、押し殺す様な、それでいて漏れずにはいられないような、ミルの声が聞こえてくるのだ。
その唇が、時々何かの形に動く。大きく開いて、閉じて、また開いて。
名前を呼んで。
妻はそんな時、そんなことを言った。
ナガサキの口も、何かの形に動く。名前を呼んでいるのだろうか。私は苦しそうに目を閉じる彼の唇を追った。
彼は大きく口を開けた。
何度も、何度も、その言葉を繰り返した。
でも彼女の名前に、そんな発音は、ない。
「―――カモン……」
ナガサキは、そう叫んでいた。
どういうことだ、と私は思った。
気がついた時、刺す様な視線が自分に注がれていることに私は気付いた。
胸で相手の顔を覆うようにして、ミルは私の方を向いていた。
服に隠れた胸は、その姿を月の光にさらすことはしなかったけれど、その隠れた部分の上を男の唇が、舌が動き回っていることは、想像ができた。
彼女は時々目を軽く細めながら、改めて私がいるのに気付いたというように、にっこりと笑った。
消えて、とその唇が動く。
あんへると名前を呼んでいたその真っ赤な唇が。
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