第44話『六男』

「ふう、どうやら撒けたみたいだ」


 黒い気配をまとった人間たち。

 彼らが追ってくる気配がないことを確認して一息つく。


 どうやら身体に魔力が流れている様子から、彼らは生きているらしい。

 ならばと、気絶させようとしたが、常人であれば気絶するほど衝撃を与えても動きを止めない。

 殺してしまうわけにもいかず、森に駆け込んで撒いてきたのだ。


「……さらに濃くなってきましたね」

「ああ。しかもこの先はバレル湖だ」


 考えたくはなかったが、この波動は十中八九——

 嫌な思考を振り切るように湖の方へと足を進める。

 そして木々の間を抜け、辿り着いた場所には過去に見たものとは似ても似つかない、一面を黒い靄に覆われた湖があった。

 どうして当たってほしくない予想ばかり当たるのか。


「黒い、湖?」

「……ケリュネアの封印が破られてる」


 ケリュネアが施した封印は湖に施されていたはずだ。

 しかしいま、黒い靄は明らかに湖の中より湧き出ている。——《願いの坩堝》へと続く道のある湖の中から。


「黒い湖……?」


 彼女の言葉にはっとする。

 この場所は、加護があったときの木の繭と同じ状態なのだ。そのあまりに密度の濃い精霊の力は只人でもその姿を捉えることができるまでに高まっている。

 生来より精霊を見ることができた彼女には、その色さえも認識できるほどに。


 ——このまま飛び込んでもよいものか。

 そう思案し始めたのも束の間、となりに立つクロさんの肩がぴくりと跳ねたかと思えば、次の瞬間には身を翻して警戒の構えを取る。

 彼女の鋭敏な聴覚よりもわずかに遅れて背後の物音に気がつき、追手かと視線を向ければ、現れたのは武装した兵士。そして、よく見知った顔だった。


「お前! な、なんでこんなところに!?」

「……シックス兄上」

「これが我が君の兄君?」


 なぜか脇で疑問の声を上げるクロさんを放置して、正面にいる男を見つめる。

 俺に気がついた瞬間、びくりと肩を震わせた長身痩躯の男。

 兵士の中心で護衛されながらも怯えたような表情でこちらを見つめる様を見る限り、俺が国を出されてからも変わってはいないようだ。


 ただ一人俺に無害だった、一番年の近い兄。

 よりによって王族に出くわすとは。

 正直、なんでこんなところに、なんて言葉は俺の——。


「……兄上。その返り血はいったいなんですか?」

「は? 呪いにかかって襲ってくるあいつらを斬ったんだ。まさか、これ、お前の仕業——」

「斬った? まさか、あの人たちを殺したのか!?」

「あ、当たり前だろ。呪われた奴を殺して何が悪い」


 いったい何を言っている?

 あの人たちは生きていた。まだ、生きていたのに!


「おい貴様っ、止まれ!」

「!」


 兵士の一人が俺に抜身の剣を向け、鋭く発した警告に足を止める。

 カッ血が熱くなり、無意識のうちにつかみかかろうと歩き出していたようだ。

 同時に、制止のために真横へと伸ばした右手をゆっくりと降ろす。

 俺が足を止めたのは警告よりも、どちらかといえば彼女の発した殺気の方だった。


「しばらく見ないうちにデカい態度になりやがって。……この反応、やはりこの呪いの犯人はお前だな! でなければここにお前がいる説明がつかない。よくよく考えれば、呪いが始まったのもお前がいなくなってからだった」


「……どういうことだ?」


「とぼけるな! このバレル湖に呪いを流し込んで民たちの正気を失わせたんだろう?

 お前のせいでこの水を汲み上げていた区域の民をほとんど殺すことになった」


 その言葉に絶句する。

 冗談だろ? この湧水道の水を使う区域だけでいったいどれほどの人数がいると思ってる。そのほとんどを、殺した?

 しかし今、込み上げる眩暈がするほどの怒りに支配されるわけにはいかなかった。

 こんな展開になった以上、この兄が次に言うセリフなど容易に想像がつく。


「戦争……戦争だ! 馬鹿なヤツだ。エンドゥスなんて小国が大国に喧嘩を売ってしまったらどうなるか。この国の力忘れたわけではあるまい?」


 やはりこうなったか。

 自分は前線に出たがらないくせに戦争を煽るこのクセもまた、健在だったようだ。

 ——ガイランドは戦のさい、必ず王族が前線に出向き、武勲を立てなければならないというしきたりがある。

 このシックスの代わりになんど戦場に赴いたことか……。


「兄上、待ってくれ」


「命乞いか? そういえば、昔からお前は得意だったな——」


「シックス兄上がこの場所にいるということは、名が下ったんだろう? ——この呪いを解決して来いと。だからこそ、治癒と呪いに特化した貴方がよこされたはずだ。ということは解決できなかったとき、待ってるのは——お仕置き」


「ぐっ!?」


 俺の言葉にシックスは顔を一気に青ざめさせ、前のめりになると肩から垂らした長髪が小刻みに揺れはじめる。

 どんなに治癒魔法が得意でも、この兄があの痛みに耐えることができるとは到底思えない。


 俺の姿を見てきたのならなおさらに恐怖は植え付けられているだろう。

 もはや罪を被せることができる弟はいない。

 そんな兄に同情を抱きながら言ってやる。必ず飛びつくはずだ。


「俺がこの呪いを解決してやる。そのときは、それをすべて自分の手柄として持って帰ってもらって構わない。ただし、俺たちのことは見なかったことにしてくれ。——それが条件だ」

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