*彼女と私と黒い男

「ごめん、なんて?」


 会話の流れをせきとめざるを得なくなった。本から顔を上げる。あと一文で次のページをめくれたのに、その手を強制的に止められた気分だった。

 読書を中断させた女は、私の知るかぎり、この世でもっとも話の通じない相手だった。


「もう。聞いてなかったのかよ?」


 可愛く頬を膨らませるわりには、乱暴な口調で睨んでくる。この視線を送られるたびに私は、女友達に向ける目じゃないよね、と言いたくなる。彼女は私の様子に気付いているのか否か、とにかく話し出した。


「妖怪だよ、妖怪。あたしは見たんだよ」

「なに言ってんの」

「まあ疑われるとは思ってたぜ。でもな、さすがに実物を見たら信じるしかねえだろ」

「待って嫌な予感が」


 言い切る前に、彼女は公園のベンチから立ち上がった。後ろを向いて大きく手を振る。こっち来いよ、と叫んでいる。

 公園とはいえ、夕方となれば人も少ない。それがこの場において唯一の救いだった。

 私は振り返らず、何者かが正面に来るのを律儀に待った。





 公園で読書中の私に話しかける人は彼女くらいだ。特に約束しているでもなく、ただ気が向いた日に来ると、彼女と遭遇することが多いだけ。毎回会っているわけじゃないし、お互いのことを深く詮索したりもしないから、友達というには少し距離があるのかもしれない。


 それでも、私と彼女は友達だった。


 彼女が突拍子もないことを口走るのは常であり、また彼女がどんな例外にも当てはまるような相手だということは自明だった。

 妖怪を見たという彼女の話を聞いて、私は心中穏やかじゃなくなっていた。


「紹介する。こいつは妖怪だ。昨日、ちょうど今ぐらいの時間に出会ったんだよ。すげえんだぜ、こいつ、オレンジ色の空を飛んでたんだ」


 胡散臭い。


「じゃあ飛んでみて」


 棘のある言い方になってしまった。

 けれど、揶揄からかわれているのだと思わずにはいられなかった。妖怪、すなわち人ならざる者。そんなものが存在するのは空想の世界のみだ。


 こいつ、と指を指されたのは男だった。面白みのない顔をしている、普通の人間だ。羽が生えているわけでもないし、くちばしがあるわけでもない。どう見えも妖怪とは思えない。


「ね、病院紹介しようか。それともつねられたい?」

「乱暴だなおい」


 うそじゃない、と彼女がうそぶく。


 男は私たちの会話を聞いても顔色一つ変えない。迷惑がられるか、気まずそうにするか。とにかくなにかしらの反応はありそうなものだが、表情や態度に変化は訪れないまま。演劇をする人でも雇ったのだろうか。

 強いて言うならば、ほんの少しの好奇に満ちた目を、私と彼女に向けている。


 変な男。


 私は意地の悪い質問を投げかけてみた。


「飛ばないの?」

「……」

「聞いてます?」

「そうカリカリすんなよ。こいつ、妖怪だから人間の言葉を喋れねえんだよ」

「……」


 彼女は男に見せるように両手をバタバタと動かした。どうやら羽を表現しているらしい。出来の悪いジェスチャーを見せつけられている男が可哀想になる。


「この馬鹿ばかがごめんなさい、もう付き合わなくていい……」


 言葉に詰まった。

 ほらなほらな! と私の右肩を叩くやつさえ遠くの景色に感じる。

 夕焼けの影に潜むような黒が現れた。真っ黒のふわふわしたなにかは男の背中から生え、男を挟み左右でどっしりと揺れている。

 まるでカラスの羽——そんなわけがないのに。幻を見ている。


「……」


 男が口を動かした。なにを言っているのかわからない。

 バサっと空気が叩かれる。黒が動いた。緩やかに折れて、ゆるりと伸びる。風圧に私の前髪が波打つ。


 彼女やつが言った。


「飛ぶぞ!」


 オレンジ色の中を黒が泳ぎはじめた。


「……ちょっと、つねってくれない……?」


 痛かった。

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