第8話 その真っ赤な唇の呼んでいた名前

 その夜は、海辺で休もう、とミルが言った。

 私は車が止められるところならどこでも良かったので、彼女の言う通りにした。実際、私も海は初めてだったので、その近くまで寄ってみたい、という気持ちも多かったのだ。

 ずっと走ってきた道路は結構な高さがあったから、下へ降りる道を苦労して探し、ようやく砂浜までたどりついた時には既に陽が暮れていた。

 夜走るのは好きではなかった。

 延々続く闇を、ライトの灯りだけでまっすぐ走ると、次第に自分がその闇の中に引き込まれて行きそうな気がする。

 闇はそのまま、自分達の未来を思わせる。行き止まりの世界。外へ逃げることもかなわず、閉じこめられたまま、いつか必ず死んでいく。

 引き込まれていく。闇の中へ。自分の力ではどうにもならない、暗い、深い闇の中へ。

 それが今まで人間が地球に対してしてきたことの代償というなら、それはそれで構わないと思う自分もいる。

 だがその一方、ただそれを怖い怖いと思い、逃げ出したい自分もいるのだ。

 ラジオの音が、微かに聞こえる。だが今は、波の音の方が大きい。ただ延々と、同じくらいの高さの音が私の耳には鳴り響いている。

 くりかえし、くりかえし。……眠くなりそうなほどに。


 私はいつの間にか、眠ってしまったらしい。



 目を覚ました時は、それでもまだ朝ではなかった。ただ、開いた扉から入り込む風と、潮の香りが首筋をよぎったのだ。月の光が、まぶしかったのだ。

 空はまだ暗かった。腕時計を見ると、まだ二時だった。

 晴れた夜空には、半分の月と、満点の星。降り注ぐような、というのはこういうことを言うのだろうか。きらきらと輝く星々は、目をこらすと、どんどんその数を増やしていき、空いっぱいを埋めていることに気付く。

 このどこかに、星間歴を成立させた、遠い場所もあるのだ。ここは取り残され、どこかの宗教で決められた暦を未だに守り続けている。


 あの向こう側に行けたら。


 そう思ったことが無い訳ではない。いや、今でも心の片隅では思っているのだ。確実に。

 ただそれがどうしても無理なことが判っているから、せめてもの思いで、遺伝子だけでも残そうと、こうやって走っているのだが。


 遺伝子だけで、満足なのか?


 私は首を横に振る。そんな訳がない。そんなものは、言い訳にすぎない。

 できることなら、この惑星を飛び出して、妻と二人、生きていきたいのだ。こんな、どんなものが生まれ出てくるか判らない「遺伝子」に頼るより。

 そんなことを思いながら、私はふらふらと砂浜に足を伸ばした。

 二人はどこへ行ったのだろう。いつの間にか、私は彼らを置いて行こうという気が失せていることに気付いた。目が探していた。砂浜を、テトラポッドを―――


「あ」


 ふと、そんな声が自分の中から漏れた。通ってきた、上の道路の橋桁が、そこには大きく、柱の様に砂浜に突き刺さっていた。

 その陰で、人の動く気配がした。


「ナ……」


 ガサキ、と呼ぼうとして、私は言葉を止めた。

 コンクリートの橋桁に背をつけて、彼は座っている。

 月の明かりが、まだ少年ぽさを残した彼の顔を照らし出す。その顔が、時々苦しそうにゆがむ。腕が、何かを―――


 彼女の身体を、かき抱いている。


 砂浜に腰を下ろした彼の上に、彼女は大きく足を広げて、乗りかかっている。何をしているのかはすぐに判った。

 むき出しになった腕が、足が、相手の身体に巻き付いている。

 月明かりに、それはただ白い。

 彼女が昼間は隠すように袖の下にしていた火傷のあとも、月明かりには、かき消えてただ白い。

 その腕が相手の首に回る。その身体を、彼は腰のあたりで抱え込むと、時にはゆっくり、時には激しく、上下に左右に揺さぶっている。

 そのたびに、押し殺す様な、それでいて漏れずにはいられないような、ミルの声が聞こえてくるのだ。

 その唇が、時々何かの形に動く。大きく開いて、閉じて、また開いて。


 名前を呼んで。


 妻はそんな時、そんなことを言った。

 ナガサキの口も、何かの形に動く。名前を呼んでいるのだろうか。私は苦しそうに目を閉じる彼の唇を追った。

 彼は大きく口を開けた。

 何度も、何度も、その言葉を繰り返した。

 でも彼女の名前に、そんな発音は、ない。


「―――カモン……」


 ナガサキは、そう叫んでいた。

 どういうことだ、と私は思った。


 気がついた時、刺す様な視線が自分に注がれていることに私は気付いた。

 胸で相手の顔を覆うようにして、ミルは私の方を向いていた。

 服に隠れた胸は、その姿を月の光にさらすことはしなかったけれど、その隠れた部分の上を男の唇が、舌が動き回っていることは、想像ができた。

 彼女は時々目を軽く細めながら、改めて私がいるのに気付いたというように、にっこりと笑った。

 消えて、とその唇が動く。

 あんへると名前を呼んでいたその真っ赤な唇が。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る